公募を通して国内外から集まった80組以上にのぼるアーティスト、キュレーターらによって、京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAでこの夏開催された「国際的非暴力展#SUM_MER_2025」。作品の展示だけでなく、会期中のトークイベントやワークショップなどの多様な集まりを通し、昨今引き起こされているあらゆる暴力への抵抗を取り巻く人や言葉の往来を生む、有機的なプロジェクトだった。
過去4回にわたって開催されてきた本展のうち、初回と2回目の開催地であった秋田でも芸術教育に取り組んでいたキュレーターの服部浩之氏に、本展の「アンデパンダン(≒無審査、無賞、自由出品の展覧会)」であると同時に「キュレーションらしきものがある」場づくりの実践が今日もちうる意義について考察していただいた。(artscape編集部)

「国際的非暴力展」の成り立ち

「国際的非暴力展」の成り立ちは、2022年に秋田で実施された「ANTI WAR #SUM_MER_2022 The First Gathering」に遡る。会場となった秋田市文化創造館のウェブサイトと展覧会に合わせて発行された新聞『SUM_MER#2022』によると、主催はGAC(プロデューサー:𡈽方大)が担い、企画・キュレーションを長谷川新、西原珉、Tommy Simonesの3名が担当した★1。GACはThe Gathering of Artists and Citizens for Non Violence(=非暴力のためのアーティストと市民の集い)の略称だ。新聞『SUM_MER#2022』に掲載された対談記事冒頭で、西原や長谷川と縁の深いアーティスト曽根裕が、「ロシアによるウクライナ侵攻やコロナ禍において、アーティスト同士や、市民の人たちそれぞれが繋がる場を作った方がいいんじゃないか」と考え、本プロジェクトが立ち上げられたと長谷川が発言している★2

「ANTI WAR #SUM_MER_2022 The First Gathering」展示風景(秋田市文化創造館、2022)[撮影:坂口聖英]

2023年春には秋田公立美術大学で第2回となる「ANTI WAR #SP_RING_2023」がほぼ同じメンバーを中心に実施された。第2回展は大学付属のギャラリーももさだが会場となったことも相まって、秋田公立美術大学の在学生や卒業生も積極的に参加し、より幅広い表現者たちへと開かれ、学びの場としても重要な機会となっていたと推測される★3

「ANTI WAR #SP_RING_2023」展示風景(秋田公立美術大学ギャラリーももさだ、2023)[撮影:白田佐輔]

そして第3回となる2024年冬の「国際非暴力展#W_INTER2024」より、会場を京都市立芸術大学に移した。第3回展では京都市立芸術大学内の空きスペースを活用して、仮設的に作品を設置し、さまざまなイベントが開催された。ギャラリー空間ではなく学内の複数のスペースに展開したことで、おそらく学生や教職員もその様子を目にしていただろう★4

「国際非暴力展#W_INTER2024」展示風景(京都市立芸術大学、2024)[撮影:村上美樹]

これを経て2025年夏に京都市立芸術大学ギャラリー@KCUAで開催されたのが、第4回目となる「国際的非暴力展#SUM_MER_2025」だ。ここまでの流れを記載したのは、本展に関して公開されている情報が限られているためだ★5。まず本展は、京都市立芸術大学の在学生や卒業生、教職員などこの大学と縁のある人を対象に企画を募る申請展という枠組みのもと実現された★6。主催の京都市立芸術大学ウェブサイトの展覧会概要では過去3回「国際的非暴力展」が開催されてきたことが簡単に述べられ、企画者は「国際的非暴力展実行委員会」と記載されている。申請展という性格上、京都市立芸術大学関係者が実行委員会メンバーに入っていることは推測できるものの、意図的なのかは定かでないが具体的なメンバー名は伏せられている。ただ、第3回展の概要文には長谷川新や西原珉の名前が記載されているため、彼らが継続して主要メンバーとして関わっていることは確かだろう★7

「各自可能な方法で表現する」本展の構成原理

京都市立芸術大学ウェブサイトの展覧会紹介ページには概要以外に「所信表明」が記載されている。この所信表明は本展の構造や態度を理解するよい導入となるので、紹介したい。まず、所信表明には明らかに異なる文体の三つの短い文章が並んでおり、おそらく核となっている3名の異なる実行委員による所信表明であろうと推測される。ただし記名されていないので、どれが誰の言葉かは明かされていない。以下、順に見ていこう。

[所信表明:1]
本展は、世界的パンデミックの影響が続く中で、ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルによるガザ虐殺に代表される、市民の生命と人権を脅かす暴力に対し、アーティストたちが「非暴力」「反戦」の声を届ける展覧会です。2022年夏にアーティストたちが声をあげて始まり、今回で4回目となります。ひとりで悩むのでも、無力感に打ちひしがれるのでも、見て見ぬふりをするのでもなく、作り、手を動かし、集まり、展示することを手放さないようにしようという声から、この展示は始まっています。デモや、寄付や支援、具体的なアクションや学習を忌避する態度としてではなく、本展は、それぞれが得意なこと、やりたいと思うことをやりきることが、ひとつの抵抗になると信じるものです。

最初のテキストは、本展の目的や全体構造を冒頭の1〜2文で示し、「本展は、それぞれが得意なこと、やりたいと思うことをやりきることが、ひとつの抵抗になると信じるものです」と結び態度を明確に示す。各自可能な方法で表現すること自体が「抵抗」につながると述べることで、誰もが抵抗を表明することができると、多くの人を勇気づけ鼓舞する意思が感じられる。

[所信表明:2]
この展示というフレームが、小さな声や、微かな態度、見えにくい表現を、(他のさまざまな手段よりも)いっそう確かに受け止めることができると望んでいる。世界というよりももはや日常に響いている強く圧倒的な声にときに従わざるを得ないと感じ、その声に不安や恐怖を感じる中で、そんな軋みの音に対抗できる場所が、アートの向こうにあることを信じたい。従うべきものは、他者の強い声ではなく、自分自身の内から湧き出る意志しかない。計画と偶然、自律と他律、立ち止まる必要と動き続ける必要── これらすべての矛盾を超えていくために必要なのも、結局その意志だけだろう。だからこそ、始めること、変わること、動くこと。この展示に集ってほしい。

二つ目のテキストは、ひとつ目と比べると抽象的な表現による鑑賞者への誘いとなっている。「始めること、変わること、動くこと。この展示に集ってほしい」という結びとなる呼びかけは、実際に行動することを促すという点においては、ひとつ目のテキストと同様の意思を持っていることが理解されるとともに、まずはここにやってきてほしいという思いが滲み出ている。

[所信表明:3]
アンデパンダンであること、それでもキュレーションらしきものがあること。政治的なイシューがあること、にも関わらず個々の作品は勝手に自治を示していること。展覧会として提示されている、けれども「展示」にとどまらない諸実践が必然的に多数生まれてしまっていること。内部に自閉する傾向と外部に展開する傾向が、拮抗しているとも言えるし相反しているとも言えること。アートの良いところと悪いところが、等しく出てしまっているところ。このような矛盾のなかでしか見えてこないものがあるのだとしたら、という前提について考えています。「日本アンデパンダン」と「読売アンデパンダン」の間にあったかもしれないもの、「政治」と「美学」をなし崩しにするのでも誤魔化すのでもなく、それをゼロから考えることを阻害するものを正しく認識し、その対処法を知ること、無数の恥辱からもう一度始められる美術のこと、を考えています。

他方、三つ目のテキストは少し距離を置いてこの展覧会と向き合っているようだ。観客や他者への呼びかけというより、実行委員としての意思や思考、実際に生じている動向やそれに対する考察を素直に述べている。

このテキスト冒頭には、「アンデパンダン★8であること、それでもキュレーションらしきものがあること」という本展構造を示唆するコメントがあり、これは展覧会を鑑賞した私の実感にも通ずるものであった。つまり、この展覧会は多様な人々が参加する多くの人に開かれたものであり、出展するかどうかは実行委員会による選出ではなく、アーティストの意思に委ねられ、作品内容についても基本的に各アーティストが自由意思で決定しているということだ。

一方で会場の展示構成や空間の展開には、明らかに意図や秩序が感じられ、ただ作品が集まっているというより、ひとつの場としてまとまりがある。もちろんわかりやすい物語を組み立てたり章立てするような文脈化は避け、この展覧会をどのように体験しどう過ごすかは来場者に委ねている。

バラバラなまま個々にいることを肯定する

「国際的非暴力展#SUM_MER_2025」展示の様子[撮影:黑田菜月]

ここで展覧会構成の一部を紹介しよう。入口を入ってすぐ奥の一角にはカーペットが敷かれ、観客はくつろいでいくつかの作品と出会うよう促される。ここには手作りの新聞調の作品や、クッションを用いた作品、あるいは世界人権問題研究センター図書室から選書した書籍、ぬいぐるみ型の作品などが、ゆったりした心持ちで過ごせるよう配置されている。まずは靴を脱ぐことでリラックスし、反戦や非暴力を訴えるというメッセージに対して構えることなくその場にいることを肯定される設えとなっている。

「国際的非暴力展#SUM_MER_2025」展示会場入口、奥の一角[撮影:黑田菜月]

すぐ隣には大きなテーブルを椅子が囲む談話や作業のための多目的スペースが設けられており、会期中にさまざまな活動が起こっていることが想起させる。また、可動壁の多くは斜めに設置され、可動壁同士の間に小さく不定形な場が生まれたりと、個室化することなく空間をゆるやかに分節する。

談話や作業のための多目的スペース[撮影:黑田菜月]

会場では誰の作品がどこにあるかがギリギリわかる程度の手書きの作品配置図が配られるが、作品解説やキャプションはなく、解説が必要なものは作品の一部として作家が準備している。

また、作品群はある程度直感的・即興的に配置されているように見受けられ、作家の意思というより、全体の大きなバランスや関係を実行委員や展示を担当するメンバーが考慮して配置していったのだろう。だから、感覚的にはいい塩梅が保たれているが、作品は文脈化や紐付けされることなくバラバラなまま個々にいるという感じで、「個々の作品は勝手に自治を示している」ということばが腑に落ちる。ちなみに、作品は直接的に非暴力や反戦を訴えるものや政治的態度を明確に示すものももちろんあるが、日々の実践をそのまま提示したものや抽象度が高いオブジェなどもあり、かなり幅広い。

[撮影:黑田菜月]

つくる意思をもつ人々が集う場所

基本的に本展は反戦や非暴力を直接訴えることは求めず、「作り、手を動かし、集まり、展示することを手放さないようにしよう」という、誰もができるはずだが諦めてしまいがちなことを諦めないよう呼びかける。反戦のための直接行動を起こすようなアクティブに活動する人から見ると、生ぬるく感じられるかもしれない。しかしこの最低限の権利を守り通せないために悲惨な状態に陥ってしまうことがあるのも事実だろう。そして、それを守ろうという態度は、芸術大学というつくる意思をもつ人々が集う場所を拠点として実施する本展においてはとても大切なはずだ。

ひとつの明確な意思や主義主張を強く訴えることも時には必要だが、なんとかこの場にいられる、いてもよいと肯定されることも不可欠だ。だから共通の目的や思考、あるいは強い意思をもっていなくても参加できる、バラバラなものたちが「共立」★9できるプラットフォームを守るためにも本展のような場は必須なのだ。同時に明確で強いアクションも否定しない、それぞれがやりたいことを自由にやることが抵抗の第一歩であるという包み込む態度が、この場に貫かれている。芸術大学にこのような機会があることは、ある種のセーフティネットになり得るのではなかろうか。

展示室内のホワイトボード上での、読書会のお知らせ。運営メンバーが世界人権問題研究センターの「人権図書室」から選書をした本を用いて行なわれた[撮影:村上美樹]

黄慕薇(gallery Unfold代表)がホストを務めたトーク「To live or to leave, that is the question 外国籍アーティストの在留&活動についてのおしゃべり場」の様子[撮影:沢田朔]

ところで、本展タイトル「国際的非暴力展」の広がりは興味深いものだ。大槻智央がデザインしたロゴを、大村香琳がゴム版で手彫りの判子にした。大村はこのタイトルを含めて複数の判子を作成し、観客がインストラクションに沿ってハガキサイズのカードに判子を捺して持ち帰ることができる作品へと展開した。さらにこのロゴ判子を用いたポスターが松下みどりによって作成され、会場周辺に掲示されている。タイトルロゴは複数の人の手により美術作品と広報媒体のあわいを往来する独自の存在となった。これは通常のアンデパンダン展では起こり得ないことで、参加者間の多層的な協働が垣間見え、「アンデパンダンであること、それでもキュレーションらしきものがあること」をよく表わしていた。

本展のキービジュアル(デザイン:大槻智央)をもとに、大村が制作したスタンプを用いたポスター[撮影:村上美樹/ポスター制作:松下みどり]

大村によるスタンプ[撮影:山口梓沙]

スタンプは展示室の入口で来場者がカードに捺すまでのインストラクションとともに展示されていた[撮影:黑田菜月]

アンデパンダンというあり方

ここで、2019年に東京藝術大学美術館陳列館で開催された「東京インディペンデント」というアンデパンダン展に触れたい。アンデパンダンはそもそもインディペンデントのフランス語だ。本展は、企画者に曽根裕、西原珉、Tommy Simoensらが名を連ね、長谷川新も仕事人という名義で関わっている★10。「芸術家としての意志があるすべての人に出品する資格がある」という前提のもと、「アーティストがいかに『共立』していけるか」★11を重要な課題とした東京インディペンデントの基本的態度を継承しつつ、ミャンマーのクーデターやウクライナやガザへの侵攻など昨今の悲痛な出来事に対して沈黙しないという意思が国際的非暴力展へとつながったと考えられる。自律しなんとか自治を保ちつつも、連帯と協働を忘れない。それがアンデパンダンでありつつもキュレトリアルの意識と意志をもつこれら一連の取り組みと言えるだろう。


「東京インディペンデント」(東京藝術大学美術館陳列館、2019)記録映像

明確で適時的なテーマを訴えるいわゆるキュレーションの効いた展覧会が多数実践される現在、なぜこのようなアンデパンダン展が必要なのだろうか。ひとつはとても単純なことだが、国際的非暴力展でも表明されているように自らの意思でつくり表現し他者に伝えることが、いま改めて大切になっていることが挙げられる。現在は、限られた人のみが表現し、正しい意見や強い声を発するだけでは何も変わらないと多数の人が実感しているだろう。黙ったままで大きな力にコントロールされて何も言えなくなってしまわないよう、自ら声を発する機会を喪失してはならない。選ばれた人のみが参加するのとは真逆のアンデパンダン展は、少なくとも制度上は平等な機会をすべての人にひらく試みだった。周知のとおり1950〜60年代に日本で隆盛したアンデパンダン展は、検閲や表現の規制を引き起こし、その後収束していったが★12、誰もが平等に参加可能で意思を表現できるとともに隣り合う人々と連帯し協働していける場を、互助的に育んでいこうという態度は非常に真っ当である。このような場がアーティスト、つまり自律した個人の集まりにより創出され、大学の正規の教育プログラムとは距離をおきながらも芸術大学を拠点に展開されていることは見過ごしてはならない重要な点だ。そして、このような動向が私個人にも縁の深い秋田から起こり、京都という別の地方都市へと展開していったことにも、その先の広がりへの期待も込めて小さな希望を感じている。


★1──秋田市文化創造館ウェブサイトのイベント紹介。https://akitacc.jp/event-project/summer-2022/
★2──新聞『#SUM_MER_2022』掲載の能勢伊勢雄×西原珉×長谷川新「未来のためのノスタルジー#1」より。
★3──秋田公立美術大学ウェブサイトのイベント紹介。https://www.akibi.ac.jp/news/43607.html
★4──京都市立芸術大学の展覧会紹介。https://www.kcua.ac.jp/w_inter-2024/
★5──具体的な公開情報は京都市立芸術大学の展覧会紹介を参照。https://gallery.kcua.ac.jp/archives/2025/12587/
また、本展Instgramアカウント「sum_mer_2025」も参照。https://www.instagram.com/sum_mer_2025/
★6──申請展の概要。https://gallery.kcua.ac.jp/archives/description-open-call/
★7──京都市立芸術大学該当ページの概要に記載。https://www.kcua.ac.jp/w_inter-2024/
★8──無審査、無賞、自由出品の展覧会。1884年にパリで初めて開催された。
★9──本稿で後ほど紹介する「東京インディペンデント」を取材したQUIの特集記事を参照。「私たちはアーティストがいかに『共立』していけるか、これは曽根裕が出したテーゼである」と記載されている。https://qui.tokyo/feature/tokyoindependent-190427
★10──長谷川新ウェブサイトを参照。http://robarting.com/
★11──QUI掲載記事を参照。https://qui.tokyo/feature/tokyoindependent-190427
★12──日本アンデパンダン展は現在も継続されている。https://nihonbijyutukai.com/anpan


国際的非暴力展#SUM_MER_2025
会期:2025年7月5日(土)〜8月3日(日)
会場:京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA(京都府京都市下京区下之町57-1 京都市立芸術大学 C棟1F)
公式サイト:https://gallery.kcua.ac.jp/archives/2025/12587/


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