会期:2024/10/25、10/27
会場:UrBANGUILD[京都府]
公式サイト:https://urbanguild.net/event/10-25-fri-お寿司「神スピード婚」/
戸籍も姓ももたない「神の子孫」と「人間の女性」の結婚は可能か。「戸籍」に焦点を当てることで、現代日本の婚姻制度の不条理さとともに、天皇制、夫婦同姓や男系男子継承、婚前出産のタブーといったジェンダーをめぐる構造的不均衡、そして宗教観をあぶり出す演劇作品。「お寿司」は、舞台衣装作家の南野詩恵が作・演出・衣装を担当する舞台芸術団体である。『神スピード婚』では、「代理人による役所への婚姻届の提出」と「神前結婚式」の手続きが同時並行的に展開するが、形式的な堅苦しさが、「型の反復」というパロディを通して、次第に狂気じみたカオスへと変貌していく。
冒頭、スーツを着た女性(俳優の飯坂美鶴妃)が、委任状と婚姻届、身分証明のパスポートを携えて語り出す。「代理人」として婚姻届の提出に来た彼女は、婚姻届に記された「夫になる方」「妻になる方」の名前と住所を読み上げる。「夫になる方」には戸籍も姓もないため、「妻になる方」の戸籍に入りたいのだと言う。「どうしてだめなのでしょうか?」「宮殿の会議にかける必要がある?」「日本に宮殿ってあるのですか?」「その一族とは別の系譜です」「不敬を心配されているのでしょうか?」……。(不在の)役所の窓口の担当者は受理を渋っているようで、説得と反論を試みる代理人の「熱弁」がモノローグとして展開していく。その傍らでは、神主(ダンサーの竹ち代毬也)と巫女(ダンサーの福岡さわ実・福岡まな実)が、淡々と神事の準備を進めていく。
[撮影:manami tanaka]
[撮影:manami tanaka]
日本の婚姻制度に容認してもらおうと熱弁をふるう代理人のモノローグは、次第に制度自体の歪さを露にしていく。「皇族には戸籍も人権もない」という事実だけではない。日本で「子孫繁栄に努める」と言っている二人を、日本から追い出して別の国で「結婚」「出産」してもらうのかという理屈。脇や体液からもどんどん子が産まれる古事記のエピソードを引きつつ、「婚姻届が受理される前に子どもが産まれたらどうするんですか?」という主張。ここには、「結婚=出産」「異性愛の男女カップル」を当然視する価値観や婚前出産のタブー視が透けて見える。また、力説される「神が人間の女性との結婚を強く望む理由」も、黒髪や白い歯など「容貌の美しさ」のみが挙げられ、「男性が容貌を基準に女性を一方的に選び、女性自身の意志はまったく問われない」構造の歪さを露にする。この「神」は、「アマテラスとは別の系譜で、弟のツクヨミの子孫」だというパラレルワールド的な説明がなされるが、「もちろん万世一系です!」と笑顔で強調する代理人は、保守主義者の体現にも見えてくる。「男系ではないので現代まで系譜が続いている」という皮肉も混じるが、「やっぱり男系が良かったでしょうか?」と制度側の顔色をうかがうのだ。
だが、自分の結婚ではないのに、正当性や必然性を必死で訴える代理人/保守主義者の傍らでは、神妙な面持ちで神事を行なっていた神主と巫女たちが、次第に茶化すような介入を繰り広げる。切腹のような儀式性で行なわれる、日本刀による「ケーキ入刀」。純白のウェディングドレスに「お色直し」した巫女どうしが身体を打ちつけ合う擬似的なセックス。飢えた獣と化したダンサーたちは、神事の席に乱入して食い散らかす。
[撮影:manami tanaka]
新郎新婦という「主役」がいて、親族一同という「脇役」が控え、司会者が時間の流れを仕切り、「泣くところ」で感動的な音楽やビデオが演出として流される……。昨年に行なわれたワーク・イン・プログレス公演でも、「結婚披露宴」という形式のメタ演劇性が作品構造に重ねられていた。本作でも、代理人の訴えを聞き続ける観客は、いつの間にか、不穏な結婚式の「列席者」にされてしまう。
代理人・神主・巫女たちは、人間と結婚するために地上に降りてくる神の来臨を待ち受けるが、「やって来たのは本人ではなく、代理の弟だった」というオチがつく。そして、受理されなかった婚姻届を再び提出するために、日を改めて、「代理人による主張と説得」が再び繰り返される。「代理」と「反復」が本作のキーワードだ。ほぼ同じ内容が繰り返される反復構造は、結婚式の段取りも、婚姻届自体も、形式的な「型」でしかないことを示す。
[撮影:manami tanaka]
そして2周目を経て、いよいよ神の来臨が近づき、代理人の興奮も最高潮に達する。「白い
[撮影:manami tanaka]
神が、普段は姿が見えず、大気圏外から到来する「エイリアン」に重ねられるとしたら、「戸籍を理由に婚姻届の受理を拒まれるエイリアン」は、日本の皇族以外にもいるのではないだろうか? 本作が潜在的にはらむメタファー性は、さらなる問いを派生させる。それは、同性カップルに加え、(同性婚状態になるため)戸籍上の性別変更のために身体的にも金銭的にもリスクやハードルの高い性別適合手術を受けるか、結婚をあきらめるかの二択を突きつけられるトランスジェンダーという、セクシュアル・マイノリティの存在である。そのとき、当事者に代わって、こんなにも必死で正当性や必然性を訴える「代理人」がいるだろうか? そして、「代理人(=アライ)」がいたとしても、受理に「失敗」し続けるのではないだろうか? 本作の潜在的な射程は、こうした問いとして捉えられるべきである。
関連レビュー
お寿司『土どどどど着・陸』|高嶋慈:artscapeレビュー(2021年01月15日号)
鑑賞日:2024/10/25(金)