会期:2025/03/01~2025/03/30
会場:HAPSオフィス[京都府]
公式サイト:https://haps-kyoto.com/hapskyoto_selection7/
「夜間に路上からガラス越しに鑑賞する」という特異な展示形態を活かし、「ゾンビ」のメタファーを戦略的に用いて、映像の「再生」そのものをメタ的に問う意欲的な個展。
3台のモニターに入れ子状に映るのは、どれも同じ「映画の上映」だが、平滑な矩形であるはずのスクリーンは三者三様に絶えず屈折し、歪み、さまざまな「現実の光景」が侵入して二重写しになる。赤い三角コーン、フェンス、舗装された歩道、看板の文字、植物、路上駐車された車のボディ……。澤田華は、プロジェクターを懐中電灯のように携えて、夜の路上や暗い室内を照らしながら彷徨い歩き、撮影を行なった。暗い路上や室内に投影されるのは、モノクロのゾンビ映画『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』(1968)。恐怖に歪み悲鳴を上げる顔、ドアに激しく打ち付けられる板、燃え上がる炎、緩慢な動きで襲ってくるゾンビの群れ……。ホラー映画であることは識別できるが、現実の物体の凹凸に干渉されて歪み、まったく無関係な「色」が次々と通り過ぎ、さらに自販機やコンビニの看板のまばゆい光が映像の一部をかき消してしまう。あるいは、手前にある物体の影が、映画の画面を黒く侵食する。「古典的な外国映画」の中に、現代の日本語の文字が唐突に侵入する。
[筆者撮影]
[筆者撮影]
澤田はこれまでも、「写真や映像を見ること」それ自体を成立させる条件や構造をメタ的に問い直す作品を手がけてきた。私たちは普段、「何を見ているか」の裏側で、あるいはその手前で、何を見損ねて いるのか。例えば、近作《ビューのビュー(糊と窓)》(2024)では、パソコンのデスクトップ上に並ぶデータのアイコンがクリックされ、再生ウィンドウが開き、さまざまな動画や静止画が(ときに複数重なり合って)再生され、クリックによって唐突に閉じられる。「四角いウィンドウ」とその入れ子構造、物質的な厚みをもたないデータであること、その等価性、そしてパソコンやスマートフォンの中に「個人が所有するもの」、すなわち二重の所有物であること。
本展も、「映像の所有」をめぐる問いが起点にある。『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』は、パブリック・ドメイン化され、動画共有サイトで無料で見ることができる。澤田は、自らゾンビのように夜間に徘徊することで、スクリーンや再生ウィンドウという「矩形のフレーム」から映画を解放し、夜の路上という「公共空間」に解き放った。その「漂流と憑依」は、現実の物体の干渉によって「映像のフレーム」を解体させると同時に、鑑賞者の知覚によって絶えず「補正」され続ける。澤田の歩行に伴って実際に動かされているのは映像のプロジェクションの方だが、鑑賞体験においては、「入れ子状にプロジェクションされた画面」を目が中心として追い続け、不動のはずの「現実の光景」の方が、上から下へ、左から右へと不断にあてどなく流れていくように見えるからだ。私たちは普段、「カットの編集」でつなぎ合わせられている映画を「滑らかなもの」として見ている。一方、シームレスに撮影されている「現実の物体の表面へのプロジェクション」がむしろ亀裂を伴って見えてしまう。その矛盾が露わになる。
「ゾンビ」というモチーフはまた、映像の「再生」それ自体を問う象徴的な存在だ。リビングデッド、すなわち「生きた死体」であるゾンビのように、すでに死亡した俳優でも、モノクロのフィルム映画という往年のメディウムであっても、何度でも蘇ることができる。古典映画のパブリック・ドメイン化は、「延命」でもある。そして、非実体的な亡霊的存在である映像は、光を受け止める物体の表面を必要とする。それを求めて、暗い路上をあてどなく彷徨い、次々と「憑依」し続けながら生き延びること。澤田は、明晰な手つきで映像の「ゾンビ性」を開示してみせる。
だが、本展における「ゾンビ」とは、さらなる輻輳的な構造をはらむ。作品中にしばしば写り込む「フェンス」は、その先への立ち入り禁止、すなわち映像の中には「侵入」できないことを象徴的に示唆する。映画はゾンビに襲われる者たちの恐怖と攻防を描くが、そのプロジェクションは現実の物体の「侵入」を受けて歪み続ける。だが、そうした逆転構造はさらに、ガラス壁によって安全な室内に隔離され、夜の路上に身を置く鑑賞者と隔てられている。私たち鑑賞者は、「暗闇で光を見つめる」という映画の原体験を共有しつつ、私たち自身が暗闇に放擲された「ゾンビ」として反転させられてしまう。私たちは、動画共有サイトからダウンロードして映画をデータとして「所有」することができるが、「映画の画面」の中にも、「そのプロジェクションを行なった澤田作品の展示空間」の中にも「侵入」することができない。いまや、「ゾンビ」であるのは、映像それ自体なのか、夜の路上を徘徊した澤田なのか、その両方を見つめる鑑賞者なのか。「ゾンビ」を軸に、特異な展示形態を活かして、映像論としての多角的な問いを投げかける秀逸な展示だった。
[撮影:岡はるか]
鑑賞日:2025/03/09(日)
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