artscapeレビュー
劇艶おとな団プロデュース『9人の迷える沖縄人~after’72~』
2023年06月15日号
会期:2023/05/20~2023/05/21
ロームシアター京都 ノースホール[京都府]
沖縄の本土復帰50周年にあたる2022年から今年にかけて、マームとジプシー『Light house』と『cocoon』再演、兼島拓也作・田中麻衣子演出『ライカムで待っとく』、神里雄大/岡崎藝術座『イミグレ怪談』など、「沖縄」を主題にした良質な演劇作品の上演が続いている。そのなかでも本作は、本土復帰に焦点を当て、「1972年の復帰直前の沖縄で、9人の市民が復帰をめぐる討論会に参加した」という設定のフィクションと、「それを演じる現代の沖縄の劇団員たちの稽古場」という入れ子構造に特徴がある。過去と現在、役柄とそれを演じる俳優の往還を通して、「沖縄の抱える矛盾や葛藤」を異質な声のぶつかり合いとしてあぶり出していく。2015年の沖縄での初演後、再演を重ね、「CoRich舞台芸術まつり!2022春」でグランプリを受賞。那覇市を拠点とする「劇艶おとな団」の代表作だ。戯曲は『悲劇喜劇』2022年9月号に掲載されている。
討論会の参加者は、司会者(仲嶺雄作)、有識者(國仲正也)、復帰論者(犬養憲子)、独立論者(島袋寛之)、沖縄へ移住した本土人(当山彰一)、文化人(宇座仁一)、主婦(上門みき)、老婆(伊禮門綾)、若者(与那嶺圭一)の9名。開始早々、「本土」復帰か「祖国(=琉球)」復帰か、どちらの言葉を使うべきかで、復帰論者と独立論者は口論になる。アジアの経済ネットワークのハブとなって経済力をつけ、貿易立国として日本から独立すべきだと主張する独立論者。就業人口の25%が基地経済に依存する現状から脱して経済発展するには、高度経済成長の波にのる日本と一緒になるべきだと主張する復帰論者。議論のかたちを借りて、沖縄に基地が集中する前提にある日米安全保障条約と日米地位協定についてもわかりやすく解説される。当時の佐藤栄作首相が使った「本土並み」という言葉に、「基地も本土同様に減る」ことを期待する主婦。「戦死者に加え、基地建設の費用に20億ドルも払って手に入れた沖縄をアメリカが手放すはずがない」と突き放す本土人。米兵から中古家電を安く譲り受け、違法の転売ビジネスで儲けている本土人の本心は「基地がなくなったらビジネスとして困る」というエゴにある。「自分の夫は基地で潤う25%には入らないため貧しいが、子どもには本土並みの教育を受けさせたい」と貧困からの脱却を訴える主婦。「本土化して、ウチナーグチも失われたら、誇りまで失ってしまう」と訴える文化人。ヒートアップした口論は、沖縄戦で2人の子どもを亡くした老婆の「もう戦は見たくない」というつぶやきで中断される。シリアスなテーマだが、ユーモアと笑いが包む会話劇でもある。
本作が秀逸なのは、この72年の架空の討論のシーンと、それを演じる現代の俳優たちが休憩中に交わす雑談のシーンが、交互に演じられる二重構造である。「舞台裏」も「本番」同様に議論が白熱し、「本土復帰を経験した年配世代」と「復帰前後を知らない世代」との対話を通して、世代間の差異や断層、「沖縄の本音」をあぶり出す。「フィクショナルな過去の再現」で起きる「口論」「対立」が、「現在の稽古場」でも起きてしまうことで、「過去の問題ではない」こと、そして「ウチナーンチュ」が一枚岩ではないことが強調される。また、後半では、イデオロギーの対立構造から「個人の内面」に焦点がシフトし、ひとりのウチナーンチュのなかにもイデオロギーや理屈では割り切れない矛盾や葛藤があることが描かれる。軸となるのが、「若者」と「有識者」(をそれぞれ演じる俳優)どうしの対立。政治・経済・文化に無関心な若者役を演じていた俳優は、「いつまでも被害者ヅラしている沖縄の自虐性が嫌だ」と怒りをぶちまけ、(役と同様に)有識者役の俳優と激しく対立する。だが彼もまた、基地から受ける恩恵と犠牲の両面で板挟みの状態に悩みながら演じていたことが「本番シーン」で吐露され、復帰前の過去と現在、フィクションと現実の境界が曖昧に揺らいでいく。「今」は72年なのか、現在なのか? 演劇ならではの操作により、アメリカ、そして日本国家との不均衡な関係は変わらないことをあぶり出す。
劇中世界/休憩、フィクションの内部/外部を切り替える暗転では、戦闘機や輸送機の轟音が頭上をかすめるように鳴り響く。この轟音もまた、切断と同時に、「復帰後も鳴り止まない音」として過去と現在をつなぎ直す機能をもち、複雑さを帯びている。
このように緻密に練り上げられ、俳優陣も魅力的な本作だったが、潜在的な可能性と疑問として、①「冒頭の空席の椅子」と、②ウチナーグチとイントネーションの戦略的な使い分けについて考えたい。冒頭、「72年の市民討論会」に集まったのは8人であり、1つの椅子が空席のままだった。実際には、ウチナー芝居の役者である文化人が「遅刻」し、「沖縄のゆるいマイペースぶり」を本土人が毒づくという脚本だったが、私が想像したのは、この「9人目の席」を「不在」のまま残す演出の可能性である。「まだ語られていない声がある」、「沈黙でしか語りえない声がある」。抑圧され、可視化されない声があることへの想像だ(例えば本作では、「基地問題」は性暴力とは結びつけて語られない)。あるいは、「もし自分がその席に座って討論に参加していたら?」という想像。「そもそも沖縄について語る場に参加する資格はあるのか」、「いや、そのような問いこそ“自分は無関係”という無意識の表われではないのか」……。こうした想像や思考が展開する余地を、「不在の空席」は秘めていた。
2点目が、ウチナーグチとイントネーションの戦略的な使い分けの問題である。劇世界では、ほぼ一貫してウチナーグチで話すのは「文化人」「老婆」の2人だけである(字幕がないので、重要な台詞以外は意味がほとんど理解できない)。「着物の衣装」によっても差別化されたこの2人には「伝統」「旧世代」「政治からの距離」という役割が割り当てられている。一方、劇世界/稽古場ともに、唯一沖縄のイントネーションでしゃべり、ウチナーグチ/標準語の中間的な立ち位置にいるのが「主婦」だ。「本土並み」の教育によって子どもを貧困の連鎖から断ち切りたい主婦は、本土の経済成長の波にのるべきと主張する復帰論者に強く賛同し、「これからの時代は女性も勉強して自分の意見を言うべき」という点でも彼女に共感し、対立し合う男性たちのなかで、シスターフッド的な面も見せる。一方、主婦と同じく若い世代で非知識人層である「若者」は、イントネーションも含めて完全に標準語で話すことに注意したい。「標準語」と「方言」の戦略的な使い分けは、「キャラづけ」としての有効性の反面、地域的な周縁性が時間的な後進性に結びつきかねない危うさをはらんでいる。「復帰論者の先生の発言を聞いて目覚めた」主婦の発語にのみ響く沖縄のイントネーションには、「ジェンダーの劣等性」が密かに埋め込まれているのではないだろうか。
なお、「1960~70年代の冷戦期の出来事を、現在において再演する」構造は、偶然だが、同時期に開催された「Re: スタートライン 1963-1970/2023 現代美術の動向展シリーズにみる美術館とアーティストの共感関係」展とも共通しており、同評をあわせて参照されたい。
公式サイト:https://rohmtheatrekyoto.jp/event/102662/
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