未知のもの異質なものへの不安や恐怖は誰しもが抱くものではあるにせよ、新型コロナウイルスによるパンデミック以降、それらが排外主義的態度や言説へと急速に転換されているように感じられる。ここ数年、選挙や政治のなかでも移民・難民や在留外国人が争点化され、外国籍の人々や外国にルーツを持つ人々をあからさまに敵視する排外主義勢力が急速に台頭していった。そしてそのような露骨な憎悪ではなくとも、無関心やマイクロアグレッションが、沈黙や自覚のない差別として重く横たわっている。そのような緊張した状況の続くなか、アフリカのジンバブエに出自を持つ美術家・吉國元の実践は、他者の声が気圧されることなく世界に存在するための回路を設え続けているように思える。絵画、聞き書き、雑誌の出版……と自身の手を可能な限り伸ばしながら(しかし同時に自身の身体性を手放さない域で)行なわれている活動をレポートしたい。

ジンバブエの光の下で発せられた幼い声

「かあちゃん、元たちはアフリカで生まれたから、アフリカ人やで。日本人とちがうの」★1

アフリカ南部ジンバブエの首都ハラレに日本人の両親のもとに生まれ、日本への移住(両親にとっては帰国)をひかえた当時10歳の吉國元の言葉を、母は手記にこのように綴っていた。生まれたときからそこにあった景色。残していく人々。故郷から遠く離れるという痛み──吉國はそのことにジンバブエに暮らした頃から唯一つづけてきた「絵を描く」という方法によって向き合ってきた。

絵筆を握って、真っ白な平面に何度も手を伸ばす。色をのせ、輪郭をさがし、眺め続ける。絵という時間を通して、追憶というよりはいまこの瞬間も彼/彼女らと出会い直し、生きた時間を構築し続けてきたのだろう。そのことは、ジンバブエで出会った一人ひとりを描いた連作「来者たち/Arrival」(2018-2021)にもあらわれているし、それらを展示した「根拠地」展(粟津潔邸[アワヅハウスアートセンター]、2023/09/09-10/29)はまるで、親しい人に親しい人を紹介するような手つきでつくられた展覧会だった。作品鑑賞の場というよりは、吉國がジンバブエの人々とつくりあげた親密圏に招き入れてもらったような歓びがあり、「絵を描く」という方法で示された他者へのリスペクトが感じられるものだった。

 


「根拠地」展は、グラフィックデザイナー粟津潔の自邸兼アトリエ(原広司設計)が会場となった。生活の痕跡が残る室内に絵が展示された[写真:小池りか]

絵を描く時間のなかで発見した「接続点」

他者と対峙することは、しかし同時に「わたしとは何者か」を問い続ける営みでもあっただろう。絵を描くといういわば遅々とした時間のなかで、吉國自身も変化していく。

以前まであくまで僕の中では、アフリカと日本で過ごした時間、あちらとこちら側、過去と現在の間に断裂がありました。しかし最近になって、結局それは断裂を含んだ「ひとつの」連続する経験/experienceだったのだと理解するようになりました。★2

痛みを消し去るのではなく、抱えたまま歩いて行くこと。自身の傷を他者への想像力の回路にしてゆくこと。不条理さえも自身を形づくってきたかけがえのない出来事だとみなしていくこと――そのことは誤解を恐れずに言えば、吉國がアフリカに生を受けたことを越えて、人々との「接続点」を発見していく過程だったのかもしれない。

北米の黒人女性たちの語りに耳を傾け続けた藤本和子はこう書いている。

わたしは黒人が「生きのびる」という言葉を使うときには、肉体の維持のことだけをいっているのではないと感じていた。「生きのびる」とは、人間らしさを、人間としての尊厳を手放さずに生き続けることを意味している。敗北の最終地点は人間らしさを棄てさるところにあると。★3

不条理と断絶の深い谷を越えながら、なお人間であろうとする声。これを吉國の経験に直接重ねるべきではないが、彼が親しみ、求め、耳を澄ませたいと願ってきたのは、そうした人々の声の連なりだったのではないだろうか。肌の色や歴史的背景の相違を越え、痛みや喪失を抱えながらも人としての尊厳を手放さない倫理的な姿勢としてのブラックネス。その姿勢が彼のなかで静かに意味を帯び始めたことと、日本に暮らしながら黒人の人々を描き、その声を聞こうとすることは、決して無関係ではないだろう。

境界に立つ者として声を聞く『MOTO MAGAZINE 』

吉國は絵を描くことと並行して2020年から、在日アフリカ人の声を聞き書きする『MOTO MAGAZINE』の発行をはじめた。そこには日本に暮らすアフリカの人々の信仰や文化、結婚や出産、社会や政治をめぐる悲喜交々が、ときに食事や散歩をともにしながら等身大の言葉で語られている。雑誌の刊行開始時期は、コロナ禍と重なり、まさしく「他者=脅威」という構図が強まっていった時期である。その渦中で、語り合うこと、関係を築くこと、日常をともにすることを体現した雑誌の出版は、分断ではなく近接へと手招くひとつのアクションだと捉えられる。そのような仕方で、vol. 001は近所に住むセネガル人、vol. 002は信仰深いウガンダ人、vol. 003は友人のジンバブエ人に聞き書きをしている。


タイトルはシルクスクリーンで手刷りされ、糸綴じも手作業で行なわれる。発せられた声を尊いものとして扱う手つきが、雑誌の佇まいにもあらわれている[写真:久光菜津美]

吉國は他者の語りを代弁せず、所有しない。語られた言葉は、滑らかに整えられることなく、揺らぎごと誌面に移される。言い淀み、躊躇、笑い――それらは意味の欠落ではなく、声が世界と摩擦する痕跡でありリズムでもある。そのように一人ひとりの声が、気圧されることなく存在できるよう、吉國は「聞き手」をまっとうする。そして、編集とは取捨選択ではなく聞き返す行為であることが、この雑誌から感じられる。


vol. 001は50部、vol. 002は100部、vol. 003は150部とすこしずつ発行部数は増やしてきたものの、あくまで手渡しのようなリトルプレスの規模での出版を続けている。「他者の声を聞き、翻訳し、言葉を紡ぎ、出版するという文化は、危機の時代における僕らのシェルター」と吉國は語る[写真:吉國元]

そして、彼/彼女らの固有の物語が、他者(第一の他者はこのとき吉國)へと語られるとき、普遍的な語りへと変化していく。この「物語る」実践の根底にあるものを、吉國自身も愛読する作家ボールドウィンは次のような言葉で語りかける。

ぼくたちの苦しみの物語、喜びの物語、勝利の物語、それらは決して目新しいものではないが、いつでも話さなければならない。
ほかに話すべきことはない。そのことだけが、この闇の世界で、ぼくたちが手にする唯一の光なのだ。
★4

展覧会「深い河」の持つ遅さ

現在開催されている吉國の個展「深い河」(LIVE ART GALLERY、2025/11/21-12/20)の会場にも、『MOTO MAGAZINE』が配架されている。即時性を拒み、意味を早急に求めず、ただ声の近くに居ることを求めるような、静かでゆったりとした空気が絵の空間に流れている。

《夜明けを待つ》01-03、ダンボールにオイルパステル、色鉛筆(2025)[写真:LIVE ART GALLERY]


《Daydreaming》キャンバスに油彩(2025)[写真:LIVE ART GALLERY]

左:《Boy in your backyard》キャンバスに油彩(2025) 中左:《川で洗濯をする人》キャンバスに油彩(2025) 中右:《未明の母子》キャンバスに油彩(2025) 右:《Girl in Green》紙に油彩(2025)
[写真:LIVE ART GALLERY]


《Mother and Child》キャンバスに油彩(2025) [写真:LIVE ART GALLERY]

ジンバブエ時代の記憶と結びつく具体的な個人を描いた前作「来者たち」のシリーズとは対照的に、吉國の今作「深い河」の作品群は、誰でもないが、誰でもあるかのような顔をしている。ほのぐらい場所から浮かんでくるそれは、作家の自画像かもしれないし、わたしやあなたかもしれない。そして、河は深いほどゆっくり流れる。筆者は会場で意識の底流で自身へと流れ込んできたもの、そして自分から流れてゆくものを確かめるような遅々とした時間を過ごした。

『MOTO MAGAZINE』vol. 003のあとがき

今年6月に出版された『MOTO MAGAZINE』vol. 003のあとがきはこう結ばれた。

落下して散らばったいくつもの硬貨のような人々の移動の軌跡を思う。なにが僕たちの生を規定するのだろうか。国家・貨幣・パスポートの支配から僕たちは逃れられないのか。従うしかないのか。しかし、それでも僕たちは、それぞれの持ち場で自分らしく生きるための工夫を怠らない。遠くを想い、大切な人がその人らしく生きていてくれることを願う。★5

絵を描き、耳を澄まし、言葉を編む――吉國のその作業の連続は、制度化された語りの外側で、まだ名づけられていない集いの地平を探り続けている。それがすぐに社会を変えるかどうかは、まだわからない。けれど、声に耳を傾けるという小さな行為が、やがて確かな願いとなり別の世界を呼び寄せる可能性を開くだろう。最後に、筆者はパンデミック禍をメキシコ・オアハカで過ごした★6が、外国人であった私の居場所を、街頭で声をあげ作品制作や工房を開くことによりつくってくれた現地の人々やアーティストたちが居たことを、感謝とともにここにも記しておきたい。

『MOTO MAGAZINE』vol. 003の表紙に使用された写真。破綻した経済を象徴するゼロの数がとんでもなく多いジンバブエドルが写されている[撮影:吉國元]

★1──吉國かづこ『時空ノート―アフリカの5475日』(文芸社、2018)p.251
★2──吉國元「来者たち」『NANAWATA NOTE 02』(NANAWATA BOOKS、2020)巻頭
★3──藤本和子『塩を食う女たち―聞書・北米の黒人女性たち』(晶文社、1982)p.13
★4──ジェイムズ・ボールドウィン「サニーのブルース」(平石貴樹編訳『アメリカ短編ベスト10』松柏社、2016)p.295
★5──吉國元『MOTO MAGAZINE』vol. 003 根拠地(2025)p.38 https://www.motoyoshikuni.com/magazine
★6──清水チナツ「【オアハカ】それでもなお、文化芸術が自律的に存在する場所」(「artscape」2021年11月01日号)https://artscape.jp/focus/10172362_1635.html