会期:2026/01/29~2026/02/15
会場:Gallery & Restaurant 舞台裏[東京都]
公式サイト:https://artsticker.app/events/109892

前編より)

前編で予告したように、後編では、「キャラクター表象と風景の(非)連続性」という観点に着目し、門眞妙とセマーン・ペトラの作品を比較しながら掘り下げる。

門眞妙の絵画では、少女キャラクターの後頭部と、彼女が見つめている風景が、透明感あるアニメ風の筆致で描かれる。「後ろ向きの少女と風景の対峙」という構図は、会田誠の初期の代表作品《あぜ道》(1991)を想起させる。会田の絵画では、セーラー服を着た少女のツインテールの分け目が、田んぼのあぜ道とだまし絵風に接続されている。周知のように、会田作品は、日本画家の先達として、東山魁夷の《》(1950)に対するオマージュである。そこでは、東山の《道》の引用と、記号としての少女が、どちらも二次元に属するイメージとして等価で連続的なものとして扱われている。言い換えれば、少女の後頭部の髪の分け目があぜ道と文字通り接続されることで、「風景(画)」と等価な存在として描かれる(さらには、「ローカルな日本」が憧憬の対象として肯定的に描かれている)。


門眞妙《明日、火を見にゆく》(2022)[撮影:Yudai Saki]

一方、門眞の絵画では、キャラクターと風景は、アニメ風の描画法上は同じであるがゆえに、両者の落差やギャップを見る者に突きつける。少女の髪のツヤ感や風になびく毛束の描写は、繊細で透明感ある筆致と相まって、一見「エモい」と感じさせる。だが、少女のキャラクターが見つめているのは、造成中の新興住宅地や、巨大資本チェーン店が立ち並ぶ郊外という「現実」の風景だ。核家族すなわち異性愛規範の象徴である「マイホーム」や震災の復興住宅地、消費資本主義になすすべなく飲み込まれていく光景。また、門眞によれば、看板が描き込まれたマクドナルドやスターバックスは、BDS運動(イスラエルに対する消費ボイコット)の対象でもある。後ろ向きの少女たちは、眼差しの対象となることを拒みつつ、彼女たちの視線の先にある「現実に存在する光景」に目を向けるよう、無言で促す。「あなたは風景の傍観者にすぎないのか」「それとも、意思をもって風景に対峙しているのか」と、見る者に問いかけるのだ。

門眞妙《地点、》(2026)[撮影:Yudai Saki]

対照的に、セマーン・ペトラの映像作品《Border as Interface》★1 では、「ピンクに髪を染め、アニメ風のキャラクターとして描かれた自画像」が、実写風景の中に配されるというズレや違和感とともに、「境界線」「インターフェース」をめぐる内省的で知的なモノローグが展開する。セマーンはハンガリー出身で、イギリスと日本を拠点に活動する映像作家である。実写で映されるのは、どこにでもあるような日本の郊外や寂れた都市風景だ。その実写風景に配置された「アニメのキャラクター風の自画像」は、「現実の風景の中になじまないこと」「この世界に自分の居場所がないという感覚」といった強烈な落差や不協和音を視覚的に突きつける。そのズレや違和感は、複数の言語や文化の境界線上にいること、規範によって引かれた境界線を揺れ動くクィアであることという自身の生と実存と同時に、現実と虚構、身体と機械の境界である「インターフェース」についての思索が多層的に語られていく。

セマーン・ペトラ《Border as Interface》(2024)

本作の構造自体が「ソースコードの入力」という入れ子構造になっており、ビデオゲームの参照、3DCGやフォトグラメトリがたびたび断片的に挿入される。だが、バーチャルな世界は完全に自由で「ここが自分の居場所」と感じられるものだろうか? 作中では、バーチャル空間もまた、制度設計者の偏見や優先順位を反映したものであることが語られる。だが、セマーンは、2つのものを隔てつつ接し合わせる「インターフェース」の可能性に希望を見出す。本作で、メタファーとして登場する重要なモチーフが、「海(面)」と「電車」「線路」である。「島国」を大陸から切り離しつつ、両者を繋ぐものでもある「海」。波打ち際に浸した足は、海中と大気中の双方に揺らぎながら身を置いている。そして海と陸を分かつ「水面」は、風景を反映する不安定なスクリーンともなる。

セマーン・ペトラ《Border as Interface》(2024)

「電車」「線路」「踏切」もまた、多義的なメタファーとして登場する★2 。日本のローカル線の電車に乗って旅する自画像的なキャラクターは、A地点からB地点へ「常に移動途中であること」「固定化されない中間領域を絶えず動き続けていること」を体現する。車窓が切り取る風景は、デバイス内のウィンドウ画面やスクリーンの謂いとなる。電車の線路は、絡み合うケーブルと呼応し、「ここ」と「別のどこか」をつなぐ接続回路となり、駅や踏切で別の線と交差する。だが同時に、遮断機の下りた「踏切」は、アニメ風のキャラクターの行く手を阻む(現実の)境界線ともなる。


セマーン・ペトラ《Border as Interface》(2024)

一方、作中では、実写風景を「素材」としてバーチャルな空間が作り上げられていく。「現実の世界」は疎外感を感じさせるなじめないものだが、そこには同時に、「まだ存在していない、想像された世界」を自ら作り出していくことができる可塑性に満ちている。手描きアニメ、実写映像、3DCGを混在させた不協和音と同時に、作中で語られる別の生のあり方へ向けたポジティブな力や思考の能動性を兼ね備え、緻密に設計された秀逸な作品だった。

なお、本展示企画は、2026年夏に第2弾が予定されている。

★1──作家のHPで全編公開されている。 https://www.petraszeman.com/borderasinterface.html
★2──下記のインタビューでは、新海誠のアニメ映画『秒速5センチメートル』(2007)に登場する両毛線の電車に乗って「聖地巡礼」することが渡日のきっかけであり、「イメージの中の風景」と「現実の風景」が重なった体験が、その後の制作に影響していることが語られている。 「聖地巡礼の新たなかたち。セマーン・ペトラが映すフィクションと現実の境界とは?」『g-bside』https://g-bside.xyz/posts/202410-petraszeman?lang=ja

鑑賞日:2026/02/08(日)