終戦から80年を迎える今年、その事実と美術館はどう向き合うのか、どう向き合うべきなのか。その答えを探しに広島へと赴いた。

広島市現代美術館では、現在「被爆80周年記念 記憶と物 ─モニュメント・ミュージアム・アーカイブ─」 と題された展覧会が開催されている。美術館をはじめとするミュージアムが扱う対象である「物」は、それ自体が制作背景や作者の、そして見る者に喚起される「記憶」と不可分に結びついており、「記憶」と「物」の関係性はミュージアムの展示活動の根幹にあたるといえる。あえて「記憶と物」という題を付された展覧会は一体何をどのように展示するのだろうか。

チラシには、銅像と銘板を失った台座がレイアウトされている。展覧会も、この「空の台座」を起点として展開する。これは美術館の位置する比治山にかつてあった加藤友三郎元帥像の台座であり、その事績を記した銘板の嵌め込まれていた台である。この銅像と名盤はいずれも昭和18(1943)年の金属供出で失われ、いまに至るまで空のままになっている。


「被爆80周年記念 記憶と物 ─モニュメント・ミュージアム・アーカイブ─」展のチラシ

 


「空の台座」[筆者撮影]


銘板のあった台[筆者撮影]

展覧会冒頭にはこの像が置かれていた姿★1と空となった台座とが表裏にレイアウトされたバナーが掲げられている。そしてこの像の落成、撤去、再建★2の一連の流れが紹介されている。この像を作った上田直次はヤギの像を多く作ったことでも知られており、平和の象徴と本人が語っているこれらのヤギの像も併せて展示されている。上田が手がけた像のなかで、同じく軍人を象ったものに、金属供出を免れた《杉本五郎像》(1938)も会場には並ぶ。本来であれば鋳つぶされるために回収されたものの、残したいと願った人の手によってその姿がとどめられたものである。


「被爆80周年記念 記憶と物 ─モニュメント・ミュージアム・アーカイブ─」展示風景、広島市現代美術館[筆者撮影]

 


「被爆80周年記念 記憶と物 ─モニュメント・ミュージアム・アーカイブ─」展示風景、広島市現代美術館[筆者撮影]

次いで展示されているのは、平和都市広島を象徴する平和記念公園とそこに置かれるはずだった慰霊碑の模型である。平和記念公園を手がけることとなった丹下健三は、慰霊碑をイサム・ノグチに依頼するも、最終的には彼が米国人であったために受け入れられず、イサム・ノグチの家形埴輪案を踏襲する形で丹下がデザインした現在の形に落ち着いたという経緯がある。毎年夏になると、炎天の下、行なわれる記念式典の映像はだれもが目にしたことがあるはずだが、その舞台にこうしたエピソードが眠っていることは知られているとは言い難い。さらに、これに続いて黒田大スケによるこれらの作品を題材とした作品も併せて展示されている。

先述のバナー、《杉本五郎像》、イサム・ノグチによる慰霊碑模型、そして黒田による作品は、一直線に並ぶかたちで展示されている。本展覧会全体を通じて、最も印象に残っているのがこのコーナーであった。展示1章は「残す、忘れる、思い出す」と題されている。比治山の空の台座を出発点として、その背後にあるモニュメントをめぐる一連のエピソードとそれを題材とした作品とが並ぶこの構成は、「記憶の形成、忘却、再構成」を視覚的に端的に見るものに呈示している。


「被爆80周年記念 記憶と物 ─モニュメント・ミュージアム・アーカイブ─」展示風景、広島市現代美術館[筆者撮影]

 


「被爆80周年記念 記憶と物 ─モニュメント・ミュージアム・アーカイブ─」展示風景、広島市現代美術館[筆者撮影]

会場は地下へと続き、2章「過去に触れる」、3章「こちら側/あちら側」が続く。そのなかでは招聘アーティストによる作品に加えて広島市現代美術館のコレクションも並ぶ。これは、「ヒロシマと現代美術の関連を示す作品」を収集することを収集方針の3つの柱のひとつとして掲げていることに由来する。会場のパネルによると「『ヒロシマ』とは原爆被害の歴史に特に重きを置いて広島を捉える際に用いられる表記」であり、この収集方針が美術館活動を特徴づけるものとなっていると記されている。この方針に沿って集められた作品が、「被爆80周年記念」を冠したこの展覧会に並べられることによって、広島市現代美術館という美術館が作品収集という自らの活動を通じて「ヒロシマ」の表象をアーカイブする場でもあることを示している。作品という「物」によって「ヒロシマ」の「記憶」を編んでいるのである。美術館が自らの立地する場所にゆかりのある作品を収集するということは、その存立理由にも関わることであり通常広く行なわれている。けれども広島ではなく「ヒロシマ」との関連において集められた作品、ある一定の方向をつけられた作品であるからこそ見えてくるものがあるということを改めて強く感じた。勿論、広島という場、そしてその記憶について語る際に「ヒロシマ」という観点だけではすべてを語りえないはずである。この展覧会が「被爆80周年記念」と冠されていることも含め、この展覧会の成立経緯、そしてこの美術館の歩みについて、思いを馳せる契機となった。


「被爆80周年記念 記憶と物 ─モニュメント・ミュージアム・アーカイブ─」展示風景、広島市現代美術館[筆者撮影]


「被爆80周年記念 記憶と物 ─モニュメント・ミュージアム・アーカイブ─」展示風景、広島市現代美術館[筆者撮影]

「誰が、どうやって記憶を担うか」と題された最後の4章では、小森はるか+瀬尾夏美による《11歳だったわたしは 広島編》(2025)が大きく展開されていた。2011年の東日本大震災を契機として結成されたこの二人のユニットが、11歳から90代までの幅広い年齢層の人々に11歳だったころの記憶を尋ねるインタビューを重ね、こうして紡がれた人々の語りと風景を記録し、対話の場を生み出すプロジェクトである。当初は震災の記憶をとどめるべく、宮城でその活動はスタートしたが、その後いわきや広島でも作品制作に取り組んでいる。11歳だった頃を題材としているのは、二人が東日本大震災の記録を重ねるなかで、この頃に経験したことがその後の人生に大きな影響を与えると実感したからだという。会場には来場者に向けて11歳だった頃のことを尋ねるアンケート用紙も置かれていた。私が11歳だったのは、1995年。そう、ちょうど戦後50年の年であった。非常に大きな区切りの年であり、各方面で頻繁にアナウンスされていたように記憶している。30年前といまを比べた時に、先の戦争を語る際に「記憶」という言葉が多く用いられるようになってきたと感じている。終戦直後に生まれた人でも今年で80歳になる、と考えるとこの戦争が直接に語られた時代をこえて、記憶として継承されるものへと変貌していることは疑いようがないだろう。一方で、本展に掲げられた黒田大スケの「〜のためのプラクティス」シリーズも、《11歳だったころのわたしは 広島編》も、いずれもナラティブによって歴史を再構成しようとする試みであるともいえる。その語りは、直接的な戦争の悲惨さをそのままに伝えるという形ではなく、今日的な問題と同種の語りのなかに位置づけるものである。このことによって、80年後の私たちが被爆やさきの戦争を現在と隔絶された記憶としてではなく、現在につながる記憶として受け止めることを可能にしている作品であった。過去を見つめ、継承する道筋を開く場として美術館があるということが示された展覧会であった。

★1──建設当初は、その功績をたたえて、元帥海軍大将としての正装姿であった。
★2──現在、比治山の台座には像は再建されていないが、2008年に広島中央公園(広島市中区)にワシントン軍縮会議のフロックコート姿の銅像が新たに設置された。サッカースタジアム建設に伴う周辺地域の再整備のため、2021年に一度撤去され2024年に再度設置されている。さらに、2020年にはかつての呉鎮守府司令長官官舎があった入船山記念館前に、呉鎮守府指令長官の大礼服姿の銅像が設置されている。

被爆80周年記念 記憶と物 ─モニュメント・ミュージアム・アーカイブ─
会期:2025/06/21~2025/09/15
会場:広島市現代美術館[広島県]
公式サイト:https://www.hiroshima-moca.jp/exhibition/memoriesandobjects/