コロナ禍を受け、2020年代のアートでもウェブメディアやデジタルアーカイブは大盛況。しかしながら、つくってみたは良いものの運営は大変、更新は困難、ドメインは失効。ウェブメディアをここから30年続けるには何が必要か。そして、これからのウェブメディアが形づくる世界とは、歴史とは、時間とはいかなるものか。後半は壮大なテーマを引っ提げて、写真家の竹久直樹、ウェブディレクターの萩原俊矢、グラフィックデザインを手掛ける畑ユリエ、ユーザーインターフェース研究の水野勝仁といったゲストと引き続き、司会のきりとりめでるで実直に議論しました。構成は編集の太田知也です。(artscape特別編集委員・きりとりめでる)

 

※artscapeの過去記事のアーカイブはこちら
※30周年記念企画 記事一覧はこちら

前編より)

ページビュー数至上主義、とは異なるあり方

きりとり──前編までは、どちらかと言えばいかにウェブメディアを作るか、という視点で話を進めてきました。ここからは、いかに読むかという話に移っていきます。

ウェブサイトを運営して情報を発信するなかで、アテンション(注目)を求めることは避けられませんよね。そのため、「ページビューの数」がわかりやすい評価基準になっています。しかし、アート系のウェブメディアにおいては、それ以外の評価方法もあるのではないでしょうか。

萩原──評価は、まさに大きな問題だと認識しています。例えばartscapeさんは30年間も活動を続けてこられ、その都度質の高いレビューや展覧会情報を提供し続けてきました。ページビューという単一的な指標のみで測ってしまうと、他媒体と比べて「数字が大きくないため価値がない」という話になってしまいます。ですが、それは非常に問題です。アクセス数を稼ぐためにコンテンツが変容してしまう例は枚挙にいとまがありません。例えば、「おすすめのレストラン20選」のように、記事を20ページに分割し、1ページずつアクセスさせることでページビューを水増しするような手法です。

artscapeというメディアが、30年という歳月のなかで、文化事業の関係者や研究者、学生などにどのように参照され、どのような影響を及ぼしてきたのか。こうした長期的な受容の履歴を、ウェブサイトのアクセス数だけから読み取ることは、とてもむずかしいことです。むしろartscapeのレビューは、数年後や十年後に調査や教育の文脈で参照されることも多く、即時的なPVとは別の時間軸で価値が現われるものだと感じます。

また、どれくらいの時間の幅で成果を評価するのかによっても見方は変わります。毎日・毎週のスピード感で何十、何百という情報を投稿するタイプの媒体と、artscapeのように長期的な蓄積とアーカイブ性を重視する媒体とを、同じ指標で評価してしまっては、大切な部分を見落としてしまいます。

だからこそ、ページビュー数を競うよりも、媒体の側が「うちはこう評価されるべきだ」という独自の態度を持つべきだと考えています。例えば、「自分たちが取り上げた作品や作家が、特定の人たちにこのように評価されたら、それで達成である」というような、長期的で文化的な影響に基づく評価軸を設定することも一つの方法でしょう。そうした自律した評価の枠組みこそが、SNSや大規模プラットフォームが重視する“即時的な指標”に過度に引きずられず、メディア自身の価値を守ることにもつながると思っています。

竹久──ことartscapeの評価について考える場合には、運営母体を考慮する必要があると思います。artscapeは、印刷会社であるDNPが運営しているため、紙という素材に関わるもの全般、すなわちアート展もデザイン展も写真展も建築展も並べて扱うことができる強みがあります。印刷会社がメディアやギャラリーの運営をしている例は、世界でもあまり例がないと思います。

そのような総合性があってこそ、辞書のような「アートワード」のコンテンツを運営できるわけですよね。これってそもそも、「アンチページビュー数」的な態度なんじゃないかとも思えてきます。つまりartscapeは、ユーザーが「検索した結果突き当たるサイト」ではなく、「検索ワードを与えるようなサイト」として機能し、知識と知識の繋がりを提示する役割を担ってきたのだし、これからもそうあってほしい、と願っています!

きりとり──artscapeの「アートワード」は美術教育の現場でも重宝されていると思うので、そういった数に還元しきれない分野毎でのメディアが受ける評価、「アンチページビュー数」的基準を検討し、それを通して自分を評価することが次の30年に向けて大切になりそうですね。いま言っていただいた「検索ワードを与える」という概念は、デジタルアーカイブの議論とも深く関わってくるでしょう。

AIが読み書きする前提で、デジタルアーカイブを考える

きりとり──2009年頃、濱野智史さんがartscapeで連載されていた「〈歴史〉の未来」は、当時のウェブサービスの動向、特にデジタルアーカイブ(データベース)の観点から、情報環境の進化が未来の〈歴史〉を支える「形式」や「インフラ」にどのような変容をもたらすかを考察したものです。ここでの濱野さんの指摘の核心は、情報の疑似的なリアルタイム性を優先するアーキテクチャ(当時ではニコニコ動画やTwitterなど)の、そのときに体感したリアルタイム性を、後からユーザーは参照することは困難であり、共同体から「過去の記憶」がごっそり抜け、過去を参照することで新たな歴史を生成するはずの行為が、同時に過去の記憶の共同体を破壊してしまうという逆説的な事態です。

デジタルアーカイブが常に直面する問題、すなわち、リアルタイム・ウェブにおける「時間的局所性」が「現在」への極端な集中をもたらし、「歴史」という過去の領域そのものを忘却させる力をもつということ、つまり「現在に追従することで過去を失っていく」というシステムのなかに私たちが生きていることを示唆しています。結果、連載では歴史を引き継ぐ方法が模索されていました。

記事から15年ほど経過したいま、実際的に歴史の忘却は加速度的な状態にあると思います。それと同時に、水野さんがこの座談会の準備期間に、AIとの対話を通して執筆や研究をする中で、「AIにより今後、人間の記憶がなくなっても大丈夫になるのではないか」と仰ったことが、濱野さんの議論の次の土台になるのではないかと思いました。いかがでしょうか。

水野──正直、きりとりさんの話を聞いていて、濱野さんの議論にどう応じたらいいのか、すぐには言葉になりませんでした。ただ、最近AIを使って文章を書くようになって、ひとつ気づいたことがあります。人間は常に忘れながら生きており、話したことの細部や過去の出来事の多くを忘却しています。一方で、AIは毎回呼び出されるたびに「記憶がない」状態で応答し、常に記録を参照し続けるという点で、人間とは異なる原理で動いています。人間が「忘却」を担い、AIが「記録」を担うという対照的なシステムは、濱野さんが提起した「過去の喪失」という問題を、ある程度解消しうる可能性があります。

前提として、私は、批評のプロセスや成果物の書き物について、人間以外のシステム(AIなど)によって読解されることを許容したほうがいいと思っています。一度ウェブに公開したテキストは、どのように使われても構わないという姿勢です。レイアウトという視覚的な要素も重要ですが、結局のところ、読みにくいものであってもテキストデータとしてアップされていれば、読むための工夫はいろいろやりようがあるからです。

話を戻すと、デジタルアーカイブの問題を考えるうえで、AIと人間との協働という視点は重要です。ウェブメディア運営において、そのコンテンツがAIにも可読的であること、つまりマシンリーダブルな状態であることは、そのコンテンツの評価や読まれ方を飛躍的に高める可能性があります。AIが記事を読んだり執筆支援をしたりすることで、結果としてAIの参照元であったウェブメディアの情報が研究者や批評家のテキストに入り込んでいくことになります。その際、もしクレジットを明示することが可能ならば、最終的にそのメディア自体の評価が上がっていくという循環が期待できるのです。AIに読まれたら、どこでそれが作用していくのかわからないから、なんだか面白いじゃないですか。

脱ブラウザ時代の「リンク」の可能性

きりとり──AIによる可読性の確保、そして非人間的なユーザーへの対応という議論は、ウェブサイトのデザインが、従来の「ブラウザで視覚的に閲覧されるもの」という前提から離脱しつつあることを示しています。こうした環境の変化は、ウェブのインターフェイス設計を再考する契機を与えてくれそうです。

たとえば現代のウェブやSNSにおいて、クリックやタップによるハイパーリンクやページ遷移はやや退潮していると言えそうです。能動的にリンクを押す行為に代わり、スクロールする行為がユーザーにとって心地よい情報取得方法となりました。

水野──この前授業で話したのですが、リンクは、読む体験をまるっきり変質させる力を持っていると思います。例えば、本来は記事が「1から10まで」順序立てて進むところを、リンクがあれば「1があって、5に行ったあとに、10に行って、いきなり2で終わる」といった、非線形な体験を生み出すことができます。これはVRなどの空間を体験する技術とも親和性があるとされていて、可能性があるんですよね。──「みかんはりんご」って書いて、その「みかん」に「りんご」へのリンクをつけて飛ばせますよね。そういう間違った使い方みたいなことも含めての、可能性です。リンクは、言葉と意味のベッタリした関係を引き剥がす力があるはずなんです。でも、それが全く活かされていないというか、忘れられています。

竹久──昔のartscapeにも「アートワードマッチ」(記事内のアート関連用語にリンクを自動的に付与する)っていう機能がありましたよね。これはユーザーが興味のある記事から、まったく違うところに飛び移る可能性を提供していました。

また、最近拝見して興味深かった作品としては《文字とイメージを分けない表現方法の研究》(佐クマサトシ×田中良治×谷口暁彦)というウェブサイトがありました。これは、サイトに掲載されている詩の単語に別の作家の作品がハイパーリンクとして紐付き、作品にまた別の単語が……と、無限に数珠つなぎになっていくものです。無作為に現われるリンクを追いかけていく楽しさを感じましたし、現代のユーザーのほうにその能力が無くなっていっているとしても、むしろその能力を引き出すっていうのがインターフェイスデザインの取り組みがいのあるところなんじゃないかと思います。

ユーザーの能動性と受動性──「ハッキングvsデフォルト」

水野──AIを活用することで、人間側も情報へのアクセスや思考の方法を変えることができます。例えば、テキストを要約してもらったり、特定の情報についての質問を投げかけたりすることで、AIはオーダーメイドのテキストを返してくれます。この対話的な体験は、利用者の思考を触発する力がありますよね。「つい読んじゃう」流れのなかで、能動性が引き出されていく感覚もあります。

この文脈で、artscapeも真っ白なページとひとつだけの検索欄から始まる対話型のインターフェイスにしてみてもいいかもしれませんね。ユーザーが入力すると、興味関心に合わせてテキストサイトが出来上がっていくというものです。

──水野さんが言っていたような、真っ白な画面から始まるサイトを検討したことがあって、しかし、実際にやっていくうちに、だんだん「人ってそんなに能動的じゃないよね」という話が出てきて。ある程度情報や方向性を提示してあげないと、ユーザーは何をしていいかわからなくなってしまう

だからこそ、ビッグテックの支配や寡占的なプラットフォームにも一定の理があるというか。結局、ある程度決まっていたほうが、ユーザーは考えることが減るからいい、という流れがあるんでしょうね。自分で考えるのが好きな人ばかりではないですから。

きりとり──「ハッキングvsデフォルト」というガスリー・ロナガンの議論を思い出しました。1990年代の「ハッキング」は、デフォルト(プリセット)に目もくれずゼロから何かを作り出すことに創造性を見いだし、「デフォルト」はデフォルトで皆が使える状態であること自体の表出に意味を見出していましたが、畑さんのお話を踏まえると、現在の向き合い方は変わってきているように見えます。完全にゼロから作るのではなく、既存のデフォルト的な枠組みのなかで、いかに舵取りをし、新しい可能性を生み出すかというフェーズにハッキングを見いだすというリアリティですね。

──私自身のプラットフォームとの付き合い方で言えば、「使われる」のではなく「使う」意識でいたいという気持ちがいつもあります。Instagramのようなプラットフォームが普及する前は、ただブログに写真を上げるくらいしかできませんでしたが、Instagramが登場したことで、その場で撮ったものをすぐに公開するという行動が引き出され、結果的に多くの人が写真を撮るようになりました。これはテクノロジーの面白さでもあります。しかし、そのプラットフォームが求めるビジュアルを意識しすぎると、「使われている」状態に陥ってしまいます。

素人目線でさまざまなテクノロジーを触ってみて、「自分が使ったからこうなった」という感覚を大事にすることで、その生っぽさや予期せぬ面白さを制作に生かせると考えています。

きりとり──インスタグラムは開発当時、インスタ映えのような写真の価値を念頭に置いていなかったけれども、ユーザー側がスマートフォンでの閲覧というハードウェアと、アプリの設計というソフトウェアの両方を読解して、「インスタ映え」を見つけ、画像に貨幣的な価値を付与した結果、今日的な状態として「インスタ映え」はあるので、「使う」と「使われている」は視点によって判断が変わるものだと改めて思います。今でもなお「使う」意識を持つことは可能ですよね。私自身はヴァナキュラーなイメージが大好きな人間なので、プラットフォームにまみれた結果として現われる、類似するイメージ群のなかの「微細な差異」(マノヴィッチ)にも、創造性があると言いたいです。

メディアという単位でも、個人でも自分を自分で評価することの大切さが高まっているのと同時に、さらに「自分で評価できなかったらダメなのか」というようなユーザー=クリエイターに対する自己責任論へと批評言説が陥らないように、メディアを作る側が何を考えておくか、という視点も重要になると思いました。

「漢方薬」的インターフェイスは可能か

きりとり──さて、ここからは30年後の自分たちがウェブメディアとどう付き合っているかを、みなさんに想像してみていただきたいです。

萩原──未来を構想するうえで今日お話ししたかったのは、「漢方や食養生」の比喩を用いたインターフェイスのあり方です。これは、現在のプラットフォーム資本主義が前提としている、即時性と強い刺激を求めるデザイン潮流に対抗する考え方でもあります。

私も本で読んだのですが、古代の中国では、不老不死や即効性を求めて、水銀や硫黄のような鉱物まで薬として口にしていたとされています。私は、いまの情報環境にもどこかそれに似た構造を感じています。というのも、手早い効果や目に見える成果を追い求めるあまり、インターフェイスが刺激の強い処方のまま設計されてしまっているからです。その結果、ユーザーは短期的な満足を繰り返し求めずにはいられない状態に陥ってしまう。

例えば、次々に新しい情報が現われる「無限スクロール」や通知の赤いマーク、あるいはユーザーの行動分析にもとづいて最適なタイミングで届けられるメールやプッシュ通知などが典型例です。これらは、人間が依存しやすい行動パターンを心理学的に分析した研究を背景にしており、世界中のデザイナーやリサーチャーの知見が巧妙にUI/UXへ組み込まれています。いわゆる「説得的デザイン」と呼ばれる手法で、意図的にユーザーの依存度を高める方向に働きます。

古代中国でも、当初は強い鉱物を薬として摂取していたものの、次第にその効力が大きすぎることが分かり、動物の骨や角、スパイスやハーブ、そして最終的には山芋やキノコのような日常的な食材へと、穏やかな処方が広がっていったといいます。強い薬が悪いわけではありませんが、毎日続けられる穏やかな食養生の価値があらためて見直されるようになったわけです。

私がこれからの30年間を構想するうえで大切にしたいのは、この「食養生」のような考え方です。短期的な満足だけを評価軸にするのではなく、長い時間をかけてユーザーの生活に働きかける価値をどう見出すか。そのために、いまのインターフェイスに含まれる強すぎる成分を少し薄めて、遅効性の価値をもう一度メディアデザインに取り込んでいけないか。そんなふうに考えています。

きりとり──メディア運営と資本主義との折り合いの付け方、ですね。そこは今後30年間でどんどん取り組んでいきましょうというふうに思わされました。

水野──メディア運営と資本主義の折り合いという問いには、少し違う角度から考えています。メディアの運営も資本主義も、情報の総量が増えていくことを支える要素でしかないのではないでしょうか。

 30年後の自分は78歳になります。そのときはもう頭が回らなくなっているかもしれない(笑)。そこに至るまでということで言えば、私は今、知的活動やテキスト作成の能力が人間だけでなくAIという別のシステムでも完遂できるようになる過渡期にいると捉えています。完全にその評価が定まっていない状況だからこそ、我々がこれまでテキストをどのように書いてきたのかを、ひとつずつ掘り下げて実践する必要があると考えています。実際、この座談会の私の発言も、AIとのやりとりの中で整えられたものです。私の過去のテキストをAIが拾い、AIが提案したフレーズを私が選び取る。人間とAIという、まったく異なる原理で動くシステムが、言語だけを介してやりとりを繰り返すことで、情報の総量が増えていく現象自体が興味深いですし、そのプロセスが今話していることの実践になっています。

例えば、とあるレビュー執筆の依頼を受けた際、私は「レビューが始まる起点はいつか」を考察しました。作品鑑賞時からか、依頼を受けた時点からか、あるいはそのずっと手前、自身の関心に引きつけられてメールが来た、その前からなのか、といった具合です。そして、展示に関連すると私が考えるすべてのメールや日記、展示メモといった大量のメモをAIに渡してテキストを生成してもらって、レビューを書いていきました。そういった一つひとつの積み重ねによって、レビューのあり方や批評の形式が変わるのではないかと思っています。情報の総量がこれまで以上に増えていく大きな流れの中で、その増え方に自覚的であることが個人にできる実践だと考えて、いろいろとチャレンジをしながら30年後を迎えたいと考えています。

きりとり──今回の座談会は、SNS以降のウェブメディア全般におけるグラフィックの位相とその批評空間がどういったものかを「へたれグラフィックス」を中心に検討することからはじめて、過去30年という経過を振り返りつつ、過剰に「現在」を演出する状況をつくりだすウェブメディアに対する問題意識に軸足を置きながら、これからの30年で何が可能か思案する契機となるような議論だったと思います。

ウェブメディアがプラットフォームの寡占や「激薬」的なインターフェイスに対抗するためには、「漢方薬」的インターフェイス、自律的な評価基準、そしてマシンリーダブルなデジタルアーカイブの構想……などが必要であるという、これからのためのトピックスが見えてきたのではないでしょうか。今日はみなさん、長時間にわたってありがとうございました。

 

★──2025年11月13日に公開された藤幡正樹と廣田ふみによるウェブサイト「芸術と技術の対話」で実装されていた。ぜひ体験してみてほしい。https://www.dat.1kc.jp/

収録日:2025/11/01(土)