MAMリサーチ010:1980~1990年代、台湾ビデオ・アートの黎明期(展覧会編)

会期:2024/4/24~2024/9/1
会場:森美術館[東京都]
公式サイト:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamresearch010/index.html

MAMスクリーン019:1980~1990年代、台湾ビデオ・アートの黎明期(上映編)

会期:2024/4/24~2024/9/1
会場:森美術館[東京都]
公式サイト:https://www.mori.art.museum/jp/exhibitions/mamscreen019/index.html

1990年代までの台湾のビデオ・アートを紹介する展示が森美術館で開催された。2015年に台北で開かれた展覧会「啓視録:台湾のビデオ・アート1983-1999」を企画したスン・ソンロンが協力し、同展から選出した10名の作家を資料展示と上映によって紹介している。

台湾は蒋介石国民党政府による言論統制と検閲を受けて、1987年に戒厳令が解除されるまで39年間にわたり美術の分野でも緊縮があった★1。国際的なビデオ・アートの始まりは1963年におけるナム・ジュン・パイク《エレクトロニック・テレビジョン》とされ、日本では1970年代にビデオを用いた作品制作が活発化したが、台湾初のビデオ作品はというと1983年10月、筑波大学に留学していたカク・イフンが進学試験のために発表した3つの作品があたるという。

展示会場では1980年以降の台湾情勢・日台関係および参加作家に関連する出来事を、一部屋をぐるりと囲むように壁に記し、その時系列に沿うように10名を紹介している。彼らの活動を見渡すと、カクに先行して筑波に留学し、1985年に論文を発表したロ・メトクなどの8名が日本、ドイツ、サンフランシスコといった外国との関わりを持ち、戒厳令の解除に先んじる1983年末から1984年において6名が一斉にビデオ作品の制作を開始しているようだ。それらの多くの作品が自らの生きる社会や政治の状況を反映したもので、ビデオを介して社会を照射する表現行為の実践が見られる。

たとえば、ホン・スージェンの上映作《東/WEST》(1984、1987)はクロースアップした唇を映し続けるが、その唇は中央で分断され、左側は中国語、右側は英語を話す。米国籍の取得にまつわる経験を語る二つの唇は常にずれ続け、分割された唇がひとつに調和して声を発する瞬間はついぞ訪れないことを示す。

リン・ジュンジーの《あなたと話したい》(1996)は、ドイツで行なわれたパフォーマンスを記録したもので、「あなたに近づきたい」と発するリンのテープ音声が流れるなか、1メートルほどの鋭利な嘴で顔を覆ったリンが観客のいるスタジオをうろつく。観客とコミュニケーションを取ることができないなか、視界を塞がれているリンが鉄の壁にぶつかると、その衝突音がマイクを介して彼らのいる空間に反響する。

「MAMリサーチ010:1980~1990年代、台湾ビデオ・アートの黎明期(展覧会編)」展示風景[筆者撮影]

さらにガオ・チョンリーの《グルーミング》(1983)は監視社会、チェン・ジエレンの《閃光》(1983-1984)は監視カメラ、チェン・ジェンツァイの《籠》(1988)は言論統制をモチーフとし、ユェン・グァンミンの《皿の上の魚》(1992)は平皿から出られない赤い金魚によって東洋の状況を示す。そうした本展の出品作からは、社会に対する視点を投げかける行為としてビデオ・アートが機能していた様子が窺える。

「MAMリサーチ010:1980~1990年代、台湾ビデオ・アートの黎明期(展覧会編)」展示風景[筆者撮影]

本展のキャプションでは、初期のビデオ・アートを5つに分類している。1「シングルチャンネル・ビデオ」(一画面で構成)、2「ビデオ彫刻」(モニターの物質性を強調し、他のオブジェと組み合わせる立体造形)、3「ビデオ・インスタレーション」(ビデオを用いた空間構成)、4「リアルタイム・フィードバック」(映像の即時中継)、5「パフォーマンスの記録」(出来事の記録)である。

日本のビデオ・アートも上記の分類に従うことができるが、その形式を用いて表現する内容は、台湾の作品群ほどの政治性が見られない。実験映像やインターメディアから胎動した日本のビデオ・アートは、ビデオを扱う際にフィルムというメディウムとの差異、絵画や彫刻といった美術領域の拡張、認知科学や認識論的関心、ジェンダーといったテーマ性が窺える一方で、政治への言及が不思議と少ない。台湾のビデオ・アートが創発した1983年を振り返ると、ビデオ彫刻を手がけていた山本圭吾の個展があったほかは★2、アメリカやオーストラリアのシングルチャンネル・ビデオの紹介が多くを占めている。とくにビデオSCANやMoMAによる全国巡回が目立つ年で、ビデオ・アートが広く受け入れられていた状況が窺える。秋にはハイテクノロジーアート公募展が開催されるなど★3、日本のビデオ・アートにおける80年代前半は新しいデジタルメディアとの出会いに浮き足立つような時期である。

台湾のビデオ・アートおよび歴史を概観すると、自国のムードとも比較され、日本による占領と中国の支配を受けた地続きの流れのうえで制作する彼らの精勤さに学ぶしかない気持ちになる。一方でビデオ、あるいは映像を介する表現に期待される社会的意義と、そうしたこととは関わりなく表出する映像の心地とのバランスとが、ビデオ・アートに普遍的な価値をもたらすように感じられる。そうした魅力のある、上映編に出品された《帰り道で》(1989)と《グラスⅡ》(1997)に触れておきたい。

先述した《皿の上の魚》を制作したユェン・グァンミンは現在も活動を続け、2019年のあいちトリエンナーレには戦争を憂慮する《日常演習》(2018)を出品している。彼による『帰り道で』は、ここでも監視に関わる要素が読み取れるものの、映像が捉える不穏さやコミカルさが表出し、テーマに集約されない言語外の魅力がある。繰り返される道の行き来の様子、映り込んだ猫、暗がりを撮影した際に強調されるデジタルノイズに、カメラやビデオというメディアが捉える肌理のような魅力を感じる。

《グラスⅡ》は《あなたと話したい》のリン・ジュンジーがドイツで行なったパフォーマンスの記録である。横に長い机の上一列に、赤ワインの入ったグラスが10個並ぶ。「生命」「死」「愛」「自由」「瞬間」「制限」「恨み」「現実」「幻」といった言葉のひとつを筆書きしてはグラスに入れ★4、その紙に火をつける。スワリングの仕草でグラスを回し、燃えた灰をワインに溶かす。そしてワインと灰が混ざった液体を口に含み、背後の壁に吹き付ける。これを10の言葉の回数、繰り返す。東洋的な言葉を燃やした灰がキリストの血を象徴するワインに攪拌され、リンの口内で混ざり、彼の唾液とともに噴出して視覚化される。篠原有司男のボクシング・ペインティングにも相当する、リンの置かれた創作環境を示す優れたパフォーマンスである。

これらの作品には、思想やテーマ、メディアの固有性や構造を問うといった、一般的に作品の価値を担保する要素とは別に、カメラが捉える映像記録としての魅力がある。ビデオ・アートが保有する時間の記録。それはテーマや構造に匹敵する、ビデオ・アートにおける重要な要素に思える。台湾のビデオ・アーティストの思想や創作行為、および同時代のメディアであったビデオの記録性が組み合わせられた作品群を前に、現代における映像と美術のあり方を思考させる展示だった。

鑑賞日:2024/7/3(水)

★1──「1980年代末まで蒋介石・蒋経国の政権下にあった台湾では,中華王朝の歴史と文化のみに研究価値があるとの考えから,1895年から1945年までの植民地時代の台湾に美術があったことさえ否定されていた。」王宇鵬「日本統治時代の美術教育が台湾の近代美術に果たした役割―台北師範学校を中心に」(2018)https://www.jstage.jst.go.jp/article/uaesj/50/1/50_393/_pdf/-char/ja
★2──「山本圭吾ヴィデオ展──呼吸によるコミュニケーション」(1983年1月5日〜1月29日、伊奈ギャラリー2)
★3──「オーストラリア・ビデオアート展 VAN第1回企画展」(1983年5月5日〜5月11日、ビデオギャラリーSCANほか全国巡回)。「今日のアメリカ・ビデオ 20の新作」(1983年7月26日~7月31日、原美術館ほか全国巡回。MoMA主催)。「コンピュータ・グラフィックス展(シーグラフ’83)」(1983年8月4日〜8月16日、新宿伊勢丹、静岡に巡回)。「ハイテクノロジー・アート展」(1983年11月5日、月光荘ギャラリー)など。
★4──10の言葉において、残り一つを失念してしまった。ChatGPTに問うと「夢」だと言うが……。