
『声なき声のドローイング:スキャン画像』2026[© Shu Yonezawa, Courtesy of SNOW Contemporary]
会期:2026/07/17~2026/09/05
会場:SNOW Contemporary[東京都]
公式サイト:http://snowcontemporary.com/exhibition/202607.html
「声なき声のキャラクター」は米澤柊による個展である。展示作品はすべて2026年の新作で、なかでも米澤がここ一年ほど取り組んでいるという油絵作品が全体の七割近くを占めている。画面はどれも彩度の低い色が細かく重ねられることで構成されており、その茫洋とした色彩の渦を眺めるうちに、人間めいた輪郭や骨格、目、手の残像といったものたちの印象がかろうじて浮かび上がってくる。これは直感的には、白飛びした視界を思わせた。眠りから醒めたときに誰しもが味わうように、暗がりから急に光に満ちた空間へと晒された視界は明順応が間に合わず白く飽和する。そしてそこから徐々に、事物の輪郭や色彩を取り戻していく。しかし本展において、その視界が完全に明瞭になることはない。作品のあいだを行き交うにしたがい、眼球を包む涙液そのものが白濁していくかのごとく、乳白色の闇がゆるやかに立ち込める。六本木の雑居ビルの薄暗がりを切り開いてあらわれる端正なホワイトキューブともあいまって、本展はどこまでも明るく、しかし──それゆえに──知覚の不完全性を露わにしている。では、そんな淡い光の中に漂っているものたちとは一体なんなのだろうか。

[撮影:木奥惠三]
繰り返し述べられてきた内容のため簡潔に触れるにとどめるが、多くの手法やメディウムを横断した米澤の制作には「アニマ(魂・生命性)」への関心が通底しており、とりわけ特徴的なのが「オバケ」への着目である。「オバケ」とはアニメーション制作において、あるフレームとフレームのあいだの動きを補完し、物体の動きをより活き活きとみせるためにあえて(静止画としては)崩れた描写を行なう技術を指す。実際、現時点における米澤作品のもっとも一般的なイメージとは、身体がほどけて散らばりつつあるかのような「オバケ」としてのキャラクターたちの図像だろう。
画面内の事物を
画面内におけるキャラクターの自律性が担保されるためには、無数の崩れかけた非-自律的な
このようにアニメーションをひとつの基点とする米澤の作品群は、その手法にかかわらず複雑な層性を帯びてきた。例えば米澤の代表的なシリーズである「オバケのスクリーンショット」では、現実の風景写真のなかに「オバケ」としてのキャラクターたちが描き込まれている。レイヤーの集合としてのデジタルペイントが現実の風景に重ね合わされ、しかもそれは連続する無数のフレームの一瞬を捉えた「スクリーンショット」として位置付けられる。こうした時間的・空間的な複層性のなかをたゆたう米澤の作品は、必然的に「いま・ここ」からの遊離を予感させる。イメージは確かに目の前に存在するはずなのに、どこかヴェールに包まれているような捉えどころのなさがついてまわる。それは失われたものへの憧憬なのか、来たるべきものの予兆なのか──無論、どちらでもありうる。先に述べたとおり、米澤が紡ごうとする非線形の時間的秩序のなかにおいて、過去・現在・未来は等価に立ち並んでいるのだから★1。アニマはつねに、現前と予感のあいだで見え隠れする。
この観点において、描画面をレイヤー状に切り分けるためのアナログな技術として油絵を位置付けることも可能だろう。しかし当然ながら、油絵においては絵具の乾燥状態が層を決定する。乾ききる前に次のストロークを置けば下の層は物理的に巻き込まれ、層と層の境界——それは時間的秩序そのものと言ってもいい——が相互に浸潤可能となる(もちろん、実際に米澤がそのような描法を用いたかどうかは問題ではない)。ここで層を決定しているのは描き手の意志ではなく、絵具の乾燥速度、すなわちメディウムに固有の時間である。フレームとフレームを繋ぐフラットな時間のあいだから、「オバケ」が棲まう異なる時間が這い出していったように、ここでは層と層のあいだにメディウム由来の液体的な時間感覚が流れ込んでいる★2。

[撮影:斉藤桃加]
本展のステートメント冒頭には「かたちを選んで描こうとするほど選ばなかったものを切りすててしまうようで息苦しく、絵は段々と白くなっていった」とある。幾重にもゆらぎながら仄かに浮かび上がる油彩のイメージは、さまざまな連想を喚起する。例えば長時間露光による写真。そこでは被写体が動くことによって輪郭がブレ、イメージは次第に発散へと向かっていく。あるいは拡散モデルにおける画像生成(を開始まもなく停止させたようす)。ここでは反対に、ブレの極点とでもいうべきノイズのなかに任意の輪郭が幻視され、イメージが浮かび上がってくる。輪郭が浮かび上がる前のさざめきと、輪郭が溶け去っていった後の残響。米澤の画面が置かれているのは、まさにその異なる二つのベクトルが調停され、判定が無化される地点/時点である。
米澤は「世界が意味になる前の複雑さについて考えたい」という。しかしここまで見てきたように「ほんらいの複雑な世界が、人間の手による記号的分節によって単純化されてしまう」という単線的な因果とは別の場所に向けてこそ、米澤の作品はひらかれているように思える。そういえば、私が米澤の油絵の画面からはじめに想起したもの。それは写真でもAIでもなく、ほとんど面影だけになってしまった記憶のことであった。限界まで薄れ抽象化された記憶は、それがどこに属するのかをもはや判別できず、ゆえに時間のあいだを自由に飛び回り、私たちの認識に影響を及ぼして回る。はじめて見たはずのものをなぜか懐かしく思うこと。反対に、何度も見たはずのものをなぜだか瑞々しく感じること。そうした認識の脱臼ともいうべき瞬間を真に受けて生き続けることが、可能であるように思えるのだ。米澤の作品世界においてならば。
★1──個人的にここで想起するのは小林泰三「酔歩する男」である。作中では、一風変わったタイムトラベルの方法が描かれる。登場人物は「時間とは本来非連続なものであり、そこに連続性を見出しているのは私たちの脳である」との仮説を示し、実際に脳内の時間感覚を司る部位を破壊することで、さまざまな時間点をランダムに飛び回る存在となる。それは過去と未来が等しく可能性のなかに溶け込んだ非線形の人生であり、そこには始まりも終わりもありえない。
★2──ここで思い出すのは、ジェフ・ウォールによるエッセイ「Photography and Liquid Intelligence」(1989)である。ウォールは、写真を織りなす光学と液体の緊張関係に焦点を当てた。つまりカメラという緻密な機械が生産する写真は、最終的に現像という液体の不確定性に晒されることで顕現するのであり、ウォールはここに乾いた近代的知性のオルタナティブとしての湿った知性、液体的知性を見るのである。エッセイはこの液体的知性をソラリスの海に喩えることで結ばれる。観測者の記憶からイメージを汲み出し反射させるその海には、結ばれる前のあらゆるイメージの素がたゆたいながら、こちらを見返しているわけだ。写真とは、現像液に潜む無数のイメージのひとつをたまさか拾い上げたものにすぎず、もう一度現像し直せばそこにはまったく違ったイメージが掬い取られるのかもしれない。フィルムを現像液に浸し続ければ、その還元力はやがて感光していない臭化銀にまで至り、あらゆるイメージを黒く塗りつぶしていく。それは白く飽和した油彩のイメージと対になるものだろう。
(後編へ)
鑑賞日:2026/07/25(土)