建築だけではなく、美術展、芸術祭、映画、オペラ、コンサート、あらゆる文化事象を建築の視点から読み解く、旅する建築史家・五十嵐太郎さん。今回は香港と台北を訪れ、当地で開催していたI.M.ペイ展、M+でのさまざまな展覧会、台湾での近現代建築展などについて過去の見聞も織り交ぜながら綴っていただきました。(artscape編集部)
I.M.ペイの回顧展
年末に香港のM+を再訪した。前回は時間がなく、駆け足だったので、じっくりと鑑賞し、結局、5時間以上も滞在した。今回の最大の目的は、ルーヴル美術館のガラスのピラミッドなどで知られる中国系アメリカ人の「I.M.ペイ:人生は建築である」展(2024/06/29-2025/01/05)である。彼は1983年に第5回のプリツカー賞を受賞しており、2019年に亡くなったが、おそらくこれが最初の本格的な回顧展となるはずだ。1917年、ペイは中国の銀行家の家に生まれ、香港や上海で暮らした後、1935年に渡米して、MITで学位をとり、1946年にハーバード大学の大学院を修了している。最初のセクションで驚かされたのは、初めてその内容を知った彼の卒業設計だった。1940年に提出したものだが、救国の活動をするための、竹やプレハブの素材を用いた移動式のパビリオンである。すなわち、当時は中国と日本は戦争状態にあり、これはいわば抗日運動の施設だ。M+の会場では、設計趣旨を記した論文とモックアップが展示されていた。彼はアメリカにいながら、祖国の状況を憂いて構想したものだろう。
《抗日運動のパビリオン》、「I.M.ペイ:人生は建築である」展 展示風景[筆者撮影]
展示は彼の生涯をたどり、ハーバードでグロピウスに学び、ペイが上海の中国美術館を設計していたことが紹介される。彼は多くの美術館を手がけたが、その原点というべき作品だろう。1948年にペイは不動産会社のウェブ&ナップで働きはじめ、大型の仕事のやり方を覚え、1955年にI.M.ペイ&アソシエイツ(1966年にI.M.ペイ&パートナーズと改名)を設立する。展示の第3セクションからは、ワシントンの《ナショナル・ギャラリー》、《コーネル大学美術館》、《ミホ・ミュージアム、ドーハの《イスラム美術館》など、美術館を中心とする公共建築が数多くとりあげられていた。また彼がカルダーやピカソなど、さまざまなアーティストとコラボレーションし、パブリック・アートを導入していたことにも触れている。もっとも、彼がヘンリー・ムーアと作品を設置する場所をどこにするかについて激しく議論する映像もあり、普通の建築展にない切り口が興味深い。
第4セクションは、権力と政治がテーマになり、《ジョン・F・ケネディ図書館》などの作品もあるが、ハイライトはルーヴル美術館のガラスのピラミッドをめぐる論争だろう。当時のメディアによる辛辣な批判、現場で大きさを示すべく、カーボンファイバーのケーブルでピラミッド型を設営したこと、完成後に称賛されたことなど、一連の経緯がよくわかる。テレビや雑誌などで、ペイがどのようにとりあげられたかを示すコーナーを挟んで、第5セクションの「素材と構造の革新」、そして第6セクションの「デザインを通した歴史の再解釈」と続く。前者はHPシェルによる台湾の《東海大学路思義教堂》、アンビルドのタワー計画、《MIHOチャペル》、《自邸》など、後者は大阪万博の《台湾館》、北京の《香山飯店》、《蘇州博物館》などをとりあげる。多面的にペイの業績を振りかえる展覧会だった。中国から移住し、これだけの成功をおさめたのだから、まさにアメリカン・ドリームを体現し、世界的にも活躍した建築家である。なお、今回の展覧会にあたっては、米田知子を含む、7名の写真家に彼の建築の撮影が依頼されていた。
メディアのなかのペイ、「I.M.ペイ:人生は建築である」展 展示風景[筆者撮影]
ルーブル美術館をめぐる論争、「I.M.ペイ:人生は建築である」展 展示風景[筆者撮影]
中銀カプセルが追加されたM+
M+の建築・デザインのコレクション展示は、おおむね昨年と同じラインナップだったが、日本の関係では、やはり解体された《中銀カプセル》の実物ユニットが、移築された倉俣史朗の寿司屋《きよ友》の前に新しく設置されていた。ほかに陸前高田の《みんなの家》とその初期案、藤森照信の《空飛ぶ泥舟》の模型なども増えている。今回は時間があったので、アーキグラムの作品と活動を紹介する1967年に制作されたBBCの番組映像の全編をじっくりと見たが、とてもよくできている。同じく上階のメガフロアでは、ほかにシンディ・シャーマンと森村泰昌展(2024/12/14-2025/05/05)、山水展(2024/02/03-)、シグ・コレクションによる中国の近現代美術展(2023/09/22-2025/06/26)(これも作品を入れ替え)が開催されていた。また地階では、ダン・フォー×イサム・ノグチ(2024/10/26-)と、村上あずさ+アレクサンダー・グローブス「フローティング・ワールド」展(2024/08/31-2025/02/02)があり、特に後者が良かった。すでに日本科学未来館で見ていた作品も含んでいたが、小部屋ではなく、大空間で展開すると、迫力が違う。
移設された中銀カプセル M+での展示風景[筆者撮影]
思いがけない収穫だったのが、M+の横山いくこがキュレーションを担当した1階の企画展「郭培(グオ・ペイ):ファッション・イマジネーション」(2024/09/21-2025/04/06)である。アルファベットでは、ペイ(Pei)なので、同時開催のI.M.ペイの親戚か家族なのか? と思ったら、建築家のほうは「貝」なので漢字の表記が異なり、関係はない。彼女は中国を代表するファッション・デザイナーであり、煌びやかな作品群には、パリのシテ建築遺産博物館の依頼を受けて、ゴシックや透視図法など、建築をモチーフにしたシリーズの衣装も展開していたことが興味深い。またそれぞれのファッションにあわせた別の作家によるアートやデザインを混入させたり、会場デザインも秀逸だった。ところで、グオ・ペイは筆者と同年の1967年生まれである。個人的に初めて中国を訪れたのは1991年頃なのだが、当時の中国人がどのような服を着ていたかを覚えている。いまと違い、まったくファッションはなかった。したがって、そうした環境から彼女が登場したことが、いかに凄いことなのかが実感できる。
建築をモチーフにしたシリーズの衣装、「郭培:ファッション・イマジネーション」展 展示風景[筆者撮影]
体系化される台湾の近現代建築展
年明けには、忠泰美術館で開催されたポスト戒厳令の時代をとりあげた企画展「台湾における解放の建築世代」(2024/08/31-2025/01/12)を鑑賞するために、台北を訪れた。昨年の台北市美術館の「モダンライフ:台湾建築1949-1983」展(2024/03/23-06/30)に続き、戦後の建築史を体系化する試みが続いている。また台南市美術館の「陳其寬:雙曲・交響」展(2024/04/25-09/22)は、絵画と建築の二刀流で活躍した陳其寬(チェン・チ・クアン)の回顧展だった。彼は1921年に生まれ、アメリカで学び、グロピウスと知り合い、東海大のI.M.ペイの《路思義教堂》に関わったほか、キャンパス計画、その他のモダニズム建築を手がける一方、動物などをモチーフとした愛らしい絵も制作している。意外と日本では、こういうタイプの建築家は少ないだろう。
路思義教堂の模型とタイル、「陳其寬:雙曲・交響」展 展示風景[筆者撮影]
これ以前にも台湾に足を運んだとき、国立博物館などで、いくつかの近代建築の小企画を目にしてきた。例えば、2023年の「台湾戦後経典手絵施工図建築展」(新北市立図書館)は、戦後モダニズムを代表する作品の青図と模型を紹介する渋い内容の巡回企画である。会場では、王大閎の《国父紀念館》、ペイの東海大の《路思義教堂》(知られざる初期の木造案も紹介していた)、丹下健三の《聖心女子高校》、早稲田大学で学んだ陳仁和の小学校、市場、寺院、ゴットフリート・ベームによる《菁寮聖十字架天主堂》などの手書きの大きな図面群が机の上に置かれ、それをめぐる体験を誘う。また同年に国父紀念館を再訪すると、おそらく展示がリニューアルされたのか、設計者の王大閎についてきちんと紹介していた。
「台湾戦後経典手絵施工図建築展」[筆者撮影]
したがって、近代建築の調査の総集編的な内容となったのが、「モダンライフ:台湾建築1949-1983」展だろう。この時代の区切りは、中華民国政府が台湾に移転し、戒厳令が布告された1949年から、会場となった台北市美術館が誕生した1983年まで、である。大きな流れとしては、戒厳令下におけるモダニズムであり、脱日本、アメリカの援助による影響、中華的デザインの復興、リージョナル・モダニティ、新しい生活など、アイデンティティをめぐるテーマが複雑に交錯する歴史だが、建築教育や女性建築家(王秋華、修澤蘭、王秀蓮)などのトピックにも注目していた。こうした全体の歴史的な位置づけに関する情報は、ほとんど日本で得ることができないので、大変にありがたい展覧会である。建築専門ではない、一般の来場者が多いことも印象的だった。ちなみに、台北市美術館では、常設の作品として隣に王大閎の《自邸》(1953)も再現されている。小さなモダニズムの住宅だが、円窓など、中国的な意匠も加えたものだ。
「モダンライフ:台湾建築1949-1983」展 展示風景[筆者撮影]
再現された王大閎の自邸[筆者撮影]
さて、忠泰美術館のポスト戒厳令の展覧会だが、台湾の戒厳令は1987年に解かれるまで38年も続いており、ちょうど台北市美術館がとりあげた後の時代に焦点をあてたことになる。また注目すべきは、多くの研究者の協力を得て、いわゆる作品や建築家の紹介というよりも、経済の状況や地震など、社会との関係を重視したり、人のネットワーク、雑誌の言説や展覧会を含むメディア、コンペ、イベントなどのソフト面を主要な切り口としたことだ。ぶっ壊したい建物をめぐる討議なども紹介されており、ニヤリとさせられた(李祖原によるポストモダン建築の《台北101》は上位)。意外に日本でも、こうした情報環境を振りかえる展覧会はあまりないのではないか。ちなみに、ポスト戒厳令の世代という括りは、当事者が自ら宣言したものではなく、今回の展覧会によって命名されたものである。美術館によれば、1963年前後に生まれ、1987年頃に建築教育を終えた世代だという。もちろん、ポスト戒厳令の括り方については批判もあるらしいが、まずは議論の叩き台となる仮説を提示したことは評価できる。なお、展示の最後のパートは、メモリアル、学校、集合住宅、宗教施設など、いくつかのビルディングタイプをピックアップしながら、建築家の作品を紹介している。例えば、宜蘭を拠点に活動し、ギャラリー間で個展も開催されたフィールドオフィス・アーキテクツ、新竹の東門広場のリノベーションを担当した邱文傑、ヴェネツィア・ビエンナーレ国際建築展2008に参加したインターブリーディング・オフィスなどだ。
「台湾における解放の建築世代」展 展示風景[筆者撮影]
「台湾における解放の建築世代」展 展示風景[筆者撮影]
この展示で思い出したのが、ソウル国立現代美術館で開催された「紙とコンクリート:韓国の近代建築1987-1997」展(2018)である。やはり、社会の状況と連動させながら、作品ではなく、雑誌やイベントなどを通じて、言説や思想に注目したものだ。戦後、軍事政権が長く続いた韓国において、1987年に民主化が宣言されたことを踏まえた内容であり、言論と行動の自由が制限された時代が終わり、国外の情報が一気に入るようになったことの影響を紹介している。そして1988年にはソウル・オリンピックが開催された。80年代後半に韓国の両巨頭の建築家、金壽根と金重業が亡くなった後、海外旅行の自由化により新しい知見を得て、次世代の建築家が4.3グループや教育機関のSA(ソウル建築学校)などを立ち上げた。なお、1997年は経済危機が起きたときである。日本の1980年代は、景気が上向きになり、ポストモダン建築が一気に花開いた明るい時期だが、台湾や韓国では、大きな政治的な転回が起きており、それが建築展においても節目として刻まれたのだ。
「紙とコンクリート:韓国の近代建築1987-1997」展 展示風景[筆者撮影]
関連レビュー
王大閎の自邸と台北市立美術館|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2023年06月01日号)
Papers and Concrete: Modern Architecture in Korea 1987-1997|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2017年11月15日号)
I.M.ペイ《東海大学路思義教堂》|五十嵐太郎:artscapeレビュー(2009年04月15日号)>