作者不明《アジャンター壁画(第10窟:六牙象本生の王様)》
1世紀前半~中頃(サータヴァーハナ朝)、テンペラ、約50×35cm、インド考古局管理
[撮影:定金計次]©Archaeological Survey of India
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目が輝くターバンの男
世界が注目した超大国アメリカの大統領選で再びトランプ氏が選ばれた。来年(2025)1月の大統領就任以降、泥沼化する戦争、自然災害、ウイルス感染症など、不確実性が蔓延する世界はどう変わるのだろうか。民主主義と権威主義が分断するなかで、中立の立場を示しているグローバルサウス(インド、インドネシア、ブラジル、トルコ、南アフリカといった南半球に多く位置するアジアやアフリカなどの新興国・途上国の総称)の動きが注目されている。特にインドは、約14億人と世界一の人口を誇り、モディ首相の強いリーダーシップによって高い経済成長率で発展し、存在感が増している。インドにはどのような絵画があるのだろう。世界遺産になっている西インドのアジャンター石窟の壁画を見てみたい。
その石窟はインド美術の宝庫で、古代の壁画が奇跡的に豊富に残され、しかも優れた壁画と言われている。もっとも古い壁画のひとつに、1世紀前半から中頃に制作された第10 窟の六牙象本生(ろくげぞうほんじょう)の場面を描いた壁画がある(以下、《アジャンター壁画(第10窟:六牙象本生の王様)》)。積年の汚れや剥落、落書きによって観察しにくいが、よく見るとターバンを巻いた目の輝く男性の顔が見える。何をしているのか。どのような絵なのか。京都市立芸術大学名誉教授の定金計次氏(以下、定金氏)に、《アジャンター壁画(第10窟:六牙象本生の王様)》の見方をお聞きしたいと思った。
定金氏は、インド美術史を専門とし、論文「古代絵画とアジャンター壁画」(共著『世界美術大全集 東洋編 第13巻 インド(1)』、小学館、2000)や、著書『アジャンター壁画の研究 研究篇・図版篇』(中央公論美術出版、2009)などを出版され、長年にわたりアジャンター壁画の現地調査や研究に取り組んでこられた。JR京都駅から徒歩6分ほどの京都市立芸術大学へ向かった。
定金計次氏
大型本『高雄曼荼羅』との出会い
定金氏は、1949年大阪府の貝塚市に生まれた。子供の頃から昔話や日本神話の本を読んでいたという。小学校の低学年にして幻想的な世界観を創り出す童話画家の武井武雄(1894- 1983)にはまっていたそうだ。高学年になると早くも仏像彫刻や仏画に興味をもち、佐和隆研著『仏像図典』や『日本美術全史』(上下二巻の元版)を買ってもらい愛読書にした。高校時代は文芸部に入り、古文や漢文が好きになった。進路を日本の古典か、中国文学、美術史と迷っていたが、梵字の勉強に没頭して浪人した時期に300部限定の大型本『高雄曼荼羅』に出会い、『日本美術全史』の挿図で部分を見て気になっていた曼荼羅の全体を知り、「ぼろぼろなんだけれど、なんて素晴らしい曼荼羅なのだろう」と思い、美術史に決めて京都大学へ入学した。
仏教美術の源流を探究しようと大学院へ進んだ1974年の暮れ、決死の覚悟でひとり1カ月間、初めてインド調査旅行へ行き、アジャンター石窟も訪れた。このときは情報も乏しく、ホテルもバスも道も整っていない当地で、時間に翻弄されて石窟を見学しただけで印象なく帰国。1979年京都大学大学院博士課程を満期退学し、京都大学文学部の研修員そして助手となり、1981年カルカッタ大学へ2年間留学した。1982年、8年ぶりにアジャンター石窟を訪問し、公開されている全窟を見て回り、写真撮影を行なった。定金氏は「古代インドにおいて絵画が美術のなかで重要な位置を占めていたことを実感した。ことに壁画の意義の大きさは、調査のたびに強く感じ、アジャンター壁画の研究はライフワークになると思った」と語る。1983年京都大学助手に復職し、1985年京都市立芸術大学の講師、助教授、教授を経て、2015年定年退職、名誉教授となる。
定金氏は、「インド絵画の特質のひとつは、若い容姿で描出された男女が画面の大部分を占めること。第二点は人物あるいは動物を取り囲む環境は、近世の一部を除き必要最小限しか描かないこと」だという。「インド絵画は、人間に描写が集中し、性交を暗示する若い一対の男女を主題としたミトゥナ★1に始まりミトゥナに終わるといっても過言ではない。生殖の暗示から進んで、生命の生成を意味する吉祥的シンボルだからである。性的な面が充分に表出されているか否かが、彫刻も含めて広いインドをひとつにまとめる基準となる」と定金氏は述べる。
★1──一対の男女、性的合一を意味するサンスクリット語。成熟したヒンドゥー教の教義では性的なエネルギーを神聖なものとみなし、さまざまなかたちで具象化した。一対の男女もそのひとつである。
アジャンター石窟寺院群
アジャンター石窟群は、インド西部のマハーラーシュトラ州アウランガーバード県北西の山中にある。「アジャンター」とは、石窟に近い村の名。州都ムンバイから東へ約350キロ離れた都市アウランガーバードがアジャンター石窟への玄関口で、そこからバスで約3時間を要する。ワゴーラー川の浸食によってできた大きく馬蹄形に湾曲する高さ80メートルほどの断崖の裾に、長さ550メートルにわたって大小30窟からなる古代の仏教石窟寺院が川に面して並んで造営されている[図1]。「石窟寺院は、裕福な商人たちや王侯が寄進し、壁画主題の多くが仏教に関係しているが、制作したのは世俗画家であり、様式と技法は王宮をはじめ、元来権力や財力をもった者の邸宅を飾る世俗美術として発達した。仏教石窟壁画は、そこに仏教の絵解き用絵画の伝統が合流し成立したと考えられる」と定金氏。
図1 アジャンター石窟寺院群全景
アジャンター石窟は、19世紀の前半まで近隣に住む土着民以外には知られていない廃墟だったが、虎狩りをしていたイギリス人将校によって1819年4月28日に発見された。第10窟の右列柱のひとつに「John Smith」と日付とともに発見者のサインがいまも残っている。大小ある石窟は、造営時期によって前期(紀元後1世紀前半~中頃)と後期(5世紀半ば過ぎ~6世紀中頃)に分けられる。いずれも木造建築を模していて、岩を掘り残して造ったストゥーパ(釈迦の遺骨を納めた仏塔)を祀った塔院(チャイティア)窟と、出家が修行しながら暮らすための僧院(ヴィハーラ)窟の2種類に分類される。ワゴーラー川の下流から上流に向かって、石窟に番号が付されており、そのうち第9・10・12・13・15A(30)窟の5窟が前期石窟で、そこに造営時に描かれた壁画を「前期壁画」と呼び、ほかは後期石窟に描かれたものを中心に、前期石窟に遅れて描かれたものも加えて「後期壁画」と称している。
一般にアジャンター壁画の代表のように取り上げられる壁画は、後期石窟の第1窟広間の奥、後廊左部にある「守門神」[図2]である。インド人らしさを強調し、装身具は比較的簡素で、右手に青い蓮華を持ち、身体の首、胴、腿の三つを曲げる三屈法(トリバンガ)によってしなやかな動きを表わし、華麗な宝冠を被る。粗い縞のある腰衣(こしごろも)をまとうだけの裸で、肩幅広く腕も太い堂々たる身体つき。俯き加減の顔容は、大きい波形の連眉、切れ長の目、ハイライトで強調された鼻筋、引き締まった口元など、みな穏やかで気高く理知的な輝きを発し、特に蓮華の茎を持つ右手の表情は魅力的である。「インド古代壁画の絶頂期を過ぎた6世紀初めから前半頃に制作された後期壁画ながら、同じ窟の他壁画と異なり、当時一時的に流行し東アジア仏教絵画にも影響が及んだ、太いベンガラの赤い線ではなく、後代まで一貫して標準であり続けた黒線で描き起こされ、また表情も誇張されず抑制されている。制作時期より前の表現に近く、長期間誤って菩薩とされてきた原因のひとつもそこにある」と定金氏は述べた。
仏教絵画の源流
インド美術において絵画は、紀元前1500年頃アーリア人★2がインドに移住して以来、近世に至るまで連続して発展し、彫刻に劣らない位置を占めてきたという。中部インドを中心に絵画が各地で制作され始めたのは、先史時代に属する中石器時代、あるいはそれ以前にまで遡る。狩猟の恵みを願って、岩の窪みに人物や動物の線描画が描かれた。彫刻が宗教美術として、また壁画を中心とした絵画が世俗美術として発達してきたことが、仏教文献から推測できるそうだ。
定金氏は《アジャンター壁画(第10窟:六牙象本生の王様)》について「人物を描いた壁画としてはインドで現存最古の遺品のひとつで、世俗画家が描いた壁画であり、仏教絵画の源流として位置づけられる。人物、植物、岩などの対象によって、線の太さや抑揚で変化を付けており、壁画の技法や表現はほぼ完成の域にあるものの、感情描写の完成は、現存作例では5世紀半ばまで待たなければならなかった。目は虹彩と瞳孔を彩色によって繊細に区別しているが、眉の上の濃いベンガラで引かれた細い線は、後期壁画を描き加えた画家の筆慣らしだろう」という。
また、《アジャンター壁画(第10窟:六牙象本生の王様)》の見どころは、王様の顔の暈(くま)取り(ぼかし)、髭の形、頬骨の張り方の3点と指摘した。「顔の暈取りは、輪郭線から出るグラデーションによって立体感を出し、王様の顔の形を明瞭にする。髭の形と頬骨の張り方については、王様と猟師[図3]を比較すると、猟師は、肌の色が濃く頬骨が張り、髭も手入れが行き届いておらず、左右に先がはねた口髭が性根の卑しさを表わしているとも見え、階級差を表わすと同時に性格描写が意図されている可能性がある」と定金氏は述べた。
図3 第10窟六牙象本生の猟師(《アジャンター壁画》部分)
★2──インド・ヨーロッパ語族の人々の総称。特にインド・イラン語派に属する人が自らをアーリアと称した。
アジャンター壁画(第10窟:六牙象本生の王様)の見方
①タイトル
アジャンター壁画(第10窟:六牙象本生の王様)(あじゃんたーへきが[だいじゅっくつ:ろくげぞうほんじょうのおうさま])。英題:Ajanta Caves(No.10 Cave:The King of Chaddanta-Jātaka)
②モチーフ
王宮で倒れた王妃を介抱する王様。
③制作年
1世紀前半~中頃。
④画材
白土、煤(すす)、ベンガラ(赤)、黄土、緑土の5色に水溶性の膠(にかわ)と思われる接着剤を混ぜた絵具。
⑤サイズ
縦約50×横約35センチメートル。第10窟[図4]の右側廊にある縦1.2×横18メートルの横長壁画の一部分。
図4 アジャンター第10窟外観
⑥構図
横長壁画は、石窟内右壁面の目線上部に位置する。奥寄りに森の場面、手前に王宮場面が描かれている。全体に浅い角度で俯瞰する構図。各モチーフは、時間軸ではなく、物語の空間的なつながりが優先される配置で、場面ごとにまとまりがある。王様は、装身具と腰衣を着けただけの宮女に囲まれ、左向き四分の三面観で、立体感と動きを出している。
⑦色彩
白、黒、赤、黄、緑の5色。
⑧技法
テンペラ。凹凸のある石窟の玄武岩を下地に、精・粗二層の泥土を塗り、表面に白土か石灰を薄く塗る。次に黒色で下描きを描き、下描きに従って彩色。最後に黒色の細い線で輪郭を描き起こす。絵具の重ね塗りや混合はあまり行われず、全体的に平塗りで濃い褐色が画面を覆い、人物などの輪郭線に沿ってインド古代壁画の特徴ある技法の暈取りを施し、立体感を出す。
⑨サイン
なし。
⑩鑑賞のポイント
礼拝が行なわれる第10窟の塔院は、アジャンターの塔院中、もっとも規模が大きく、幅12.57メートル、奥行29.41メートル、高さ19.97メートルである[図5]。平面図で半円形の後陣にストゥーパ(仏塔)があり、列柱が馬蹄形の内部を身廊と側廊に区切っている[図6]。第10窟の右側廊壁面の上半分に、高い画技をもつ上層階級に奉仕した世俗画家が、白いターバンをし、口髭を生やした王様を描いた。18メートルの壁画は、奥から順に「シャーマ・ジャータカ」「六牙象ジャータカ」「菩提樹供養」「窟正面外観」という4つの主題が表わされている。王様は、森と王宮が描かれた仏教説話で、釈迦の前生物語であるジャータカ★3、スリランカで伝承されたジャータカ集第514番の「六牙象ジャータカ」の王宮場面に登場する。ヒマラヤの山中に象の群れがあり、六本の牙(きば)を持った白い象王が君臨していた。王には二人の夫人があったが、第一夫人に大輪の蓮華を贈ったことで、第二夫人が嫉妬をし、象王を恨みながら自害してしまった。やがて、カーシー国の王妃に生まれ変わった第二夫人は、六牙象の牙がほしいと王にねだった。猟師を呼び出した王は、森にいる六牙象から牙を取ってくるよう命ずる。猟師は六牙象を殺害し、牙を鋸で挽いて持ち帰った。王妃はその牙を見て、かの象王が夫であったことを思い出し絶命した。釈迦の前生であった六牙象のたたりだった。倒れた王妃を支え、水を飲ませて介抱する王様が生気を漂わせている[図7]。人物描写に優れたインド絵画。古代、ローマとの海上貿易が盛んな時期に制作されたインド最古の壁画であり、仏教絵画の源流に位置づけられる。
★3──釈迦が前生において将来悟りを得るために善行を積む物語。自己犠牲、布施、報恩、行為の因果関係を通して釈迦の教えを説く。漢訳仏典では「本生(ほんじょう)」と訳された。
図5 アジャンター第10窟内部
図6 アジャンター第10窟平面図
中央の広い空間を身廊といい、列柱の左右の空間を側廊という[提供:定金計次]
図7 《アジャンター壁画(第10窟:六牙象本生の王様)》の描き起こし図
(G.Yazdani, Ajanta, PartⅢ, 1946, Oxford University Pressをもとに筆者作図)
インドは人物画
アジャンター石窟中、壁画の残存面積がもっとも大きい第17窟には、第16窟等と同じく質も品格も高い壁画が多く残されている。窟入口前の列柱を伴った空間ヴェランダ(正面廊)の右後壁にある「飛天たち」である[図8]。定金氏は「線描の質や色の塗り方、人物の表情、身体の向きなど、総合的に洗練されている。下描きをベンガラ(赤)で行ない、雲にラピスラズリが使われ、ラックカイガラムシの臙脂(えんじ)も使用したと思われる。インド古代壁画の頂点をなす5世紀半ばの穏やかで、普遍的特質をもつ古典様式で、都会の高齢の一流画家が繊細な技巧を駆使し、5世紀後半に制作したと考えられる。世界的な視野で見ても特筆すべき質の高さだ」と言う。
図8 第17窟の飛天たち(《アジャンター壁画》部分/クリックで拡大可能)
インド美術は、様式的にいうと北が彫塑的(触覚的)、南が絵画的(視覚的)という違いがあるそうだが、古典様式はその差異を超越しているらしい。定金氏は「インドで絵画が高度に発達したというイメージは一般にはないでしょう。しかし、中国に全然負けていない。中国は風景画の国で、インドは人物画が魅力的。インド絵画の特徴を理解すると、その深みもわかってくる。アジャンター壁画も長年観察を続けて、絵画様式の変化が解明できた。第1窟はインドの壁画だとわかる人物の顔つき。より古い古典様式の顔はインド人らしくない。またインド人は彫刻にしても絵画にしても、表現対象としての人物について、その理想とする年齢が16歳であることが文献や資料からも読み解ける。つまり男性だと、性的能力はあるけれど、まだ髭が生え揃わない時期。女性は乳房など第二次性徴が早いから関係ないが、男性像で髭が生えていないのが理想の年代である。だからインドの仏像は中性的で髭がない。これは私の発見のひとつ」と語った。
※アジャンターに関する写真はすべて定金計次。©Archaeological Survey of India
定金計次(さだかね・けいじ)
京都市立芸術大学名誉教授。1949年大阪府生まれ。1974年京都大学文学部哲学科美学美術史学専攻卒業、1976年同大学大学院文学研究科美学美術史学専攻修士課程修了、1979年同大学院文学研究科美学美術史学専攻博士課程満期退学。同年京都大学文学部研修員、1980年助手、1981~83年文部省アジア諸国等派遣留学生としてインド・カルカッタ大学に留学、1983年京都大学助手に復職、1985年京都市立芸術大学美術学部講師、助教授、教授を経て、2015年定年退職。1987~88年「サンスクリット絵画論とインド古代壁画─理論と実際」(文部省科学研究費補助金)を遂行、1996~98年度「アジャンター壁画の様式的研究」(同前)を遂行、2005~07年「インド、タンジャヴールのブリハディーシュヴァラ寺壁画に関する現地調査および研究」(学術振興会科学研究費補助金)を遂行。専門:インド美術史。文学博士(京都大学、2005)。所属学会:東方学会、西南アジア研究会、密教図像学会、仏教史学会、日本南アジア学会、美学会、美術史学会。主な著書:『慧超往五天竺國傳研究』(共著、京都大学人文科学研究所、1992)、『世界美術大全集 東洋編第13巻 インド(1)』(共著、小学館、2000)、『仏教図像聚成:六角堂能満院仏画粉本』(共編、法蔵館、2004)、『芸術学フォーラム 4 東洋の美術』(共著、勁草書房、2006)、『アジャンター壁画の研究 研究篇・図版篇』(中央公論美術出版、2009)など。
作者不明
デジタル画像のメタデータ
タイトル:アジャンター壁画(第10窟:六牙象本生の王様)。作者:影山幸一。主題:世界の絵画。内容記述:作者不明《アジャンター壁画(第10窟:六牙象本生の王様)》1世紀前半~中頃(サータヴァーハナ朝)、テンペラ、縦約50×横約35cm、インド考古局管理。公開者:(株)DNPアートコミュニケーションズ。寄与者:定金計次、(株)DNPアートコミュニケーションズ。日付:─。資源タイプ:イメージ。フォーマット:Tiff形式41.6MB、360dpi、16bit、RGB。資源識別子:10-32(Tiff形式41.6MB、360dpi、16bit、RGB、カラーガイド・グレースケールなし)。情報源:定金計次。言語:日本語。体系時間的・空間的範囲:─。権利関係:定金計次、インド考古局、(株)DNPアートコミュニケーションズ。
画像製作レポート
《アジャンター壁画(第10窟:六牙象本生の王様)》の画像は、壁画を直接撮影した定金計次氏からUSBメモリーによって受け取った。画像借用料1万円、掲載期限なし。
iMac 21インチモニターをEye-One Display2(X-Rite)によって、モニターを調整する。『アジャンタ壁画』(日本放送出版協会、p.162)のカラー図版を参考に、Photoshopで明度を確認した(Tiff形式41.6MB、360dpi、16bit、RGB)。壁画の保存状態が悪いうえに、壁画保護のためにはめ込まれていたガラスの傷や、現場での不安定なライティングなど、撮影環境も厳しかったそうで、画像は不明瞭であるが、インド考古局より撮影許可を得た貴重な写真である。
セキュリティを考慮して、高解像度画像高速表示データ「ZOOFLA for HTML5」を用い、拡大表示を可能としている。
参考文献
・Ghulam Yazdani, Ajanta, the colour and monochrome reproductions of the Ajanta frescoes based on photography. 4parts, London, Oxford University Press, 1930, 1933, 1946 and 1955.
・高田修+田枝幹宏『アジャンタ 石窟寺院と壁画』(平凡社、1971)
・町田甲一+福田徳郎『アジャンター石窟寺院』(朝日新聞社、1987)
・定金計次「インド仏教絵画の展開──壁画の変転と礼拝画の成立」(『仏教芸術』第214号、毎日新聞社、1994、pp.75-131)
・定金計次「インド美術の一貫性──彫刻・絵画に見られる主題と表現の特性」(『美学』第183号、美学会、1995.12、pp.1-11)
・定金計次「アジャンター第九窟・第十窟壁画──制作年代の問題を中心に」(『東方學報』第70冊、京都大学人文科学研究所、1998.3、pp.441-505)
・高田修+大村次郷『アジャンタ壁画』(日本放送出版協会、2000)
・定金計次「古代絵画とアジャンター壁画」(『世界美術大全集 東洋編 第13巻 インド(1)』、小学館、2000、pp.305-320)
・立川武蔵+大村次郷『アジャンタとエローラ──インドデカン高原の岩窟寺院と壁画』(集英社、2000)
・定金計次『アジャンター壁画の研究 研究篇・図版篇』(中央公論美術出版、2009)
・山内和也+K.S.ラナ編『インド─日本文化遺産保護共同事業報告 第1巻 アジャンター壁画の保存修復に関する調査研究事業─2008年度(第一次ミッション)』(国立文化財機構東京文化財研究所文化遺産国際協力センター・インド考古局、2010)
・杉本卓洲『インド・ジャータカ図の研究』(起心書房、2022)
・Webサイト:「Ajanta Caves」(『Archaeological Survey of India Government of India』)2024.11.5閲覧(https://asi.nic.in/pages/WorldHeritageAjantaCaves)
・Webサイト:「Ajanta: The birthplace of Indian art」(『Google Arts & Culture』)2024.11.5閲覧(https://artsandculture.google.com/story/kwWx7U31h3nrJQ)
掲載画家出身地マップ
2024年11月