会期:2025/10/04~2025/10/09
会場:京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA[京都府]
公式サイト:https://kyoto-ex.jp/program/tania-ziad-shows/

前編より)

観客参加型のレクチャー・パフォーマンスという体裁をとる本作の秀逸な点は、レクチャーの進行とともに、アーカイブボックスに収められた資料を観客自身の手でひとつずつ開封していく仕掛けにある。ボックスには、クリアファイル、紙のフォルダ、封筒の中に、新聞記事やタイプ打ちの分厚い報告書、手書きの手紙、暗号文の解読書などさまざまな紙資料が収められている。それはまさに、秘められた歴史や記憶を「開封」していく作業だ。また、色とりどりのファイルやフォルダに束ねられた資料が地層のように積み重なるボックスは、歴史が厚みや手触りをもった物質的な地層であることの謂いである。その地層は、内戦に加え、冷戦下のパワーバランス、欧米の植民地主義、地元の実業家たちの利権といった多面的な要素が複雑に絡み合って形成されている。

[撮影:吉本和樹 提供:京都市立芸術大学、KYOTO EXPERIMENT]

[撮影:吉本和樹 提供:京都市立芸術大学、KYOTO EXPERIMENT]

物質的な手触りをもって歴史にアクセスすることと、同時に歴史自体の虚構性に目を向けることは、マーク・テ/ファイブ・アーツ・センター『トゥアの片影』ともつながる。国民的英雄としての「ハン・トゥア」は実在せず、だからこそ至るところに増殖可能な虚像でしかなくても、さまざまな言語で書き写された写本のそれぞれ異なる筆跡だけが物質的な実在として残る。

『電力と権力を探して』は、緻密な資料調査のもとに構築されたレクチャー・パフォーマンスである一方、歴史とフィクションの関係についても再考させる仕掛けをはらむ。多くの観客にとって、アラビア語の新聞記事の切り抜きは読むことができない。英語の文書は分厚く、パフォーマンス内にすべて読み込むことは不可能だ。「その美しさを味わうように」と促される筆記体の手紙は確かに美しいが、フランス語であったり、判読に時間がかかる。

さらに、ボックスに収められた資料は、それぞれ趣向が凝らされている。資料の質感も多様性に富み、チープにラミネート加工された新聞の切り抜きや、厚めの上質な紙もあれば、公式な報告書を半透明のシートに印刷したものもある。それらは、紙のフォルダやクリアファイルなどいかにもアーカイブらしく設えてあるが、「真実」に迫る終盤の資料は、半透明の封筒に古風な赤い封蝋が押されたものや、ピンクの厚紙を赤いリボンで結んだものが登場し、どこまでが「再現」でどこから「演出」なのか曖昧だ。また、ボックスの脇には、白い手袋とルーペも準備されているが、細かいアラビア語の新聞記事を読むためのルーペは役に立たず、そもそも複製された印刷物に「手袋」は不要のはずだ。さらにパフォーマンス中、観客はワインを飲み、ドライフルーツをつまみながら鑑賞してよいことが告げられている(実際に飲食する観客も多かった)。貴重な資料を「保護」するための手袋やルーペは、「本物のアーカイブらしさ」を演出するための小道具ではないかという疑念が浮かんでくる。

[撮影:吉本和樹 提供:京都市立芸術大学、KYOTO EXPERIMENT]

さらに、作中では、「演劇」「フィクション」との関連性が何度も仄めかされる。「私は歴史学者なので、演技はとても下手です」と繰り返される台詞。「台本」を手に持っていることの弁明。「迫真の演技をありがとう」という皮肉。レバノンの国立公文書館が「廃墟になった劇場の上にある」というエピソードも、出来過ぎの感がある。どこまでがフィクションで演出なのか。こうした真偽の曖昧性や「歴史」自体への懐疑は、「捏造されたアーカイブ」によって、歴史資料が欠落したレバノン内戦について語るというアトラス・グループの倒錯した手法を想起させる(アトラス・グループ自体、ワリッド・ラードというレバノン出身のアーティストによる架空のアーカイブ組織である)。

本作もまた、レバノンの電力危機という個別的な問題を通して、アーカイブ自体に対するメタ的な問いをはらんでいる。廃墟の上に立ち、電力不足でまともに機能していない公文書館の暗闇の中を、懐中電灯で資料を探す行為の象徴性。機能不全の、あるいは空白のアーカイブに代わって、各国の公文書館をネットワークで結び、互いに補い合わなければならないこと。ある歴史的事象を明らかにするには、ひとつのアーカイブだけでは完全ではない。逆に言えば、アーカイブは常に不完全さや欠落を抱えている。

[撮影:吉本和樹 提供:京都市立芸術大学、KYOTO EXPERIMENT]

最後に、本作の華やかなパーティー風の設えと、「ゲスト」として観客が歓待される仕掛けについて考えたい。シリアスな問題を扱っているが、硬く構えずに、ワインやドライフルーツをつまみながら、気楽にリラックスして見てほしいという意図はもちろんあるだろう。だが、深読みすれば、「停電が常態化したレバノンからは遠い観客にとって、この作品も、パーティーの余興のように消費されてしまう」という事態に対する皮肉も込められているのではないか。だからこそ、「暗闇のなかで共に踊ることで連帯する」時間が、最後に私たちに向けて差し出されるのだ。

なお、本作は公演後、音声ガイドを聞きながら体験する展示バージョンが11月16日まで公開されている。

鑑賞日:2025/10/07(火)