会期:2025/11/22~2025/11/24
会場:愛知県芸術劇場 小ホール[愛知県]
公式サイト:https://aichitriennale.jp/artist/akn-project.html

前編より)

前編で予告したように、約50年前に書かれた戯曲に対する本上演の応答は、「差別の再生産」のループ構造を、観客とともに、変革の可能性と希望へ向けてどう転じさせるかに賭けられていた。差別と抑圧を受ける側が、差別から逃れようとして、規範を自ら内面化して差別する支配者側に回ってしまうという負の連鎖は、『人類館』という戯曲を貫く太い軸である。めまぐるしいシーン転換と時空の交錯が『人類館』の特徴だが、調教師役の俳優は、どれだけ時空が変化しても、一貫して「支配者(に同化しようとする)」役を演じ続けるというルールがある。人類館の「見世物」を紹介する調教師から、方言禁止と皇民化政策を推し進め、教育勅語を読み上げる教師へ。威圧的な特高刑事、ベトナム戦争期の沖縄の精神病院を管理する医師となった彼は、爆発の轟音とともに、地元住民を抑圧する帝国軍人に変化する。

だが、「正しい日本語の発音」を皇民化教育として推し進める教師/調教師自身が、沖縄の訛りを完全に払拭できなかったように、帝国軍人もまた、「日本男児になりきりすぎて、同郷の者にも見分けがつかなくなってしまった沖縄人」であった。帝国軍人は「カマー」と呼ばれ、男は「カミー兄」、女は「ウシー婆」と名乗り、3人は戦場での再会を 沖縄口 ウチナーグチ で喜び合う。だが、カマーは妻が戦禍で亡くなったことを告げられ、逃げ場も生きる希望もなくなった3人は、カマーが持っていた手榴弾で自決しようとする。だが、手榴弾は爆発せず、なぜか芋に変わってしまう。

再び場面は一転し、カマー/帝国軍人は、「無駄死にするな」と新生沖縄県の建設を学生たちに熱く説く戦後の教師に変貌する。そして時空が早送りされ、彼は本土復帰運動の推進者となる。だがその台詞の端々には、大日本帝国の亡霊が残響する……。

目まぐるしいシーン転換に応じて、複数の役を演じ分けていく俳優たちは、沖縄が求められた「役割」「変わり身」の体現でもある。そしてここには、帝国主義の規範に同化し、差別を内面化した沖縄のエリートに対する知念の自己批判がある(人類館での沖縄女性2名の「展示」を批判した『琉球新報』の主筆の太田 朝敷 ちょうふ は、「台湾原住民やアイヌと沖縄人を同一視するな」という、それ自体人種差別的な言説を展開した。また、戯曲では、「クサメ(くしゃみ)も日本風にしなくちゃいかん」という調教師の台詞があるが、これも同化政策を牽引した太田の主張を引用している

「自分ではない誰かにそっくりになりきって振る舞う」「相手を信じ込ませてだます」という演劇の暗黙の了解は、「日本人になる」という規範と差別を内面化した沖縄自身に対する批判と重ね合わされつつ、「衣装の交換」という象徴的な行為を経由して、差別の再生産構造という結末に辿りつく。不発の手榴弾が芋に変わった後、沖縄人カマーは再び冷酷な帝国軍人に戻り、「敵の背後にまわって奇襲攻撃をかける際に、敵の目を欺くため」と嘘をつき、自分だけ逃げ延びるために、軍服を脱ぎ捨て、住民の男と服を交換する。だが、戦後の教師と本土復帰運動の推進者に移り変わった彼が、芋を床に叩きつけると、爆発が起きて死んでしまう。調教師の死体を見て、男は「これは天罰だよ。同じ沖縄ん人のくせしてからに、大和ふーなーして、沖縄を馬鹿にするからだよ」と言う。そして、死体をごまかすために、「沖縄人の服を着た調教師」の死体を引きずり、人類館の小屋の中に自分の代わりに「陳列」する。調教師の衣装をまとい、軍帽と鞭を手にした男は、冒頭で調教師が述べた口上を再び繰り返す……。


[提供:那覇文化芸術劇場なはーと 撮影:仲間勇太(那覇公演)]

この差別のループ構造から、台詞を一切変えずに、どう抜け出すか。本上演では、「陳列された男」が「調教師」の役に変わり、時間が巻き戻っていく過程を、俳優3人の協働作業として丁寧に描いた。「陳列された男」の役を演じていた俳優は、調教師の脱ぎ捨てた軍服を、自ら拾って着るのではなく、「陳列された女」役の俳優が着せかけるという演出が採られた。調教師の衣装を着せられていく俳優の表情も雄弁で、「あー、着たくないなぁ」「自分にこの役が回ってきたのか」という渋い顔を見せる。厚手のロングコートに対して「重たい……」というアドリブがこぼれるが、ここにもまた、衣装自体の重量と「引き受けねばならない役の重み」が折り重なっている。そして、死んだ調教師役の俳優も起き上がり、3人は散らばった小道具を拾い集め、「元の秩序」に空間を戻していく。ただし、反復される「調教師の口上」は、侮蔑的で芝居がかったものではなく、目の前の観客に向けて誠実に問いかける言葉として発話される。「無知を一掃し偏見を正し差別を無くするにはどうすればよろしいか…………」。コの字型に舞台を取り囲む観客席に、3人の俳優がそれぞれの向きで対峙し、「役を降りた時間」が「問いを共有する静かな時間」となる。

無自覚のまま差別を再生産する側になってしまうのではなく、「その役を担わされている」ことを自覚した上で、「差別の正当化」に利用される「人類普遍の原理」を、帝国主義自身の自己反省的な言葉として発し直し、「(人類館の観客と重ね合わせられた)劇場の観客と問いを共有する時間」として開いていくこと。なぜなら、「差別がそこにあること」に無知・無自覚なままだと、永遠になくならないからだ。

リ・クリエーションである本上演は、舞台美術と衣装も秀逸だった。コの字型に舞台を取り囲む観客席は、一部が前方へ張り出し、一部が奥へ後退した歪な形をしており、「どの位置に座って観劇するか」すなわち「どの立ち位置から眺めるか」によって見える光景が異なることを体感させる。また、舞台からはけて出番のない俳優が、観客席の「外側」をウロウロ歩き回る演出も効いていた。(舞台/人類館の展示を見ている)観客が、「さらに外側から見られる側」になる仕掛けにより、入れ子構造や視線の反転を空間的に体現する。


[提供:那覇文化芸術劇場なはーと 撮影:仲間勇太(那覇公演)]

衣装もまた、他者から見た「沖縄らしさ」を求められ、「お前は何者なのか」と自己証明を問われ続けるアイデンティティの複雑さや矛盾を視覚的に表現していた。男がまとう衣装は、琉球の伝統的な絣の布や紅型の文様に、軍服の一部やオリオンビールなどの商品パッケージがパッチワークのように継ぎはぎされ、伝統的な琉球のイメージとアメリカナイズされた消費的記号の狭間で揺れ動くさまを可視化する。

最後に、『人類館』という戯曲がはらむ限界として、「性暴力の被害者」という一面的な女性表象と、「日本人=臣民」は 男性しか想定されていない ・・・・・・・・・・・・ というジェンダーの不均衡性を指摘したい。『人類館』における「陳列された女」は、場面転換に応じて、帝国軍人に襲われるひめゆり部隊や女子挺身隊になり、米軍統治下の家庭で雇用主から性被害に遭うメイドになり、「日本女性の純潔を守るために、日本の防波堤になっていただきたい」と調教師に言われ、米兵相手の性風俗業に従事するセックスワーカーになり、ベトナム帰りの米兵の暴力に遭う。沖縄の抱えた複雑なねじれや多重性については解像度を上げて描き出す『人類館』だが、「女性は常に性の犠牲者」という一面的なジェンダー表象には疑問が残る(これは本作に限らず、沖縄を主題とする演劇作品における女性表象の固定化という問題である)。 また、皇民化教育の一環として発音矯正されるのは、男性だけである点にも留意したい。「天皇陛下ァ、バンジャーイ!」という訛りの矯正は、「陳列された男」と「沖縄戦下でスパイ容疑をかけられた郷土防衛隊員」によって反復される。逆に言えば、「日本人=臣民」になるべきとされるのは「男性」だけであるという、ジェンダーにおける帝国のダブルスタンダードがここに露呈している。


国際芸術祭「あいち2025」パフォーミングアーツ AKNプロジェクト 喜劇『人類館』
[© 国際芸術祭「あいち」組織委員会 撮影:相模友士郎]

だが、本上演は、戯曲がはらむジェンダーの不均衡性や性別二元論的な構造に対しても、揺さぶりをかけていたのではないか。調教師がまとうロングコートの軍服は、背後の腰から下がプリーツスカートになっており、裾の下から華やかな柄のスカーフが時折のぞく。肩章や軍帽に付けられた飾り紐はパールのチェーンだ。そして、冒頭、調教師はドラァグクイーンのように腰をくねらせながら姿を現わしていた。鞭をしならせながら誇張した口調で口上を述べる様子は、「SMの女王様のプレイ」にも見えてくる。まさにドラァグのように、ジェンダー自体が「記号として演じられるもの」であることの強調。そして、衣装と演技に加えられた綻びは、「男性中心的な帝国を体現する調教師」自身がジェンダーの曖昧さを抱えていることを示し、その強固に見える地盤に静かに亀裂を入れていた。


[提供:那覇文化芸術劇場なはーと 撮影:仲間勇太(那覇公演)]

★──太田朝敷と「人類館事件」については下記を参照。小原真史「『人類館』の写真を読む」(『photographers’ gallery press no.14』、2019、p.33)

関連レビュー

劇艶おとな団プロデュース『9人の迷える沖縄人~after’72~』|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年06月15日号)
神里雄大/岡崎藝術座『イミグレ怪談』|高嶋慈:artscapeレビュー(2023年02月15日号)

鑑賞日:2025/11/23(月)