発行所:五柳書院
発行日:2024/11/26
公式サイト:https://goryu-books.com/books/books-647/

本書が対象とするのは、ソ連が崩壊した1991年から現代までの、およそ30年あまりのロシア現代美術である。全体を通して、著者がこれまでさまざまな媒体に寄せてきた文章がもとになってはいるが、「歴史篇」「主題篇」「作家篇」の三部に分かれた構成は見通しがよく、ロシア美術について基本的な知識がない読者にとっても接近しやすい一冊である。

第一部「歴史篇──現代ロシア美術小史」では、20世紀前半のロシア・アヴァンギャルドから社会主義リアリズム、さらにスターリン死後の「雪解け」から非公式芸術の締めつけにいたるまでの流れを簡単に復習しつつ、ソ連崩壊後に浮上したオレク・クリーク(1961-)のようなアーティスト、モスクワ・コンセプチュアリズム・サークルに属していたヨシフ・バクシュテイン(1945-2024)のようなキュレーター、さらには新興のギャラリー、アートフェア(アート・モスクワ)、芸術祭(モスクワ国際現代美術ビエンナーレ)が幅広く紹介される。これに加えて、ヴォイナやプッシー・ライオットのような世界的に知られたパフォーマンス・アートや、地域とアートについてもそれぞれ一章が割かれている。

第二部「主題篇──アートと社会」では、パンデミックやウクライナ侵攻といった、近年ひろく耳目を集めた話題が目を引く。あるいはジェンダーや宇宙主義のような重要なトピックについても、それぞれ一章が割かれている。『美術手帖』をはじめとする媒体に書かれた時評的なテクストが、こうして一冊の書物に束ねられたことの意味は大きいだろう。

第三部「作家篇──アートと人間」は、それまでにも部分的に登場していたレオニート・チシコフ(1953-)、ターニャ・バダニナ(1955-)、ウラジーミル・ナセトキン(1954-)、アレクサンドル・ポノマリョフ(1957-)についての作家論である。著者が言うところの「遅れてきた青年」(283頁)であるかれら50年代生まれの作家たちは、過去に大地の芸術祭や瀬戸内国際芸術祭で作品を実見できる機会こそあったものの、本邦ではいまだ広く知られているとは言いがたい。今回、このようにまとまった作家論が読めるようになったことには、やはり大きな意味がある。

ここまで概観したように、年表や索引も含めて400頁を超える本書は、長年この分野に携わってきた著者の集大成とも呼べる一冊である。本書を読んでいてとりわけ印象的だったのは、著者がじかに接してきた作家たちの肉声が、随処に響きわたっていることだ。たとえば2017年の奥能登国際芸術祭に参加したおり、「肌でこの土地〔=珠洲〕の海や波を感じ」るために夜の海で突然泳ぎはじめたアレクサンドル・コンスタンチーノフ(1953-2019)。あるいは、2003年の宗教をテーマにした展覧会に際して──おそらくユダヤ人という理由で──作家として唯一告訴され、のちに国外転居、失踪、そして不審な死を遂げたアンナ・アリチューク(1955-2008)。ここに書き留められた彼らの言葉は、ロシアの現代作家たちとじかに付き合ってきた著者だからこそ書きえたものである。本書は「ロシア現代美術」についての充実した紹介であるとともに、みずからそこに多大なる力を注いできた、著者自身のパトスが刻印された一冊でもある。

執筆日:2024/2/15(土)