会期:2024/09/13~2024/09/16
会場:HOMEビル[大阪府]
公式サイト:https://rojibuta2024.wordpress.com/【種別】【演目】【餓鬼の断食】/

「衝撃的」という言葉が追いつかない衝撃作。ルームシェアする若者5人が互いに抱く感情と欲求は、言葉にした途端に矛盾や棘となって相手を突き刺し、「死ねよ」「キモ」という反射的な言葉の暴力、支配欲の手段と化したセックスの暴力性、身体的に加えられる物理的暴力がない交ぜとなって世界の歪みを増大させていく。負荷に耐え切れず決壊した精神は、身体の暴走として表出し、関節が外れて脱臼し、肉塊が溶けて流れ出す(フランシス・ベーコンの絵画世界のように)。緻密な会話劇と抽象化された身体表現の融合。支配と依存、恋愛と性欲と暴力、そしてジェンダーや性的指向の境目すらぐちゃぐちゃに溶け合った世界は、「流産」というかたちで暴力的な破局を迎えたあと、「世界の産み直し」という神話的境地へと到達する。

2021年に川村智基が旗揚げした「餓鬼の断食」は、若者言葉のスラングを多用したハイテンポの関西弁の会話劇が持ち味である。『或る解釈。再構築ver.』(2024)では、「友人宅に集まった若い男女5人」という本作と類似した状況設定のもと、片思いの恋愛やマイクロアグレッションが交錯する群像劇の背後に、「現代日本社会の基盤の歪み」が示唆されていた。ただし、生々しい性欲やセクシュアリティの追求はなく、「好き」の先に避けられない妊娠や中絶といった問題も透明化されていた。それらを煮詰めて凝縮させた本作は、身体表現による抽象化の手法においても深みを増した。

冒頭、「引力歪んでもうてんねん」「溶けんで、お前」という台詞が発される。その俳優の身体も既に、異常に硬直し、見えない力に関節を引っ張られて歪み、ラリったような目をしている。この「リョウ」という人物は、名前のうえでも性別が曖昧であり、ジェンダーもセクシュアリティも曖昧なまま描かれる、もしくは多重的に分裂している。精神が不安定なリョウは発作のたびに恋人のカイトを精神安定剤にするが、ムキムキの筋肉を見せつける黒メッシュのタンクトップを着た短髪のリョウがカイトに抱きつく様子は、瞬時にゲイを思わせる。だが、リョウの不安定な精神は、カエデという女性との会話で、ホルモンバランスと排卵異常が原因らしいことが話され、女性ホルモン投与によって精神的に不安定になったトランス女性にも見える(「うち」という関西弁の一人称や発話のトーンは女性性を帯びている)。複雑な家庭環境や虐待に加え、自殺した弟への自責と異常な執着を抱えるリョウは、「赤ちゃんほしい」とうわごとのように繰り返し、「弟を拒絶した世界をぐちゃぐちゃに破壊して、弟を産み直したら再会できる」という妄想にとりつかれている。

[撮影:松本尚大]

以前カエデと付き合っていたバイセクシュアルのカイトに対し、ゲイを自認するコウキは「ガチ教えてや、女とやる時の気持ち。悩まんの?」と露骨な差別感情を向ける。ブチ切れたカイトは殴りかかるが、「こいつを叩きのめしたい」という暴力的な感情は、「犯してやりたい」という性的支配の沸点を迎えた後、コンタクトインプロビゼーションのようなダンス的悦楽として二人の身体を貫いていく。後半でも繰り返されるデュオ/セックスは、指先が触れるか触れないかの接触から、手首や手の甲のコンタクトとなり、全身にダイナミックに波及する律動に身体を任せ続ける。

[撮影:松本尚大]

一方、現在カエデと付き合っているタクヤは、女性をモノ化する発言や露骨なホモフォビアを撒き散らすマチズモの体現のようなキャラクターだ。だが、カエデとの不仲を「お前ら誰も信じられんのやろ、お似合いやん」と見透かしたコウキに誘惑され、最もホモフォビックなはずのタクヤが男の腕のなかでひとときの安らぎを得ることになる。セクシュアリティの境界は融解する一方、上述のようにゲイ男性→バイ男性への差別感情が空気のように存在し、境界線は再び引き直される。ゲイのコウキは「LGBTQって却って差別を煽る装置じゃないですか。虹色の分断なんすよ」と主張するが、自身が内面化したマイノリティ内部の屈折した差別には無自覚であり、ミソジニーもまた彼のなかで内面化されている。

「人間」と「動物」の境界もまた、融解する。「発情期のネコ」という揶揄の台詞が発される傍らで、忍び足の飼いネコと化す俳優の身体。ニワトリ並みに排卵していると言うリョウは、「クワーー」と叫んでのたうつが、子どもを宿せない怒りの矛先はカエデへ向けられ、殴り続けられたカエデは流産してしまう。

冒頭の台詞の通り、重力の磁場が歪んでいる。最初から明らかに磁場が狂っているのは、リョウとコウキだ。コウキは夢遊病のようなダンスの波に乗って身体を揺らし続け、自他ともに「空間とセックスしてる」と表現される。出番のない俳優は、序盤は舞台端に座って「傍観者」の位置にいるが、次第に舞台内のソファベッドや床に座って「傍観」し、最終的に全員が磁場の歪みに巻き込まれていく。唯一「正常」「普通」に見えたカエデだが、終盤、マクドナルドのハッピーセットに置換された「あるモノ」を口に詰め込むシーンで、最大の狂気へと変貌する(再演をぜひ見てほしい作品のため、ここでは彼女が実際には何を食べたのかは伏せておく)。泣き笑いと嗚咽に喉を詰まらせつつ、カエデはひとりで食べ続け、交際相手のタクヤは共に食べることを拒絶する。「食事はたいていファストフード」という貧困状況の示唆とともに、「妊娠の責任や罪」が女性にだけ押し付けられる構造の歪さが、演劇でしかできない手法で突きつけられる。

本作のキーワードは「引力」と「摩擦」であり、それぞれの言葉が放射する多義性だ。「引力」と「摩擦」とは、換言すれば、直接的には触れないことで行使される暴力と、物理的接触による暴力である。「引力」はまた、「磁場の失調」として表現される「正常さ」の謂いでもあり、他人と引き合い反発し合う力でもある。「摩擦」は、床の汚れを落とそうとこすり続けるコウキの脅迫的な行為として表わされる。床との摩擦にコウキが感じる「ツル、ザラ、キモチー」という脳髄的快感は、自慰であると同時に、「虹色の分断」という言葉を思い出せば、「凸凹をなくしてフラットな世界にしよう」「みんな平等だよ」というマジョリティからの善意の圧力でもある。

[撮影:松本尚大]

暴力と狂気が世界の崩壊へと向かう本作はまた、宗教性を帯びてもいる。リョウがかじるリンゴは、原罪=セックスの象徴であり、万有引力の謂いでもある。ラストシーンでリョウは、かじりかけたリンゴを両手でぐちゃぐちゃにつぶし、白い液体を垂らす。それは、白い泡を吹く発作のようでも、フェラチオのようにも見えつつ、「引力に支配された世界をぐちゃぐちゃに壊した」結果、弟を産み直している想像の出産でもある。

他者とのあいだに発生する引力が互いを傷つけ合う世界のなかで、誰かの膝枕に頭を預けたひとときだけ、彼らは穏やかな安らぎの表情を見せる。ジェンダーの組み合わせを変えて反復される膝枕の構図は、ピエタを思わせる。だが、「支えている方」が感じている重さは、俯いた表情の見えなさとして、なおも隠されている。それは、傷ついた者を見守る慈愛の表情なのか、耐え難い重さを押し殺しているのだろうか。

[撮影:松本尚大]

発話と身体表現、生々しい直接性と抽象化、人間と動物の融解(フュージョン)。ジェンダーやセクシュアリティの境界も融解する一方、マジョリティ/マイノリティ、さらにマイノリティ間の境界はたやすく融和することはない。そして、神の否定としての近代物理学と、宗教性の顕現。コウキは、摩擦の快楽=麻薬としての宗教を世界に広め、神になりたいという妄想を、電流がショートしたようなバグった言葉のモノローグで語っていた。引力が歪み、性的快楽のエネルギーがひたすら増大し、摩擦(自慰の快感/均質化)の圧がかけられ続けていく世界。コウキのように「狂った世界の新たな神」となるのか、あるいはリョウのように、狂った世界の破壊と産み直しを遂行するのか。一見、欲望とセックスにまみれた若者たちの生態を微視的に描く本作だが、その根底には、「世界を支配する原理は何か」という壮大な見取り図がある。

★──下記の拙評を参照。インキュベーション キョウト 演劇スタジアム 餓鬼の断食『或る解釈。再構築ver.』、SMILE『 SUPER COMPLEX 』公演評 高嶋慈「『日常』の微視がひらく裂開と、クィアネスの開示」https://rohmtheatrekyoto.jp/archives/engekistadium_takashima/

鑑賞日:2024/09/16(月・祝)