会期:2024/09/06~2024/09/08
会場:THEATRE E9 KYOTO[京都府]
公式サイト:https://askyoto.or.jp/e9/ticket/20240906

劇作家・演出家・小説家の本谷有希子が岸田國士戯曲賞の受賞後第一作として2009年に上演した『来来来来来らいらいらいらいらい』(戯曲は2010年に白水社より刊行)。人間の業やさがをこれでもかとえぐり出すぶっ飛んだ力強さと、「野鳥園」をメタファーとして家父長制的異性愛社会の歪な輪郭を描き出す理知的な構造が同居する、秀逸な戯曲だ。「山奥の集落を舞台に、閉鎖的なムラ社会、ジェンダーや続柄で決まる家庭内の序列のなかで、姑・小姑と嫁の確執や、満たされない愛情を求めてのた打ち回る、女性6人の群像劇」と表面的には受容されるこの戯曲を、どのように再演出することが可能か。しおと、ひかりのソロユニット「ノラ」による本上演は、戯曲には設定されていない「男」という抽象化された役の追加と、「鳥小屋の檻」のメタファー性を可視化する舞台美術により、本谷の戯曲の解像度を上げて「異性愛という閉域からの脱出」としてクィアに読み直す視点を与えてくれた。

舞台設定は、山奥の集落にある夏目家。次男のヤスオに嫁いだ蓉子ようこは、ある嵐の夜、新婚一カ月で夫に逃げられてしまう。長男の嫁の千鶴子と蓉子は、毎日、飼育している鳥を絞め、血抜きし、毛をむしってさばき、解体作業と調理をこなす。「食卓は長男、次男の嫁として比べられることを考えると、もう少し品格、落としてほしいんですけど」とイビる義姉の要求はエスカレートし、料理に加えて、野鳥園の鳥の世話も蓉子に押し付けられてしまう。

姑→小姑→嫁という陰湿なイビりの連鎖の背後には、「自分に愛情を向けてくれない夫への執着」が重なり合う。偏執的な老婆として描かれる姑の光代は、バードウォッチングが趣味の男と結婚するために野鳥園まで建てたが、結婚後に夫に逃げられ、夫に似て二枚目の次男のヤスオに異常な愛情を注ぐようになる。光代は毎晩、ヤスオの布団にもぐりこみ、夫のように逃げられないよう、村の周囲の林に有刺鉄線を張り巡らせた。ヤスオが失踪した理由も、蓉子を身代わりにして光代の異常な執着から逃れるためだった。一方、母の光代に愛されなかった長男は、妻の千鶴子にDVを振るい、姑と夫から二重の虐待を受ける千鶴子の鬱憤は、さらに弱い立場の蓉子に向けられる。

夏目家が経営する麩揚げ工場に勤める女たちも、男性への歪な執着や性欲を抱えている。「義父とセックスしたい」という叶わぬ欲望に悶々とするアキ。自他ともに「あそこが優しい女」と言われ、「便所」呼ばわりされてもあっけらかんとしているヒロ子。夫に殴られて出血し、限界を迎えた千鶴子は、光代が大事に飼っている孔雀を、光代の目の前で揚げ機に放り込む。千鶴子の憎悪と復讐は、夫を歪ませた光代に向かう。そしてテンションがおかしくなった千鶴子は、孔雀の羽が舞い散るなか、自身も煮えたぎった油に飛び込み、重傷の火傷を負って車椅子生活になってしまう。

[撮影:栗岡玲奈]

後半では、アキの義父を「自分の元に帰ってきた夫」だと思い込んだ光代が、誤って猟銃で撃ち殺す事件が起きる。実際は空砲で、死因は心臓発作だったが、待ち続けた愛情が憎悪に変わった光代は、「愛ゆえに殺してしまった」ショックから発狂して車椅子生活になる。こうして、蓉子=嫁に押し付けられる「女性のケア役割」がどんどん積み上がっていく。食事の支度、飼育する鳥の世話、義姉と姑の排泄の介護。さらに車椅子の義姉からは、「どうせ浮気されるなら、病気持ってそうなフィリピン人より蓉子ちゃんみたいな子がいいわ」と、「夫の性欲処理係」の代理まで担わされる。悪夢のような展開だが、元自衛官だった蓉子が耐え続けるのは、「人生の試練から逃げたことにしたくない」「何かに耐えてないとラクしてる気分になる」という根性論だ。

[撮影:栗岡玲奈]

美しい羽を広げた孔雀の前でヤスオがプロポーズしてくれた蓉子にとって、孔雀は「大事な純愛の思い出」だ。だが、つがいの残り片方の孔雀も、光代の発狂を疑う猜疑心の強い義姉により、再び揚げ殺されてしまう。その「試練」を乗り越えた蓉子には「ご褒美」が与えられる。光代のおしめを替えようと屈んだ蓉子の頭に光代の手が置かれ、うめき声で「褒めてくれる奇跡」が起きる。そして蓉子は皆を捨て、有刺鉄線を切って、車椅子の光代と「駆け落ち」を決行する。清々しいカタルシスさえ漂うラストだが、「これからは好きなだけ褒めてもらえるんだ」という究極の自己犠牲の行き着く果てなのか。自分を捨てた夫/ヤスオへの執着心を媒介とした、愛情に飢えた似た者同士の絆なのか。

だが、本谷の戯曲には、家父長制と異性愛をめぐり、クィアな読解の可能性が埋め込まれているのではないだろうか。「野鳥園」「孔雀の羽の髪飾り」をキーワードに、ノラ演出の本公演を掘り下げたい。まず秀逸なのは、鳥小屋のゲージを模した可動式の舞台装置だ(舞台美術:ENDO)。場面転換に応じて俳優の手で動かされ、鳥小屋/夏目家の居間/揚げ場に変貌するが、「女性たちも檻の中に閉じ込められている」ことを構造的に示す。また、舞台中央の長方形の箱も、揚げ機/食卓/遺体を収める棺となり、死と生が濃密に同居する。

[撮影:栗岡玲奈]

野鳥園は、愛玩・鑑賞用であれ、食肉用であれ、飼育する鳥をつがいで飼って繁殖させる場所であり、異性愛に基づく生殖の世界の比喩である。そこでは、トリとヒトに差異はない。そして、野鳥園から盗んだ卵にストローを刺してすするヒロ子が、父親不明の胎児の中絶をほのめかすように、この世界では、生殖と同時に、誰かの都合によって何かの命が日々奪われている。また、蓉子は揚げ殺された孔雀の羽を拾って髪飾りにし、「宝物」として大切にしていた。孔雀が羽を広げる行為は求愛であることを踏まえると、ヤスオのプロポーズの言葉も、羽自体も、「男(オス)」から与えられる異性愛の象徴だ。冒頭、ヒトが食べるために羽をむしられるトリと、「女性の髪」というセクシュアルな記号に添えられる孔雀の羽の鮮烈な対比。

[撮影:栗岡玲奈]

だが、光代と「駆け落ち」する蓉子は、大事な孔雀の羽の髪飾りを、友人の女子高生のみちるに手渡し、彼女の髪に挿してやる。いじめられているみちるを助けようと、蓉子が「彼氏の嘘情報」の手助けをしたことを伏線とすると、「これからみちるが異性愛の世界に入っていく」ことを象徴する行為だ。ノラ演出では、ヤスオ/義姉の夫/アキの義父が重なり合い、同時に匿名化された「男」という、DVの罵声以外はほぼ無言の役が登場する。「駆け落ち」の直前、孔雀の羽の髪飾りを挿した蓉子は、この「男」と一瞬、暗闇のなかで見つめ合う。だが、髪飾りを手放した蓉子が選ぶのは、荘厳な光の差すなか、光代の車椅子を押しながら去っていく道だ。蓉子は単に「ヤスオへの執着を手放した」のではなく、「夫/ヤスオへの愛情」にしがみついていた光代が自ら張り巡らせた有刺鉄線を切り、檻=家父長制的異性愛という囲われた空間から脱出するのだ。

そして、物語の細部には、この「檻」の外側にいるクィアな人物の存在が書き込まれている。上述のように、蓉子はみちるに「キレたらヤバそうなムキムキマッチョの写真」を渡し、いじめ相手に彼氏だと偽って見せるよう助言する。写真の人物は自衛隊の元上官なのだが、「すごいでしょ、女なんだよその人」というさりげない一言が添えられ、トランス男性がこの物語のなかにいる・・・・・・・・・・ことが示唆される。光代と「駆け落ち」する蓉子が、迷彩柄の服を着用していることも示唆的だ。そして、蓉子を演じる星元裕月は、迷彩服に身を包む終盤、一気に艶やかな色気を発する変貌を見せた。それは、強制異性愛からの脱出=「若い」同性カップルという「物語の定番」からの痛快な脱出劇でもあるのだ。

[撮影:栗岡玲奈]

鑑賞日:2024/09/06(金)