会期:2024/09/13〜2024/09/23
会場:シアタートップス[東京都]
公式サイト:https://gekidangalba.studio.site/
ある人を知っている、とは一体どういうことだろうか。仕事関係の知人、友人、パートナー、家族、あるいは自分。その人のことを本当に知っているか、と改めて自らに問うならば、確かに思えた輪郭もたちまち曖昧にほどけていくだろう。
2018年に俳優・山崎一が旗揚げした劇壇ガルバは、別役実やアーサー・ミラーなどの有名戯曲を上演する一方、ワークショップを重ねて戯曲を練り上げる「実験プロジェクト」を展開している。2022年にはその第一弾として「老人とアイデンティティ」をテーマに『錆色の木馬』(脚本:山崎元晴、演出:西本由香)を創作し上演。今回上演された『ミネムラさん』はプロジェクトの第二弾として「女性」をテーマに創作されたものだ。「ミネムラさん」を演じるのは俳優・峯村リエ。演出には第一弾から引き続き西本を迎え、脚本には山崎に加えスヌーヌーの笠木泉とほろびての細川洋平が参加している。三人の劇作家が峯村リエに着想を得たそれぞれの「ミネムラさん」を執筆し、ワークショップを通じてそれを1本の舞台作品として立ち上げるユニークな試みとなった。なお、本作は10月4日(木)まで配信も行なわれている。以下では物語の展開に触れているので注意されたい。
[撮影:加藤孝]
細川作の『フメイの家』は峯村が所属するナイロン100℃を思わせるようなナンセンスコメディ。細川が自ら作・演出を務めるほろびてのシリアスな作風からすると意外な方向性だったが、思えば細川はかつてブルースカイ(現ブルー&スカイ)のナンセンスコメディで人気を博した劇団「猫ニャー」に俳優として所属していたのだった。
[撮影:加藤孝]
[撮影:加藤孝]
物語はある日、オイシ(大石継太)のもとに届いた一通の手紙に端を発する。古い友人から30年ぶりに届いたその手紙にはいくつかの懺悔と、自分は姿を消すが探さないでほしいという言葉が記されていた。慌てたオイシの通報で杉並警察署のマヤザキ(山崎一)、その部下のヤモリ(森谷ふみ)、阿佐ヶ谷駅前交番のサカギ(笠木泉)とサカギが駅前の植え込みで保護した酔っ払いのウエソン(上村聡)が駆けつけるのだが、彼らの対応はいかにも頓珍漢である。しばしの不毛なやりとりの末にようやく人探しの依頼だということが伝わるものの、今度は肝心の友人の名前が最初の一文字しか思い出せない。仕方がないのでまずはその「ミ何とかさん」の人物像を皆で立ち上げていくことになるのだが──。
「ミネムラさん」を主役とする舞台がその不在をめぐる物語ではじまるとは意表をつく展開だが、一方で「ミネムラさんの人物像を皆で立ち上げていく」というプロットは『ミネムラさん』の企画をそのままなぞるようでもある。実は『ミネムラさん』は単なる3本立ての上演ではなく、その全体を『フメイの家』に包まれるようにして『フメイの家:序』→『世界一周』→『フメイの家:破』→『ねむい』→『フメイの家:急』→『サークル・ゲーム』→『フメイの家:結』と展開していく(表記は上演台本に拠る)。3人の劇作家によるまったくタイプの異なる3本の戯曲の上演が、しかし一本の筋の通った舞台として成立していた理由のひとつは、この構成の妙にあるだろう。
[撮影:加藤孝]
『世界一周サークル・ゲーム』はいかにも笠木らしい作品。コンビニとファミレスのダブルワークで生計を立てるミネムラとその家に身を寄せるヤスコ(笠木泉)。離婚で心身ともにぼろぼろになり自己肯定感も失ってしまっていたヤスコがミネムラのもとで休息し、スーパーに職を得てひとり暮らしをはじめ、10年が経過するうちに店長(上村聡)と結婚し、そしてどうやらミネムラが大病を患いおそらくは死期が近いであろうことをヤスコに告げるまでの時の流れが、思い出される過去の出来事やその時々に思ったけれど現実には口にはされなかったことなどとともに語られていく。死と宇宙のイメージが呼び込む漠とした寂しさを背景に、しかしそれでも偶然に人が寄り添い合うことの奇跡のささやかさが胸を打つ。
[撮影:加藤孝]
チェーホフの同タイトルの短編に想を得たという山崎『ねむい』はサイコサスペンスな仕上がり。赤ん坊の泣き声でミネムラさんが目を覚ますと、すぐそばにスコップを持ち服の裾を土で汚した妹(森谷ふみ)が立っている。空腹を訴えるその妹はどうやら姉の家に同居し引きこもりのような暮らしをしているらしい。赤ん坊や夫の世話をしなければならず、ろくに睡眠も取れない姉の現状に不満を訴える妹。だが、ミネムラは取り合わない。ふと赤ん坊はどこかと尋ねると、埋めたのだと妹は答えるのだった。妹は何をしたのか。赤ん坊はどこへいってしまったのか。帰宅した夫に赤ん坊の居場所を聞かれたミネムラは妹と一緒に散歩に出ていると答えるが、夫はそれを信じず警察に通報しようとする。
ミネムラはしばしば眠りに落ちるように気を失う。舞台の上には夢とも幻想ともつかないイメージが展開し、やがて浮かび上がるのは育児ノイローゼのようになったミネムラ自身が眠さのあまり赤ん坊を殺してしまう場面だ。妹が赤ん坊を庭に埋めたのはその後始末だったのだ。しかし、再び目を覚ましたミネムラは夫が赤ん坊をあやしながら部屋に入ってくるのを目撃する。夫によれば赤ん坊は妹によって隣家に預けられていたというのだが──。実在するのかどうかも怪しい妹は、実のところすでに幼少期にミネムラの手によって殺められてしまったのではなかったか。例えばそんな深読みも可能な余白の怖さがある作品だ。一方でそこにはミネムラに寄り添う妹の、あるいは妹に寄り添おうとするミネムラの意思も確かに感じられ、不穏ななかにも笠木作品と響き合うものがある。
[撮影:加藤孝]
それぞれの作品に登場する「ミネムラさん」はまったくの別人のようでありながら同一人物のようでもあり、俳優の巧みな演技と演出の妙で見事にひとつに溶け合った世界は同時にまったく異なる3つの世界でもある。だが、そもそも人は、そして世界はそのように存在しているものだろう。その途方もなさに、改めて寂しくも恐ろしい心地がするのだった。
鑑賞日:2024/09/19(木)