『声なき声のドローイング:スキャン画像』2026[© Shu Yonezawa, Courtesy of SNOW Contemporary]

会期:2026/07/17~2026/09/05
会場:SNOW Contemporary[東京都]
公式サイト:http://snowcontemporary.com/exhibition/202607.html

(前編から)

ステートメントには続けて「彩度は低く細かな色相の差異で描いたのはキャラクターと捉えるには薄く複雑な声未満の存在であ」ったと書かれている。米澤は以前から、キャラクターの「声」に関心を寄せてきた。実際、キャラクターのアイデンティティを規定するうえで声はイメージと同等以上に重要な役割を果たしているだろう。しかし米澤が声に見出しているのは、もっと広い可能性であるようにも思われる──アニマとキャラクターのあいだを自由に往還する現象としての可能性を。

そもそも“anima”が「魂」と同時に「息」や「風」を意味する語であったことを思い出そう。 神が息を吹き込むこと ( インスピレーション ) によって事物はアニメートされる。世界を巡る空気の流れが振動としてあらわれたものが声だと考えるなら、それはまさにアニマをもっとも色濃く反映した現象だと言えるだろう。無論、この魂-呼吸-声といった直線的な繋がりは、あくまでも西欧的な生命観にもとづくものであることに注意しなければならない。例えばアーティストの布施琳太郎は、米澤が描く「オバケ」状のキャラクターにおいてしばしば口が身体(構造)から遊離していることを指摘し、ここにアニマと声のより自由な関係の可能性を見ている★3。すなわち、ヤツメウナギなどに代表される無顎類が摂食のための口と呼吸のための鰓を完全に独立して発達させたように、米澤のキャラクター表現は、私たちが生物学的な人体構造によって規定されているがゆえに硬直してしまったアニマとの関係性を、いまひとたびときほぐすことを試みているのではないか、と★4。

自由に泳ぎ回る口があらゆる場所で開き、声を発する。もはやこのとき、「口」を画面内に描かれた身体パーツのみに限定する理由はない。むしろ米澤作品はつねに「口」そのものとともに存在してきたとも言えるだろう——フレームという口として。キャンバス、トレーシングペーパー、ビニール、モニタ、スクリーン——手法や素材の別によらず、米澤の作品は基本的に矩形の画面を前提としているように見える。特に本展では、これまでビニール自体をピンで固定する形式を主としてきた「アニマの通り跡」シリーズがアルミフレームに張られ、壁や空中に吊られている。また、映像を主とするインスタレーション的な作品《別の海としての身体》では、小型のモニタが半透明のアクリルケースによってさらにフレーミングされ、スピーカー——もっとも象徴的な機械の口——だけが隣接する壁面にさまよい出ている。とはいえ、アニメーション表現を背景に持つ米澤が矩形のフレームを意識するのは当然のことであり、そうした強固な枠があればこそ、不定形に蠢くアニマたちの流出もまた強調されるのだ、と言うことはできるだろう。ではその上で、あらゆる場所に開かれるフレームを「口」とみなすことはどんな意味を持つのか。


[撮影:木奥惠三]

そもそも人間の発生に限ってみても、口とは「顔に開いた穴」などではない。妊娠初期にあたる8週から12週ごろ、胎児の顔部では、周囲から伸び上がってきた突起が中央で癒合することによって口唇や口蓋がつくられ、口の輪郭が完成する。口とはほんらい、開くものではなく、意図的に閉じ損なったものなのだ。最初はすべてが穴であり、その穴が埋められていく過程で残された残余としてのみ、口は定義しうる。ここで、白川静が「口」という漢字の成り立ちについて唱えた次のような説が思い出される。いわく、口は人間の開いた口唇ではなく、祝詞をおさめる器(サイ)のかたちに由来するのだと。学問的な信憑性に疑問はあるものの、解釈としては興味深い。すなわち、口を漢字練習帳のマス目のような「文字の到来を待つ空白」そのものの象形として捉えるなら、それは「いまだ閉じられていないこと」それ自体を意味する。そしてその「閉じられていない」という事実こそが、声を召喚する。口が声を発するのではない。むしろあらかじめ世界に満ちているそれが、たまたま口が見出されたときに受信され、声としてあらわれるのだ。この意味において、世界のあちこちに口を見出すことはそのまま声を見出すことであり、米澤が言うところの「アニメーション」概念のもっとも素朴なかたちであるように思える★5。

最後に、広義の「口」の観点から、米澤の代表的なモチーフである目についても考えておこう。目の本質を眼球ではなく、それが収まる眼窩やまぶたといった立体的なフレームに置いてみると、そこにはひとつの水槽のようなものが浮かび上がってくる。眼球というアニマが泳ぐ、涙で満たされた水槽が。口が開閉するように、目はまばたきを行なう。まばたきは視界を寸断して不完全な視覚をつくり出すが、同時に眼球を涙液でコーティングし、目を開き続けることで生じる像のブレを修正してもいる。つまり、視覚をいくつものフレームに分割する行為によってこそ、眼球はかろうじて息をしている。まばたきとは、目に許されたただひとつの呼吸であり、同時にこの器官が「閉じ損ねている」ことの証でもある。では果たして、完全な視界=ずっと目を開き続ける視界などというものはありえるのだろうか。もしありえるのならばそのとき、一体なにが見えるのだろうか。


[撮影:木奥惠三]

ここまでの議論をふまえると、本展は展示室に開いた口から流れ込んだアニマたちが、室内のあちらこちらに思い思いの像をあらわしていくひとつの現象として捉えられる——その構造はさながら、写真機の原型としての「 暗い部屋 ( カメラ・オブスキュラ ) 」を思わせる。しかし冒頭で述べたとおり、本展はむしろ光で満たされた「明るい部屋」としてあらわれている。ただしそれは、事物の輪郭を切り分ける乾いた光ではなく、目を凝らすほどにそのイメージを滲ませる湿った光、水底で感じる明るさに近い。波間でゆらぎ、水を透過して散乱した光が絶えず私たちの目を幻惑する。言葉遊びを許すなら「 水妖の部屋 ( カメラ・オブ・スキュラ ) 」とでも言えようか。水妖≒アニマは気ままに水と光の中に溶けてまわり、そのゆらめきのあいだに身を翻す。あちこちで口が開いては何ごとかをつぶやき、また消え去っていく。私の口もそれにつられて開くのだが、ごぼごぼと水音を立てるばかりで上手く喋れない。いや、そこでは私の口を借りて水妖たちの声があらわれているのだ。私がまだその声を捉えることができないというだけで。ぱくぱくと単調に開閉を繰り返すだけの口の動きは、再生か逆再生かを区別できない。それゆえに、時間は渦を巻いてほどけていく。水に包まれた私の目はまばたきを忘れ、ただ見開かれている。

★3──布施琳太郎「無顎類のアニマ:キャラクターアートの終焉の後で」(米澤柊『泳ぐ目たちのアーカイヴ』所収、2026)
★4──私たち人間を思わせる身体パーツや骨格構造をところどころに有しつつも、中心性は不確かで、不定形に広がっている──こうした米澤作品におけるキャラクターの比喩として、私がまっさきに思いついたのはホヤであった。ホヤは尾索動物に属し、私たち脊椎動物と比較的近縁の生物である。オタマジャクシ型の幼生時は脳や脊索を備え、遊泳しながら住処を探す。この時点では摂食を行なわないため口はなく(眼点や嗅覚細胞の原型は存在するものの)器官としての目や鼻もない。そして無事、岩などを見つけるとそこに固着し、よく知られたホヤの形になる。脳や脊索、眼点を失う代わりに大きな口が開き、水を漉し取って栄養を摂取するだけの存在となる。いわばホヤは、脊椎動物的な身体構造を幼生から成体までのタイムスケールのなかに散在させている生物として捉えられる。言い換えれば、ホヤを時間的に再構成したものとして人間を考えることもできるだろう。
★5──ここまで見てきた要素をまとめると、米澤の作品は、暗黙化した身体感覚/構造を再構成することを通じて、私たちが不可知化してしまったアニマを汲み上げようとしているのだといえる。そこには目(視覚)や声(聴覚)に加え、手指のモチーフを通じた触覚的なイメージや、米澤が「イメージの骨/アニメーションの骨」といった言い回しで示唆する、抽象的な身体感覚なども含まれている。しかし、嗅覚的な要素に限ってはあまり読み取れない。そもそも、米澤の描くキャラクター表象において鼻の存在感はきわめて希薄だ。横顔においてわずかに隆起らしきものが確認できるが、正面顔では鼻、とりわけ鼻孔はほぼ捨象されている。鼻は脊椎動物に特有の器官であり、もともと大脳は嗅覚情報処理のために大きく発達したのだとも言われている。

鑑賞日:2026/07/25(土)