
会期:2026/06/19~公開中
公式サイト:https://www.bitters.co.jp/soudain/
これは、終末期医療における「人間の尊厳とケア」だけを描いた物語ではない。「資本主義という病理に侵された(社会という)身体のケアと回復」をめぐる物語でもある。その成立を支えるのが、資本主義の病理的構造についてのレクチャー・パフォーマンス、劇中劇の一人芝居、足裏をマッサージし合うワークショップといった随所に散りばめられた演劇的仕掛けであり、互いがもつ「知としての技術」を贈与的に交換する関係性である。
濱口竜介監督初の海外ロケとなった本作の舞台は、パリ郊外の介護施設「自由の庭」。施設長のマリー=ルーは、認知症患者を「魂をもつ人間」として扱う理想の介護を実践するため、施設の改革に奮闘している。スタッフへ研修を導入している介護技法「ユマニチュード」の最も重要な基本は、「立って歩く」ことにある。認知能力の低下や寝たきりを防ぐ目的に加え、「立って歩く」ことは人間の自由の根本であるからだ。だが、慢性的な人手不足や低賃金労働に加え、「現場の負担が増すだけ」「転倒のリスクを誰がとるのか」というスタッフの反発を招き、離職は止まらず、経営側の理解も得られない。離職や欠勤の穴も自ら埋めるマリー=ルーは過労状態で、施設内の理解者にもバーンアウトを心配されている。
だが、マリー=ルーは偶然、公園で自閉症の少年を保護したことから、真理という日本人の演出家に出会う。真理は、俳優の吾朗による一人芝居の演出を手掛けており、言葉でコミュニケーションを取ることが難しい少年は、吾朗の孫の智樹だった。劇中劇として上演される吾朗の一人芝居は、イタリアで精神病院を廃止した精神科医フランコ・バザーリアが主題。家族を殺してしまった精神病患者は隔離すべきという非難に対するモノローグが展開される。「自分を殺すか、自分を閉じ込めるものを殺すか」「家族や社会全体が精神病患者を拒絶するなら、何度でも繰り返される」「狂気は我々一人ひとりに内在している」「近くで見たら、誰もまともではない」「精神病院の扉だけではなく、我々が開くのは、この世界のもうひとつの可能性だ」「内と外のすべてを混ぜ合わせてやる!」。椅子がなぎ倒され、乱雑に積み上げられ、制度と意識の「破壊と創造」が示唆される。椅子の倒れる音、モノローグの熱量に触発され、智樹が舞台上に乱入してくる。客席に配られた打楽器が鳴らされ、舞台に応答する……。
終演後、観客との対話の時間で真理と言葉を交わしたマリー=ルーは、同じ名前をもつ自分たちは、それぞれ巨大なものと闘っていると直感し、二人は急速に距離を縮めていく。だが真理は、余命わずかと宣告された末期ガン患者だった。死へ向かう残された時間で、どこまでお互いを知り、互いに何ができるのか。物語の後半は、二人の深い交流が、絶望的な状況を転機に反転させ、「不可能を可能にする」さまを描いていく。
3時間16分という長尺をまったく感じさせず、ドキュメンタリーであるかのようにも感じてしまうが、まごうことなきフィクションである。その証左が、要所で挿入される反復構造だ。前半と終盤で、天からの啓示のようにマリー=ルーたちの額に落ちる鳥の糞。中盤と後半で繰り返される「子守歌」。そして作中、場所を変えて二度上演される劇中劇。
本作が「介護とケアと尊厳」の物語に留まらないのは、マリー=ルーが何と闘っているのかをクリアにするため、資本主義の本質について真理が行なうレクチャーだ。マリー=ルーは日本に留学して「少子高齢化社会は資本主義の発展の必然である」という修論を書いたのだが、それを聞いた真理は、介護施設の一室に置かれたホワイトボードを借りて即興的なレクチャーを始める。「演劇は一人の俳優と一人の観客でも成り立つ」という真理自身の言葉が示すように、それは、マリー=ルーというたった一人の観客(そして潜在的にはすべての映画の観客)に向けられたレクチャー・パフォーマンスであるといえる。
資本主義は「今、ここ」がうまくいっているように見せかけるシステムであり、負債は次世代へ先送りされる。「今、ここ」とは、消費者と労働者、商品が集中する都市であり、「今、ここ」の繁栄を維持するために、資本主義は絶えず「外部」を発見し、搾取し続けねばならない。「外部」とは、地方、グローバルサウス、貧困層、そして資源の供給地とゴミの投棄場所である「自然」である。だが自然の処理能力が限界を超えたとき、浸食され尽くした「外部」の代わりに、新たな「外部」が再発見されねばならない。資本主義は労働者が健康な身体を維持できるだけの賃金を支払うが、私たちにとって最も身近な自然である「身体」が資本主義に取り込まれ、本来は疲弊した身体の回復に充てられるべき私的な時間が切り売りされていく。医療技術の発展が長寿化をもたらす一方、ケアや(賃金を支払われない)再生産労働が軽視される結果、若者が減る。また、新たな「外部」を一時的に成立させるのが戦争だ。民主主義は資本主義の基盤に成り立つため、リベラルな政党は都市部でしかもはや成立できない。資本主義とは、本質的に、自分自身を食い尽くす自己破壊的なシステムである……。
ここには、資本主義の病理化について、末期ガン患者がレクチャーするというメタ構造がある。レクチャーを聴くマリー=ルー自身もまた、介護医療の市場経済化のなかで疲弊し、体からのサインを無視して働かせる資本主義に飲み込まれた労働者である。だが、それぞれが絶望的な状況のなかで、互いが互いをケアし合うことはどう可能なのか。明晰な思考とともに、本作はこの問いを抵抗としての実践へと開いていく。マリー=ルーと真理それぞれがもつ「知としての技術」を贈与的に交換する関係性もまた、反復される。一度目は、資本主義の病理化についての真理のレクチャーと、それに応答するような、マリー=ルーによるユマニチュードの解説と実演。そして二度目は、真理への緩和ケアの提供と、レジデンス・アーティストとして真理が施設で実践するワークショップと演劇の上演だ。こうした贈与的関係性もまた、資本主義経済に対する抵抗として営まれる。
施設の中庭で真理が入居者たちと行なうワークショップは、「立って歩く」ことを重視するユマニチュードの実践でもあり、「触れる」ことを通じて感覚を解放していく。(介護士を挟んで)手をつないで一列になり、目を閉じて一歩ずつ歩く。裸足の足裏に感じる芝生のチクチクとした刺激。目を開くと頭上に飛び込んでくる葉の緑。寝そべって互いの足裏をマッサージし合うワークショップは、ダンサー・振付家の砂連尾理の『猿とモルターレ』の重要なシーンから借りたものだ(砂連尾自身、介護施設で高齢者と「とつとつダンス」の実践を行なっており、過去の濱口作品『不気味なものの肌に触れる』や『ハッピーアワー』でも、「劇中ワークショップ指導」として参加している)。
そして、一度目はブラックボックスの劇場で、二度目は明るい中庭で二度繰り返される劇中劇。ふらふらと歩き出した入居者の老人の手を智樹が取り、舞台に乱入して二人とも転倒するというハプニングが起きる。しかし、「空中に突き出された足」を見た入居者たちが「ワークショップの時間が始まった」と反応し、群がって集団の足裏マッサージが始まる。「内と外のすべてを混ぜ合わせてやる!」という吾朗の台詞のように、文字通り、客席と舞台、個と集団の境界が混ざり合う。
「中庭」は、半分閉じて、半ば開かれている。あるスタッフが語るように、この施設はかつて精神病院であり、中庭はその名残であるという。建物の内と外。舞台と客席の境界。言葉によるコミュニケーションが成立する者と難しい者(認知症、自閉症、非ネイティブ話者)。資本主義の内部と外部。本作では、資本主義という病理的構造をどうケアするかという問いが、「舞台/客席」「建物の内部/外部」という境界と重ね合わせて「上演」されている。したがって二度目の舞台は、必然的に「中庭」で上演されねばならなかったのだ。
「もっと話したい」「まだあなたのことを何も知らない」というマリー=ルーと真理の会話が交わされるのは、いつも夜の暗闇だ。だが会話が終わると、明け方の空が映る。病理的な構造との「闘い」の暗闇のなかにいるが、希望を予感させるカットだ。「認知症高齢者の手を握ると、弱くても命の火が燃えていることがわかる」とスタッフたちに語りかけるマリー=ルー。物語の終盤は、喪失を抱えながらも、消耗したマリー=ルーの身体を回復させる穏やかな眠りと、入居者らの命の力を呼び戻すための取り組みを映し出す。施設の食堂を、入居者が店員として働くカフェにし、家族や地域住民、介護に関心のある人へ開くための回路にするというアイデアが実現する。トレーを持ってゆっくり配膳する入居者たち。「効率性」「生産性」を求める資本主義社会に対する問い直しと、病んだ構造自体の回復への希求がここに重ねられている。
鑑賞日:2026/09/02(水)
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