会期:2025/02/08~2025/02/09

会場:葛西臨海公園[東京都]
公式サイト:https://ccbt.rekibun.or.jp/events/aquariumofair

前編より)

視覚の外、と考えたときにまっさきに浮かぶのは音である。布施の語り/騙りは特徴的だ。まるで急に代役としてガイドに指名されたかのような、ぶっきらぼうでぎこちない語り。海を挟んで浮かぶ東京ディズニーリゾートのキャストたちの迫真性とは比べるべくもない。いや、布施だけではない。それにゾロゾロと付いて歩く鑑賞者や唐突に始まるパフォーマンスと映像、着脱や操作を逐一指示されるHMDの他律性も含め、展示にまつわるすべての事象が、のどかな時間が流れる葛西臨海公園のなかにおいて異質な存在として浮き上がる。それは自身が虚構であることを、もしくは虚構を語る現実であることを高らかに宣言している。目を凝らすまでもなく、そこには現実と虚構の境界があるように思える。ここで私は、サルバドール・ダリのことを思い出している。ダリは指にスプーンを挟んだまま肘掛け椅子に座り、うたた寝をする。指から滑り落ちたスプーンは床のブリキ板にぶつかってけたたましい音を鳴らし、ダリを覚醒させる。ダリはこうした手法によって、半覚醒状態のイメージを現実へと持ち帰ろうとしたわけだ。布施が語るたび、作品を認識するたび、公園内を歩いている自分を意識するたび、私の身体は跳び起きる。では、そこで私たちはいかなるイメージを持ち帰っていたのだろうか。それともいかなる現実が夢へと溶け込んでいったのだろうか。

やがてツアーは水上バスへと辿り着く。その船内では、アーティスト・雨宮庸介によるパフォーマンスが展開される。これは正確には、雨宮のパフォーマンスの形式を借用し、布施の肉体において上演するものであった。船内での注意事項を説明する布施の語りは滑らかに奇妙な想い出へと変わり、正常な連なりを失って、最後には絶唱へと至る。布施が整合性の怪しい想い出をとめどなく語り始めるあたりで、私たちはそれがパフォーマンスへと突入していることを確信する。それは、夢から醒めた世界でもう一度覚醒するような体験に近い。見た夢を記憶できるのは、身体的には眠っているが脳自体は覚醒状態にあるためだ。こうした覚醒と睡眠の汽水域は一般的にレム睡眠と呼ばれる。レムとは“rapid eye movement”のイニシャルであり、この睡眠状態が眼球の急速運動を伴うことに由来する。瞼の裏で痙攣する眼球、それは「視線を外し続ける眼」としてイメージすることが可能だ。絶え間なく眠り続け、起き続けるような本展の体験のなかで私たちが得るもの、それは無限の眠り、もしくは過剰な覚醒のあいだで旋回する視線そのものであろう。

「パビリオン・ゼロ」の進行中にあたる2025年3月7日、雨宮は当時ワタリウム美術館で開催中だった自身の個展「雨宮庸介|まだ溶けてないほうのワタリウム美術館」の関連企画として、批評家の黒嵜想と7年ぶりの対談を行なっている。この対談に核となるワードがあるとするならば、それは「忘却」だろう★4。絶えずぶり返す記憶の群によって現在から引き剥がされ続ける私たちが、それでも今・ここに没入する(=「現代」美術たる)ためには、人工的な忘却の技術が必要となる。雨宮の実践とは、この技術の開発に関わるものではないのか、と★6。対談のなかで黒嵜は、布施が関わった直近の取り組み──「パビリオン・ゼロ」と「150年」展──にも触れ、忘却が持つ抗いがたい快楽について指摘する。つまり、今日のノスタルジーブームの背景にあるのは、記憶への執着ではなく、むしろ忘却の快楽なのだと。加速度的に堆積していく情報と決別するときにそこで流される涙とは、感傷を伴うものではなく、単なる廃液の類なのだと。実際、飽和した情報環境に暮らさざるを得ない現代の私たちが、ある種の健忘症的な状態に置かれていることは疑いようがないだろう。私たちは本当は覚える気もないのに──あるいはだからこそ──身体の内外を問わず記憶を保存し続ける。田舎を占拠するデータセンターの群はまさにその象徴である。そしてそれらはニューラルネットワークのための教育資源となり、その結果として生み出された人工知能はいまや創造/想像行為の旗手となりつつある。ChatGPTの語り/騙りとは、健忘症と化した私たちが捨て去った記憶を耳元で囁くものではなかったか。それは催眠的であると同時に強迫的な体験となる。

対談の最後には、哲学者・批評家の福尾匠から以下のような質問が投げかけられた。雨宮のVR作品のモチーフとなったゼウクシスとパラシオスの逸話──絵の腕を競うなかで、ゼウクシスは小鳥が本物と見紛って啄むほどの葡萄を描いた。一方のパラシオスは本物そっくりの「絵を覆うカーテン」を描き、これを見破れなかったゼウクシスは敗北した──において、小鳥はその後どうしたのかと。すなわち、絶えず入れ替わり続ける真偽に翻弄される人間たちのオルタナティブとして小鳥を見るならば、それは現実と虚構に対する雨宮の態度の一端を示すものではないのか、というわけだ。福尾は、葡萄が食べられないことに気づいた小鳥はすぐにどこかへ飛び去っていくのではないかと述べる。小鳥にとって真偽などどうでもいいことであり、その羽は軽やかに境界を飛び越えていく。ここで私たちは、冒頭に見た胡蝶の夢を思い出すことができる。胡蝶と小鳥はともに現実と虚構の差異から解き放たれた地平で踊っている。しかし雨宮は福尾にこう応答する。「小鳥は絵画を学んだ」のだと。この理屈に則れば「胡蝶は夢を学んだ」ということになる。確かに、現実と虚構の差異を知らないことと、知ったうえで意に解さないことは異なる。現実と虚構の境目とは、現実と虚構それぞれにとっての「視外」となるような領域のことではなかったか。現実と虚構のそれぞれを見分けているからこそ、それらから目を逸らすことが可能となる。ここにおいて私たちは、現実と虚構の境界を注視すると同時に無視することの可能性を「見る」。現実から目を逸らし、同時に虚構からも目を逸らすとき、私たちの周辺視野に彗星が降り注ぐ。

ツアーのクライマックスは谷口による展望建築・クリスタルビューにおいて迎えられた。それは、空虚な水槽であると同時に、1851年の記念すべき世界初の万博、ロンドン万博を象徴する建築であるクリスタル・パレスへと重なる。そこで私は、水上バス内での布施の絶唱を反芻している。布施が歌っていたのは、井上陽水の「少年時代」だった──夢はつまり 想い出のあとさき──夢も想い出も、現実でありながら虚構にもなりうる存在である。想い出は涙となって快楽とともに忘却の彼方へと流れ去り、夢は胡蝶の羽ばたきのまにまに吹き消えていく。少年時代、それは寺山の歌集『田園に死す』の始まりに位置する10首の短歌群の題でもある。その8首目は「夏蝶の屍ひそかにかくし来し本屋地獄の中の一冊」。ページとページ、虚構と虚構の間に現実を挟み込むことで本は開かれる。ゆえに閉じられた本のページのあいだもまた現実と虚構の視外であり、そこには忘却された蝶の屍が潜んでいる。

クリスタルビューのガラスに歪んだ風景はMeta Quest 3の画像処理を経由し、私の視界は揮発しかける。ここで私は、青森県・三沢の「三沢市寺山修司記念館」を訪れたときのことを思い出している。この建築の裏手には広々とした松林があり、これを散策する遊歩道が設けられている。霧とも雨ともつかない水煙が空気を満たし、木々の抽象的なシルエットだけがどこまでも続いている。道のところどころには寺山の歌碑がぽつりぽつりと立っており、それらを追っていると時折思い出したように視界が開ける。乳白色のレイヤーの向こうに、小川原湖や八甲田山の山並みが映像のように浮かんでいる──これもまた、ひとつの市外劇/視外劇と見立てうるだろうか。

見ることは記憶すること。記憶することは見なかったことすら見えるようになること。私たちが見落としたものを見せてくれるのではなく、見落としたままでいさせてくれること。それは展示というよりも風景に、演劇というよりも気象に、美術というよりも観察に近い。そしておそらくは、もっとも原初的な嘘でもある──このテキストをはじめに綴ったのが誰だったのか、私はもはや思い出すことができない。

鑑賞日:2025/02/09(日)、2025/03/14(金)、2025/03/15(土)

CCBT 2024年度アーティスト・フェロー 布施琳太郎
「パビリオン・ゼロ」
https://ccbt.rekibun.or.jp/art-incubation/19670

★4──ところで寺山もまた、今日の美術館を考える際に「忘却」というキーワードに着目していた。寺山の論考「美術館=忘却の機会 知の劇場としての考察」では、従来的な美術館がその内と外の境界を定める中で、鑑賞者もまた作品との個別的なつながりのみに隔離され、同時性が失われたことが指摘される。人々は美術館やそこに収められた作品を通じて、内宇宙に閉じこめられた自分自身を再発見する。それは閉じた芸術作品や美術館自体が、ある種の内宇宙の創造に他ならないからだ。寺山はそうしたなかで「芸術作品による『架空的な、或いは変形された宇宙の創造』」を考えるためにホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編「アレフ」を引く。同作には直径2〜3cmでありながら宇宙のあらゆる地点からの光景を内包した特異な空間《アレフ》が登場する★5。これを目撃した主人公は「街で、憲法広場の階段で、地下鉄の中で、どの顔もわたしには馴染み深いものに思われた。もうわたしを驚かすことの出来るものは何一つ残っていないのではないか、くり返しという印象からもう決して逃れられないのではないか」というある種の全知の恐怖を覚えるが、数日もするとその記憶も徐々に色褪せていく。これを受けて寺山は「美術館は、巨大な忘却の機会である。そこで、鑑賞者の穴だらけの精神は、自らの穴を忘却によって充たすのだ」と述べる。閉じた美術の内宇宙は鑑賞者に、すべてを見ることができるかのような錯覚をもたらすが、その実、そこで真に鑑賞者が得るものとは忘却の機会にすぎないのだと。その上で寺山は、美術/美術館を開くことの可能性に触れる。「一枚の絵、一体の彫刻と私との『出会いの偶然性』を組織するのは、精神の穴でも、忘却でもない。私自身の想像力なのである」。
★5──この《アレフ》の描写は、現代においては即座にGoogle EarthやGoogle Maps、あるいはあらゆる瞬間に撮影されシェアされる写真データ群へと結びつけることができるだろう。すなわち世界把握のためのテクノロジーとしての地図の問題である。雑誌『ドリーム・アイランド』に収められたテキスト「動詞的な恋人 キュレーション、ラブレター、オフ・ミュージアム」で布施は、二者間のやりとりを仲介するレイヤー=動詞的存在に焦点を当て、その作用によって二者の関係が流動化する可能性を探索する。ラブレター、代筆者、キュレーター。地図もまた、そのひとつとして取り上げられる。「またカオス*ラウンジは『市街』と作品展示の重ね合わせにおいて地図を活用したが、僕は『劇』と公園の現実との重ね合わせにおいてキュレーションを行った。そのとき地図の中間レイヤー的な作用は、印刷物からツアーガイドでありキュレーターの布施琳太郎の肉体へと移行した」。しかし本展示においては、別のレベルで駆動する地図の存在が不可欠であったことを付言しておくべきだろう。公園内を歩き回る数十名の参加者それぞれに同一の視界をもたらすには、HMDの位置合わせが必要となる。テクニカル面を担当したJACKSON kakiによれば、各HMDが1分おきに自身の位置座標を取得し直すことによってズレを補正しているといい、いわばそれは四次元的な地図となる。
★6──黒嵜はこれを大きく二つに分類する。勝手に命名するならば、「過去─催眠」的なアプローチと「未来─強迫」的なアプローチである。「過去─催眠」とは、現在においてある特定の認識を導入することで、過去に対する認識をも遡及的に変質させてしまう、といった認識改変による創造行為を指す。一方の「未来─強迫」とは、遠未来におけるある状態を仮定することで、それを実現するためのプロセスの一部分となるよう現在の在り方を拘束する、といった契約にもとづくバックキャスト的な創造行為を指す。