発行所:以文社
発行日:2024/12/20
世にある理論的な書物のほとんどは、ひとつの対象、ひとつのテーマをどこまで深く論じることができるかを、みずからの生命線とする。しかしそのなかには、いくつもの対象、いくつものテーマをめぐって、読者が思いもつかないような「線」を描き出すことに長けた書物もまた存在する。私見では、後者のような書物の生命線とは触発である。すなわち、そこに籠められているのがなにがしかの「知」のパッケージではなく、読んだ人々の思考を変容させる「刺激」の塊であるとき、その書物はみずからの使命を遂行したことになる。そして、田崎英明(1960-)が過去に発表してきた『ジェンダー/セクシュアリティ』(2000)や『無能な者たちの共同体』(2007)といった書物もまた、紛れもなく後者に属するものだった。
本書『間隙を思考する』は、2021年から23年にかけて月刊『福音と世界』に連載された文章が大部分を占めている(およそ三分の二)。そのような事実からも予想されるように、本書には──月刊『未来』の連載をもとにした──前著『無能な者たちの共同体』と同様のリズムが刻まれている。本書では、だいたい6000字ほどの短い章節を一単位とし、その個々の章節のなかで、あるいは章節をまたいで、映画、ヒップホップ、現代思想、フェミニズム、政治理論をめぐる多種多様な議論が繰り広げられる。文章はけっして晦渋ではない。そのかわり読者には、さまざまなトピックのめまぐるしい切り替わりに対応することのできる、柔軟な思考の運動が要求される。
ひとつのケースを挙げよう。Part 1「間隙のリアリズム」のある章(29-38頁)では、「作者の死」といういまや古典的な問いをめぐって、近代的な「作者」概念の起源としてのシェイクスピアが──マージョリー・ガーバーの研究書『シェイクスピアあるいはポストモダンの幽霊』とともに──導入される。そこから話題は、近代的な芸術作品のもつ統一性や全体性を解体するジャンルとしてのヒップホップへと流れ込み、Nasのデビュー・アルバム『イルマティック』(1994)におけるリアリズムの根拠が──ポンテコルヴォの映画『アルジェの戦い』(1966)との類比を通して──論じられる。そうかと思えば、同節の終盤では奴隷として生まれた政治家フレデリック・ダグラスの『自伝』(1845)の記述を端緒に、ヒップホップのMVにおけるシンクロニシティ/非シンクロニシティが、マイノリティが生き延びるための戦略として提示される。
本書に書かれていることを要約しようとすれば、どうあっても、以上のような要領を得ない説明に終始せざるをえない。本書はテーゼのみならずそのスタイルにおいても、読者をたえず「間隙」に置き、その「ずれ」を感覚させることを意図しているかのようだ。本書の英題(Thinking Asynchronically)に倣うならば、そのような「間隙」や「ずれ」は空間的なものとは限らず、複数の時間にまたがる「非同時代性」(エルンスト・ブロッホ)の謂いでもある(12頁)。
その「間隙」にしてもそうだが、本書の副題にある「グリッチ・コミュニズム」というコンセプトも、あくまで本書を束ねるための便宜的な呼称だと考えるべきだろう。だが、これはこれで魅力的な概念である。周知のように、グリッチ(glitch)とはもともと機械やコンピュータの誤作動ないしエラーのことだが、いまや芸術表現においても、非意図的かつ機械的に生じる「グリッチ・ノイズ」を積極的に利用した作品を目にすることは珍しくなくなった。著者があとがきで触れている「グリッチ・ポップ」というプレイリスト──ここには2021年に急逝したソフィーの楽曲が含まれていたという──のように、「グリッチ・◯◯◯」は、かつて「アシッド・◯◯◯」という言いかたが体現していたような、ある種の時代精神を象徴しているように思われる★。
★──ここで想定しているのは、むろん音楽ジャンルとしての「アシッド・ハウス」や「アシッド・フォーク」であり、批評家マーク・フィッシャー(1968-2017)のいう「アシッド・コミュニズム」である。なお本書を読んで、試みに各種サブスクリプション・サービスで「Glitch Pop」というプレイリストを検索してみたところ、それなりに異なるテイストのものが共立していたことを書き添えておきたい(そのなかには、むろん、著者が言及しているソフィーの楽曲を含んだものもあった)。この統一的なテイストの不在も、「アシッド」と「グリッチ」の大きな共通点だろう──なぜならそれらの形容はともに、ある特定の「音」の様式を表象しうる言葉ではないのだから。
執筆日:2024/2/15(土)