文学フリマ東京39
会期:2024/12/1
会場:東京ビッグサイト(西3・4ホール)[東京都]
公式サイト:https://bunfree.net/event/tokyo39/
2024年12月1日は「文学フリマ東京39」の開催日であると同時に「TOKYO ART BOOK FAIR 2024」の最終日でもあった。つまり、広義のオルタナティブな出版に対する熱が東京で特に高まった日であったと言っていいだろう。特にとりわけ文学フリマに関しては、会場を東京ビッグサイトに移しての初開催かつ、入場有料化以降2回目という点においても注目が集まっていた。
近年の文学フリマにおける来場者数の増加はよく知られたもので、特にコロナ禍以前と比べるとおよそ3倍の伸びを見せている。有料化や会場の変更も主にそうした規模の拡大によるものだと推察できるが、一般参加における実感としては、せいぜい展示場間の行き来や階の上下にともなう煩雑さが減ったくらいで、東京流通センター時代と空間的な混雑の状況はほぼ変わらないように思えた——会場面積自体がそれほど増えているわけではないので当然とも言えるのだが。こうした好況を「新たな出版文化の隆盛」あるいは「大手という概念の終焉と個人〜中規模出版の全面化」と捉える向きは多い。一方で「商業性の安易な拡大」「過密によって偶然の出会いが起きづらくなっている」といった批判も存在する。特に必ずしもどちらかに同意するつもりもないが、祝祭性が純化されつつあるという見方はできるかもしれない。すなわち、オルタナティブな出版の場としての実効的な役割ではなく、文学フリマへの参加とそこでの交流自体がある種の恍惚として増幅されているというわけだ。例えば「文学フリマは書き手 – 読み手ではなく、書き手どうしによる閉じた経済圏であり、そこで流通する本は多くの場合読まれない」といった指摘を目にすることがある。しかし個人的な所感を言えば、そもそもほとんどの本は今・ここで読まれるために買われるわけではない。情報の流布と保存の時間感覚に対するデザインとしてテキスト・本・出版を捉えるのであれば、それは即座に読み捨てられるものから人類の終わりまで開かれないものまで、無数の広がりを持っているはずだろう。読まれないこともまた、本の本たる性質を示しているのであれば、それを売り買いする場はもっと純粋に祝祭的であってもいいはずだ。
TOKYO ART BOOK FAIR 2024
会期:2024/11/28~2024/12/1
会場:東京都現代美術館[東京都]
公式サイト:https://www.mot-art-museum.jp/exhibitions/tokyo-art-book-fair-2024/
一方のTOKYO ART BOOK FAIRもまた、例年どおりの盛況に見えた。TOKYO ART BOOK FAIRは「アート出版に特化した日本で初めてのブックフェア」と説明されるが、「アートブック」の定義が比較的自由であるという点において広がりがある。公式で「個性豊かなアートブック,カタログ,アーティストブック,そしてZINEなど」と書かれているように、それは単なる作品集やビジュアルブックではなく、印刷を通じたアクティビティが持つアート性を包括する場として捉えられる。しかし、TOKYO ART BOOK FAIRや文学フリマといった本来広い裾野を持つ出版系のイベントたちが、相互に共鳴しているとはあまり思えないのはなぜだろうか。あるいは、文芸かアートかといった区分とは別の回路において、これらを行き来することはどのように可能だろうか。例えば、近年のリソグラフの流行などはひとつの着眼点になるだろう。印刷速度と低価格性に優れたリソグラフの導入は、継続的に小規模出版を行なううえで有力な選択肢である。同時にリソグラフが持つ印刷表現の幅と質感は、ビジュアルブックとの親和性も高い。
さて公式によれば、文学フリマは「出店者が『自分が〈文学〉と信じるもの』を自らの手で販売」する場として定義されている。歴史的に見れば文学フリマの成立背景には、大手出版社がほぼ唯一の文芸の流通経路であった時代における批判精神が存在し、ゆえに先の定義には「他の誰が〈文学〉と認めなかったとしても」の一語を補うべきかもしれない。しかしそれ以上に面白いのは「自らの手で」という箇所だろう。この自ら(=出店者)は作者本人であるのみならず、個人〜小規模の出版メディアでもあり、近年では大手出版社さえも含まれ始めている(多くの出版社は法人格を有しているのだからそれを「自ら」と呼ぶことは十分可能だ、というのは少々冗談が過ぎるだろうか)。いずれにせよ、売り手と買い手が直接交わるという性質は、文学フリマの出店者数の内訳においてエッセイが多くを占めることとどこか地続きのように思える。顔が見える——少なくとも人から手渡しで買ったという手触りがある——ことは否応なく、その本をある種の私信のように受け取らせる効果を持つ。個々を消し去るような祝祭であると同時に、その最中において密かな私信を交わし合うことができる場。それは出版のみならず、表現の授受が発生するさまざまな場面において問われるべきジレンマであるように思われる。
鑑賞日:2024/12/1(日)