会期:2024/09/13~2024/11/04(北アルプス国際芸術祭、《AWHOB-O(後略)》)
2024/10/19~2024/11/24(南飛騨 Art Discovery、《益田風(後略)》)
会場:大町公園(北アルプス国際芸術祭)[長野県]
健康学習センター、キュアラの丘(南飛騨 Art Discovery)[岐阜県]
公式サイト:
https://shinano-omachi.jp/
https://minamihida-art-discovery.pref.gifu.lg.jp/
ゆるやかな斜面の真ん中に生えたイチイの木の傍らで、上ってきた斜面を振り返る。私の左右の山並みが、目線の先に向かってずっと続いているのが見えている。山の稜線の少し先で、握りこぶしのように固まったいくつかの雲の塊が音もなく進んでいた。そう、それは前に、進んでいたのだ。山並みが続く、下っていく方に向かって、音もなく。一点透視法の絵のように、向こうへ実際の焦点があるかのように、山並みは続いていって、雲もそこへ向かって進んでいく。雲の塊の間からは、ここよりもっと遠くに浮かぶ雲が、逆方向に戻っていた。手前の雲があまりに早く動くから、戻っているように見えたのかもしれない。
本当に、すぐ近くに雲があったのだろう。こんな風に、雲が進むのを見たことはこれまでなかったし、ああこうやって風は地面と関係しあってどこからか吹いてきてどこかへと吹いていくのだと考えた。考えた人がこれまでもいて、観測し続けてきたのだと確かめられた。この風と、この風を見上げているこのときのような経験を、船川翔司は《益田風(イチイの木の少し上方では別なる時の風が流れている)》とタイトルにしたのだろうと納得したのはこのときだった。 頭上のはるか上に白い観測気球が浮かんでいる(らしかった)。斜面の草の合間に転がった透明な球体のスピーカーからは、風の音に聞こえないことはない、何かが吹くような音が鳴っている。足元の草々も時折揺れている。頭上の空にも、この地表近くにも、風は吹いていた。
30分前、丘の斜面を上がり始める前、ふもとの南岐阜健康増進センターの施設の一角で、同名作品を見始めた。ガラス張りで外の緑が見える場所に、枝や、小さな方角を示すオリエンテーション、照明などが置いてある。インストラクションに従って、なにかを計測するマシーンのハンドルを手に握る。枝と私を微弱な電流が通過して、マシーンからはレシートが印刷される。外にあるイチイの木から浮かべられた気球の観測している風のデータが印刷される。明るい室内ではささやかに感じるカラフルな照明が点灯し、スピーカーからは知らない歌★1が聞こえてくる。手を離すと、音も光も止み、初めと同じようにガラスの向こうで緑が静かに揺れている。だが風よりも、センターに着く前に橋で渡った澄んだ小川がどこからやってきたかが気になっていた。
3時間前、山道を車で上っていた。細く曲がりくねった道の2メートル先はよく見えない。ガードレールの曲がり方とナビの紫の線を瞬時に見比べながらから、まだもう少しはこのように曲がっているのだと予測して走る。どの高さからこのようになったのかは覚えていない。曲がるたびに標高は上がっていき、気づけば辺りは白くなっている。もしどこか遠くから私自身を眺められたなら、この白い車が白い雲の中に下から入っていくときがわかっただろう。辺りが白くはなかった頃、山の緑は赤と橙と黄色まじりになっていて、青空との境目が光っているようだった。
そんなことを思い出しながら慎重に前へ進んでいると、視界から道路が消えた。そこから先は下り坂、山の尾根を私は越えていた。いずれ視界は開ける。
24時間前、山のへりにある公園で、反対側の山★2を眺めていた。長細い谷のようになった土地であることは、車で走っていると、左右に山のあることで感じていたし、目の前にある半透明でキラキラ光る一帯の模型からもよくわかる。視界の端から端までずっと続く向かいの山並みは、上4分の1ほどに細い雲がまとわりついている。龍のようだと言われることもあったらしい。虹色の百葉箱は、子どものときと同じく、やはり何を観測しているのかはよくわからない。振り返った斜面には虹色で背の高いテントのようなものと、もこもことした透明なドーム、組まれた太い枝、積まれた石とその隙間の穴。音が鳴ったり、膨らんだり、風が吹いたりする。
《AWHOB-O – ある天気と此性の観察局 – 大町》は大町公園の芝生の斜面にあるこれらの観測装置からなる。どこかでセンシングされた風は異なる事象に変わっているのだが、私に観測できるのは変わった方のものだけだ。だが、観測装置とは元来そのようなものかと思う。装置を眺めていると、水色のニットを着た船川が現われて、少しお話ししてもいいですか、と話し始める。作家による作品解説と思っていると、言葉はどんどんと流れ出しこちらが言葉をかける隙もない。世界の同じ広がりの上にある土地の起伏を乗り越えてくる風。気象の話は、やがて空間だけでなく、時間や季節を越えた連なりの話として語られる。区切れない語りは「季節の一つ一つを数えてみると、あなたと私はちがうものかもしれませんが、季節が流れ繋がっているこの広い広い天気の中では、時々私たちは同じものかもしれません」と締められる★3。
同様に確からしい、という日本語を思い出す。この、同様な確かさ、を船川は追っているようにも思った。二度とは同じでありえないこの世界の事象のなかで、同じ物事が届くかもしれないことを、同じ物事が誰かにも届いていたかもしれないことを、この人は聞きつけたようだ。ここでの観測結果は、らしい、と船川が言ったことを信頼し、山を越え、風を追おうと私に思わせるのには十分過ぎる便りであった。
明日、南飛騨にも行きますね、と私は告げた。
[筆者撮影]
★1──Lisa Taylorの『Fallen Angel』(1992)とのこと。下呂の街を夜歩いていたときどこからともなく流れてきて、スピーカーがあるにもかかわらずどこから聞こえているのかよくわからない、という体験を船川はしたそうだ。
★2──反対の山にある宮の森自然園には、小内光の《えねるぎの庭》が展示されていた。筆者はセノグラファーとして小内に協力していたため、船川の作品のある山並みを何度か眺めている。反対の山と同じように、この山もまた上の方に細い雲がまとわりついていた。
★3──船川の語りは、現地で配布されていたハンドアウトに全文掲載されており、一言一句変わらない言葉が紙面を埋めていた。
鑑賞日:2024/10/29(火)[北アルプス国際芸術祭]、30(水)[南飛騨 Art Discovery]