発行所:フィルムアート社
発行日:2025/09/26

公式サイト:https://www.filmart.co.jp/liminal/

前編から)

このインターネット時代の新たな美学を、より広い文脈に置き直して考えてみるならば、リミナルスペースは「窓の不在」という特徴において捉え直すことができるのではないだろうか。例えば、同書でも取り上げられているルネ・マグリッドの《望遠鏡》(1964)を見てみよう。この絵画には、窓が描かれており、その向こうには海景が描かれている。しかし、その窓の隙間から見えているのは、漆黒の闇だ。窓に映る景色はニセモノで、その向こうに広がっているのは虚無の空間なのである★2

窓の不在とは、それすなわち外部の不在でもある。リミナルスペースは多くが人工空間であり、窓が存在しない。あるいは窓が存在していても、そこに眺望は広がっていないか、マグリッド《望遠鏡》のように明らかに書き割り的な風景となっている。同書の掲載図版を見れば、そのことは納得できるだろう。ゆえにその探求は、外部ではなく内部へと向かう。このことを象徴するかのように、同書の結論部では、あるエピソードが紹介される。それは、銃器のビジネスで財を成した夫の死後、そのビジネスで命を落とした霊が自宅に憑りついていると信じ、霊を欺くために終生自宅を改装し続けたサラ・ウィンチェスターのエピソードである。迷宮のように複雑怪奇なその家は、他者の侵入を拒むかのように膨大な部屋が存在し、サラを孤独へと潜行させることになったのだ。

外部から踵を返し、内部へとひたすら歩みを進めること。リミナルスペースという不穏な空間は、その意味において現代の〈インテリア〉に他ならない。日本語では室内装飾を指すこの言葉は、英語では外に対する内部を指し、人間精神の内面としての含意が存在する★3。Xのアカウント「@SpaceLiminalBot」が投稿するいくつもの風景、「フロントルーム」★4──本書が説くネットミームにおいては「私たちの世界とそこから生じる現実」のこと──の閾をひとたび越えてしまうと現われるバックルームと約370を数える階層。ここにはただひたすらに、深く潜ることへの欲望が想像力となって膨らみ続けている。これは内面の観念化という、これまで芸術文化を大きく前進させてきたクリエイティブの先鋭的かつ現代的なスタイルなのだろうか。

『ほんとにあった! 呪いのビデオ 51』(2013)に収録されている「シリーズ監視カメラ 古本屋」では、監視カメラに現われた幽霊が異なる角度から映されているのだが同じ背中を見せている。にもかかわらず、私たちはこの二つの映像をひとりの幽霊が映ったものとして認識するだろう。こうした霊の自律に対する機制について、山本浩貴は次のようにまとめている。

私は複数の矛盾する視点を同一の視覚像において束ねる霊を通じ、自身の視聴経験そのものが備える霊性を知る。霊にとってもはや世界に自身が立つ必要はない。ただ自身の作る法を上演する肉体らを通して見るだけでいい。世界を見るという経験そのものが霊化する。★5

今現在リミナルスペースをめぐって繰り広げられている連想も、こうした「世界を見るという経験の霊化」と響き合うところがあるのではないだろうか。なぜなら同書には、複数の空間がリミナルスペースを通じて連関していく事例が数多く紹介されているからだ。この人間不在の空間を見つめるとき、私たちは自らの身体を希薄化させ、フィクション〈内面〉へと没入していく。著者の奇妙な熱が脈打つ「報告書」の向こう側に存在するのは、そんな純化された人間の姿なのかもしれない。

★2──この「窓の不在」について、雨穴による小説『変な家』(飛鳥新社、2021)も参考事例として付け加えても良いだろう。同作では、窓がその奇妙な間取りを読解する鍵となり、リミナルスペースへと誘っていく。また、本稿で詳述は避けるが、西洋美術において窓は世界認識のモデルとして捉えられてきた。概論的な資料として以下をあげておく。荻野昌利『視線の歴史—〈窓〉と西洋文明―』世界思想社、2004
★3──高山宏『表象の芸術工学』工作舎、2002、241頁
★4──ALT236前掲書、111頁
★5──山本浩貴「【全編公開】山本浩貴「死の投影者(projector)による国家と死」【『ユリイカ』2022年9月号 特集=Jホラーの現在 掲載】」『note』https://note.com/inunosenakaza/n/n8dda3f1c6768

執筆日:2025/10/13(月)