
会期:2025/01/11〜2025/01/19
会場:シアター風姿花伝[東京都]
作:デヴィッド・マメット
翻訳:一川華
演出:稲葉賀恵
出演:湯川ひな、大石継太
公式サイト:https://www.pauju-play.com/
(前編:『リタの教育』はこちら)
『オレアナ』の物語は、20歳の女子学生キャロル(湯川ひな)が40代の大学教授ジョンの部屋を訪れる場面からはじまる。単位を落とすわけにはいかないのだと必死に訴えるキャロルに対し、提出されたレポートでは単位を認めるわけにはいかないが、個人授業を受けるのならばどうにかしようと妥協案を提示するジョン。それは親切心からの申し出だったのだが(あるいは、折り悪く新居の購入についてトラブルが発生したと聞かされ浮き足立っていたジョンにとっては面談を早く切り上げるための提案でもあったのかもしれないが)、しかしこのときのやりとりが原因でジョンはキャロルに告発されることになる。やがてジョンは手に入る寸前だった大学の終身在職権も購入予定だった新しい家も、それどころか大学での職自体をも失うことになるだろう。
キャロルの主張はこうだ。ジョンは「性差別主義者」かつ「エリート主義者」であり、「定められたテキストから逸脱して時間を無駄遣いすることを要求し」「密室で学生と二人きりになり」「脱線的かつ露骨に性的な話をし」「先生と学生という人工的な制約を取っ払おうと言った」云々。ジョンとキャロルのやりとりを実際に目にしていた観客からすればジョンに性的な意図がなかったことは明らかであり、キャロルの主張はかなり誇張されたもののように感じられる。だが一方で、キャロルも言う通り彼女が指摘する内容の一つひとつを完全に否定することは難しいのもまた事実なのだ。彼女の主張はたしかにジョンの実際の言動に基づいているからだ。
ジョンの落ち度は自らの特権性に無頓着だったことにある。性的な意味をもちかねない言葉遣いや行動に気をつける必要があったことはもちろんだが、おそらくそれ以上に問題だったのは、大学というシステムのなかで生きる自らの立場と特権を棚に上げ、高等教育の無益さを説いたことだろう。しかも、必死で学ぼうとする学生に対してそれをしているのだから傲慢の誹りは免れ得ない。ジョンの言葉は学生に対する抑圧でしかない。
だが、キャロルの告発が二人の立場を逆転させる。三部構成の第一部ではキャロルの単位をジョンが握っており、だからこそキャロルはジョンの話をどうにか理解し、適切な言動を選択しなければならなかった。ところが、第三部ではジョンの運命をキャロルが握っている。ジョンはキャロルの理解しがたい主張をなんとか理解し、適切な言動を選択しなければ職も家も失ってしまう。このような逆転はジョンに自身が行使していた特権を鏡写しのように自覚させる契機、いわば教育の機会ともなり得るはずのものだが、残念ながら(あるいは当然のごとく)その教育は失敗することになるだろう。
交渉は決裂し、ジョンはキャロルに部屋を出ていくように告げる。だが、去り際のキャロルが「奥さんを『ベイビー』って呼ぶな」と言ったのを聞いたジョンは激昂し、ついに暴力を行使してしまう。「あんだけよくしてやって……? 私に……レイプ……? 冗談だろ……?」。床に打ちつけられジョンの足元で身を縮めるキャロルの最後のセリフはこうだ。「……うん。そうよね」。いくら優位な立場にあっても腕力では女性は男性に敵わない。キャロルは我が身でもって改めて証明してしまったその絶望を噛み締めるしかないのだった。
では、現実世界においてこの『オレアナ』という作品は有効な教育の機会となり得ただろうか。キャロルはジョンによる「父権的特権」の悪用を指し「これがレイプでなければなんなんですか」と糾弾する。「私をここに呼んで、分かっていない子どものように扱い、説明しようとする」その態度を。しかし私が観劇した回ではこの場面においてでさえ、客席の最前列に座る数名の男性観客から笑い声が漏れていたのだった。なるほど、確かにキャロルが糾弾しているのは文字通りのレイプではなく、それどころか身体的行為ですらない。最前列の男性たちはそれをレイプと呼ぶ「大仰さ」に笑ったのかもしれない。だが、そこで笑える特権性こそがここで撃たれているもののはずではなかったか。
もちろん、演劇の上演は教育を目的としたものではない。だがそれにしても、と思ってしまうのだ。これは今回の上演に限った問題ではないが、今回はテーマが明確な2本立て上演だったからこそ余計に考え込んでしまうのだった。
ポウジュの次回公演は2025年12月。タイトルはまだ公表されていないものの日本初演のアメリカ戯曲を駅前劇場(東京・下北沢)で上演予定とのこと。公演の詳細は後日公開。
観賞日:2025/01/13(月)