会期:2024/10/05~2024/10/27
会場:ロームシアター京都京都芸術センター京都芸術劇場 春秋座THEATRE E9 KYOTO京都府立府民ホール“アルティ”、京都市役所本庁舎屋上庭園、堀川御池ギャラリー ほか[京都府]
公式サイト:https://kyoto-ex.jp/

前編より)

前編で予告したように、中編では、序盤のプログラムで「女性のみ」「男性のみ」で上演される作品が並んだことに着目し、3つのダンス・パフォーマンス作品を横断的に振り返ることで、ジェンダーの不均衡な力学を浮かび上がらせる。

ムラティ・スルヨダルモ『スウィート・ドリームス・スウィート』は、上演地域に暮らす28名の女性により、屋外で3時間に渡って行なわれるパフォーマンス作品である。制服のような白いシャツとスカートを着用し、ベールを被り、白いストッキングでほぼ全身を覆われたパフォーマーたちが、わずかに指先を触れ合わせ、死者の隊列のようにゆっくりと行進してくる。青い水が張られた大きな金属製たらいを運ぶ彼女たちは、水汲みや洗濯といった家事労働を直感させる。すべての動作は、ペアを組んだパフォーマーにより、同時多発的に、無言のままスローで行なわれる。手で水をすくう、痛みを分かち合うようにハグし合う、たらいに浸した相手の脚を傷口や汚れを洗うように水をかけ続ける、倒れこんだ相手の身体を死体を清める儀式のように水で洗う……。傷は一人では癒せないこと、そしてケアは同時に痛みの共有でもあることが、次第に青く染まっていく袖口や裾によって示される。青く染まる白い衣服は、亡霊として不可視化されたケア労働者が可視化されていくプロセスでもある。だが、パフォーマーたちは二手の空間に分かれたうえ、それぞれの空間で7組が同時多発的にパフォーマンスを行なうため、観客はすべてを一望することはできない。この事態は逆説的に、「今ここではない場所でも起きている痛みとケア」への想像を要求する。

ムラティ・スルヨダルモ『スウィート・ドリームス・スウィート』(2024)[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT]

ムラティ・スルヨダルモ『スウィート・ドリームス・スウィート』(2024)[撮影:守屋友樹 提供:KYOTO EXPERIMENT]

一方、クリスチャン・リゾー『D’après une histoire vraie─本当にあった話から』では、男性ダンサー8名が、宗教的な陶酔感さえ思わせる目まぐるしい旋回の渦に身を投じる。次々と相手を入れ替えながら反復・変奏されるユニゾン、ひとつの渦から外れた粒子をすぐに迎え入れるもうひとつの渦。瞬間的に形成されたコミュニティは、次の瞬間には泡のようにはじけ、別のコミュニティに身体的に合流する。ほどけるたびに、別の手が差し伸べられ、手と手がつなぎ合わされる。歓喜と熱狂を、ツインドラムが増幅する。ここには対立も分断も一切存在しない。だが、それがジェンダーの同質性に根ざしているのだとしたら、「男だけ」の排除的空間内でのみ可能な幻想のユートピアだろう。

同じダンスを全員女性で上演できるか? という問いは、スルヨダルモ作品との対照性を突きつける。そこでは、女性たちは、匿名的な制服によって個人性を剥奪され、徹底してケア労働に従事し続け、痛みの共有と引き換えに自らも汚れに染まり、顔を覆うベールによって感情を表に出すことさえ抑圧されているからだ。

クリスチャン・リゾー『D’après une histoire vraie—本当にあった話から』(2024)[撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT]

クリスチャン・リゾー『D’après une histoire vraie—本当にあった話から』(2024)[撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT]

一方、アレッサンドロ・シャッローニ『ラストダンスは私に』は、男性ダンサー2名による、クィアな要素を併せ持つダンス作品である。白い線が引かれた四角形の枠の中に、もうひとつの四角形が入れ子状に内包された、簡素なフロア。そこに、手をつないで登場した2名の男性ダンサーが、線に沿って社交ダンスのようなステップを進んでいく。手を取り合い、もう片手を相手の肩に回した2人は、パートナーをくるりと回転させると、フロア中央へ。腰を落とし、曲げた膝を接触させ、互いの腕をしっかりと掴んで見つめ合いながら、コマのように回転を速めていく。少しずつ変化を加えながら、このセットが何度も反復される。次第に上がる息、再びダンスを始める前に必ず繰り返されるアイコンタクト。互いに向ける微笑みと信頼は、反復の度に強められ、私たちもその陶酔感に魅せられていく。

アレッサンドロ・シャッローニ『ラストダンスは私に』(2024)[撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT]

アレッサンドロ・シャッローニ『ラストダンスは私に』(2024)[撮影:吉見崚 提供:KYOTO EXPERIMENT]

ここで着目すべきは、最初は「床の白い線」に厳格に従っていた2人が、次第に「線」の規定をはみ出し、幾何学的秩序を踏み越えていく点だ。このことは、本作の着想が、1900年代初頭のイタリアで男性のみで踊られたポルカ・キナータであることを知ると、クィアな読解を開示してくれる。公の場で未婚の男女が共に踊ることが許されなかった当時、このアクロバティックなダンスは、スポーツのように回転の速度を競い、男性の身体能力を女性にアピールするものとして踊られていた。時代とともに廃れたこのダンスをリサーチによって復活させたシャッローニは、「異性にアピールするためのダンス」を、伝統的なジェンダー規範とともに「別のクィアなダンス」として作り変えたといえる。「欲望の対象としての女性を紐帯とする男性同士のライバル的な同盟関係」という点でホモソーシャルの典型例といえるダンスを、それが最も忌避・隠蔽しようとする男性同性愛へと反転的に読み替えた点に、本作の批評性がある。

ただし、ここでもスルヨダルモ作品との対照性を考えると、次のような問いが浮かぶ。床に引かれた境界線や規制線さえ軽やかに飛び越えていける力、その力強さと快楽を自分たちが感じること、そして観客に見せつける力を持っていることは、男性にのみ占められているのか? こうしたジェンダーをめぐる分断や不均衡性への問いに対するひとつの応答として、後編では、アミール・レザ・コヘスタニ/メヘル・シアター・グループ『ブラインド・ランナー』を考察する。

後編へ続く)

鑑賞日:2024/10/06(日)、10/12(土)