3月・4月という年度替りの時期になると、全国の美術館から展覧会図録や活動報告書が送られてきます。それらに目を通すと、今年はとりわけ「美術館と学校との連携」をうたったものが多いような気がします。
日本の公立美術館は、その設置法「博物館法」の中で、明確に社会教育機関と位置づけられています。また当館のように地方公共団体の教育委員会所管機関となっている館も多数あります。教育委員会のもう一つの仕事は学校教育。ここにすでに社会教育・美術館と学校教育の近接はあらわれています。
直接的な要因としては、ここ数年の学校教育の方針変更が挙げられます。1999年の学習指導要領改訂では、図工・美術の授業で鑑賞教育の充実が唱えられました。さらに、2000年には「総合的学習の時間」設定、2002年には完全週休2日制スタートと、学校教育の枠組みが変化しています。最もこれら「ゆとり教育」は、内閣府の教育再生会議にて見直しの提言がなされていますが・・・・・・。
さらに昨今、学校の先生が教育普及担当学芸員や社会教育主事として美術館に配置されることが多くなってきました。彼らが、学校現場以来の問題意識と人脈によって連携事業を立ち上げるケースも多いようです。
「子どもたちに鑑賞教育を行なう」「美術館と学校が連携する」というタームに、異を唱えるつもりはありません。しかし重要なのは、なぜ・なんのために鑑賞教育を行ない学校と連携するのかという点ではないでしょうか。「豊かな感性を育むため」と言われますが、「感性」とは何者なのか、そしてなぜ「感性」が必要なのか、問われる機会は少ないようです。
「感性」というつかみ所のない言葉を用いるから、話が見えづらくなるのかもしれません。美術館の最大の強みは、なによりも作品をコレクションしそれを展示すること。美術作品は、自分たちと同じ「人間」が、もてる限りのエネルギーと時間を費やして生み出したものです。その作品と間近に接し、同級生たちとさまざまな言葉で作品について語る。それは、子どもたちに他者への理解と共生、リスペクトとコミュニケーション、大げさに言えば社会に出てからのサバイバビリティを身に付けることにつながります。感性を磨いたり知識を得るのは、その後の個人的な営巣なのかもしれません。
これまで美術館は、多くの場合単独で、子どもたちを対象にした事業を行なってきました。そこに参加するのは、もとから美術館に興味がある子どもたち、より正確には美術館に興味がある「親を持つ」子どもたちです。彼らが大人になり、また自分の子どもを連れて美術館に来る。このサイクルは、美術館経営の面で理想的といえますが、一方で美術館に足を運ぶ層の固定化も招きかねません。これに対して学校は、一部の進学校の存在はあるものの、今はまだ比較的平等に教育の機会を担保する機関です。この学校と手を結ぶことで、美術館に来る機会をより広範な子どもたちに提供できるわけです。むろん、一度美術館に来たからといって、その子どもたちが直ちに美術館のファンになるわけではありません。しかし、一度でも来たことがあったなら、美術館の敷居は確実に低く感じられることでしょう。
ということで前置きが長くなりましたが、今年度私が勤務する北海道立近代美術館も、学校との連携事業に本格的に取り組むことになりました。当館は今年で開館30周年。開館当初より子どもたちを対象とした教育普及活動を行ない、一応のノウハウも蓄積してきました。しかしこれまで学校との関わりは、たまに授業を受け入れる程度と、他館の活動に比べて必ずしも積極的とはいえませんでした。それを今年度は札幌市内の小学校6校中学校2校、併せて8校と手を携えて、学校と美術館双方を舞台にした授業を組み上げていきます。対象となる学年は、小学校1年生から中学校3年生までと広範囲にわたり、年齢に合わせた深度の異なるプログラムを用意しなければなりません。学校に学芸員が赴いての出前授業、所蔵作品をもとにした鑑賞と制作、学校にアーティストを派遣してのワークショップとその完成作品の美術館での展示・・・・・・。授業の形態や内容については、今後先生方と話し合いを重ねていくことになりますが、この秋に当館で開催する開館30周年記念展「Born in HOKKAIDO 大地に実る、人とアート」に照準をあわせて準備をすすめています。
最後に、この何回かの美術館と学校と打ち合わせる中で浮き上がってきた問題点について。連携々々と盛んに言われますが、とりわけ学校の現場ではまだまだ先生の個人的な努力によっています。一人の先生がその割り当てられた授業時間内でプログラムを組めるのならどうぞご随意に、というのが学校側の雰囲気。美術館と学校の連携が機関同士の結びつきにはならず、個人的なコネクションに頼るシーンが多いようです。また、学校の授業枠で行なうがために、どうしても評価の問題がつきまとうという声も聞きました。
「連携」は、それ自体文句のつけようのないことですが、他の物事と同様、その中身となると多くの問題を含んでいます。
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