会期:2024/07/18~2024/09/23
会場:愛知県美術館[愛知県]
公式サイト:https://www-art.aac.pref.aichi.jp/exhibition/000440.html
「椅子」の機能や象徴というユニークな観点から現代美術を捉え直す企画展。倉俣史朗やイームズ夫妻といった有名デザイナーの椅子の展覧会は数多いが、本展は、現代美術を通して、権威の象徴、抵抗、拘束、休息、集団化や規律の形成といった、矛盾をはらむ椅子の多様な現われを読み解いていく。本展のポイントは、①既製品の椅子から「座る」機能を奪ったデュシャンのレディメイドで幕を開け、②副産物産店(矢津吉隆・山田毅)が廃材で制作した「来場者が座るための椅子」で終わる点にある。機能の剥奪から機能の回復へという循環的構造のみならず、後述するように、ここには2つの「不在の椅子」が浮かび上がるからだ。
座面、背もたれ、肘掛け、脚という構造が人体をなぞって設計されているように、椅子は家具のなかでも人体との親和性や換喩性が高い。本展で浮かび上がるのは、権力の象徴と抵抗、コミュニティの形成と排除、集団的な規範化と逸脱といった両極を揺れ動く、椅子の多義的なあり方だ。冒頭を飾るのは、木製スツールの座面に自転車の車輪を固定させ、既成品から機能を奪うことで美術作品としたデュシャンの最初のレディメイド《自転車の車輪》である。これに並置されるのが、竹岡雄二のドローイング《マルセル・デュシャン「自転車の車輪」(1913)へのオマージュ》(1986)。歴史的彫刻作品の「台座」を描いたシリーズの一枚であり、デュシャンのレディメイドから自転車の車輪を消し去ることで、美術作品の価値や権威を支える「台座」としての椅子の権力性をあぶり出した。「ただの椅子に再び戻す」転換と同時に、制作当時は美術という権威への挑発や転覆的操作だったデュシャンのレディメイドが「歴史的な美術作品」「ミュージアムピース」に変貌したことに対する皮肉も読み取れる。
展示風景[撮影:城戸保]
椅子と権力の結びつきは、アフリカのモザンビーク共和国の内戦終結後、殺戮に使われた銃を用いて肘掛け椅子の形に組み立てたクリストヴァオ・カニャヴァート(ケスター)や、電気椅子の報道写真をシルクスクリーンで複製したウォーホルにつながる。また、ミロスワフ・バウカの《φ51×4, 85x43x49》では、椅子にはめられた輪や穴のサイズが人間の手首や首、足首に対応し、拷問器具を思わせる椅子自体が天井から吊るされ、拷問を受ける人体がまさにモノ同然に扱われることを物象化する。一方、椅子が権力や体制への抵抗手段となりうることを示すのが、東大の学生運動を内部から撮影した渡辺眸の《東大全共闘 1968-1969》。講義用の椅子がバリケードとしてうず高く積み上げられる。
手前:ミロスワフ・バウカ《φ51×4, 85x43x49》(1998)国立国際美術館
奥:ダラ・バーンバウム「座らされた不安」シリーズ(1975)
[Courtesy of Dara Birnbaum and Electronic Arts Intermix (EAI), New York]
教室が象徴するように、「整然と並べられた椅子」は、コミュニティの形成をもたらすと同時に、秩序や規範の内面化の装置ともなる。アンナ・ハルプリンの《シニアズ・ロッキング》は、当時自身も85歳だったハルプリンが、老人ホームから募った高齢者50人と制作したダンス作品のドキュメンタリー映像。「後世に残したい人生のレガシー」について対話を重ねながら、揺りかごと老いの象徴であるロッキングチェアに座ったままでも踊れる振付が、光あふれる野外で展開される。それは、「ダンスは若い特権的な身体のもの」という規範の解体であると同時に、新たなコミュニティの形成でもある。
アンナ・ハルプリン《シニアズ・ロッキング》(2005/2010)[Courtesy of ZAS Film AG]
一方、シャオ・イーノン(邵逸農)& ムゥ・チェン(慕辰)は、毛沢東の主導による文化大革命(1966-76)の遺物を中国各地で撮影したシリーズ「集会所」を展示。知識人や反革命派の人々を糾弾するために用いられた舞台装置を、整然と並ぶ「観客席」とともに撮影し、イデオロギーの集団的な内面化を可視化する。また、ミシェル・ドゥ・ブロワンの《樹状細胞》では、会議用椅子が球体状に組み立てられ、外部に突き出した脚が攻撃的な棘のように見える。タイトルは突起に覆われた免疫細胞を指すが、集団的な同質性の凝縮が「外部」への攻撃や排除と表裏一体であることを示す。このように、マナーやジェンダー規範など座る者を内面的に拘束する制御装置としての椅子に対する不服従を示すのが、いらいらと落ち着かない様子で椅子の上で身体を揺らし続けるダラ・バーンバウムのパフォーマンスの記録映像「座らされた不安」シリーズだ。
シャオ・イーノン(邵逸農)& ムゥ・チェン(慕辰)《集会所―高塘》(2003) 森美術館
ミシェル・ドゥ・ブロワン《樹状細胞》(2024)
「椅子に座ること」「座ってもよいこと」「座らなければならないこと」の許可や命令は、誰が誰に向かって下すのか。本展は、美術館を含む公共空間での「座れる椅子」と「座れない椅子」の峻別へと目を向けさせる。岡本太郎のその名も《坐ることを拒否する椅子》は、観客が実際に座ることができるが、ユーモラスな顔のような造形の一方、凸凹が安楽に身体を休めることを拒む。「装飾」のふりをして、「座ること」「休息」を拒否する身ぶりは、路上のベンチなどに仕切りを設ける「排除アート」を想起させる。ダイアナ・ラヒムの《インターベンションズ》は、街なかの「排除アート」を、あえて花やハート、カラフルなモールで「優しく」装飾し、「介入」をさらに上書きする操作によって異物感を強調し、「他者を異物として排除してもよい」とする思想を可視化させる。
岡本太郎《坐ることを拒否する椅子》(1963/c.1990)
甲賀市信楽伝統産業会館
ダイアナ・ラヒム《インターベンションズ》(2020-)作家蔵
一方、廃材すなわち不要なゴミとして排除されたモノを用いて「観客が座れる椅子」を制作したのが、副産物産店だ。自律的な作品展示に加え、映像作品の鑑賞用や休憩用として、会場の各所に点在する。
副産物産店 展示風景
最後に、本展における2つの「不在の椅子」が喚起する問題について触れたい。冒頭で述べたように、「現代美術における椅子」に着目する本展の起点は、スツールに自転車の車輪を載せたデュシャンのレディメイドで始まる。意外なことに、「現代美術における椅子」と聞いて真っ先に思い浮かぶジョセフ・コスースの《1つと3つの椅子》(1965)は出品されていない。コスースのこの作品は、木製の椅子、実物大の椅子の写真、「椅子」の概念(辞書の定義)を並置したものだ。「現代美術」の起点はデュシャンのレディメイドなのか、1960年代のコンセプチュアル・アートなのか(あるいは、ほかの複数の起点が存在しうるのか)。「椅子」への着目によって、「コンテンポラリー」の同時代性の基準をどこに置くべきかというクリティカルな問いが付随的に浮かび上がってくる点が興味深い。
また、本展の構造は、日用品から機能を剥奪したレディメイド=「座れない椅子」で始まり、「鑑賞者が座れる休息のための椅子」で終わる循環性をもつ。ここで、本展の会場が「愛知県美術館」であることに目を向けると、「観客が座る」ことを念頭に置いて制作された、「もうひとつの不在の椅子」が浮上する。すなわち、「あいちトリエンナーレ2019」内の企画「表現の不自由展・その後」に出品された「平和の少女像」である。美術のフィールドにおいて、椅子の機能は「座って休息する」に留まらない。「あなたと同じ目線になる」ことを可能にする椅子は、植民地主義とレイシズムと性差別の複合的な絡まり合いに対する連帯の意思表示でもあるからだ。
鑑賞日:2024/09/03(火)
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