建築における日本近代の終わり
丹下健三が亡くなった。私は最後の卒論生ではあったが、愛弟子どころか、その期間中に先生は三度くらいしか大学に出てこられず、しかも締め切りの一カ月くらい前には海外出張に出かけられて、あとはよろしく、という感じだった。おそらく名前も顔も覚えてもらえなかったと思うので、彼がいたからこそ建築学科でなく都市工学科に進んだというようなことはあるにせよ、師弟関係というには面映い。従って葬儀にも参列しなかったくらいで、弟子としてこのことを語るには至って不適任である。しかし、建築家丹下健三への思い入れは少なからずある。もうすぐ出ることになっている本があるのだが、それは日本の国民建築家としての丹下健三に最後のフォーカスを併せていくという態のものである。本のあとがきも送ってしまった今にそのご当人が逝去されたというのも私には暗合めいて見えてしまう。
聞く所では、葬儀では、こちらは間違いなく私の師であった磯崎新が、「愛弟子」ならぬ「不肖の弟子」として送辞を読んだらしい。これは単に磯崎らしい韜晦というには留まらないだろう。丹下門下は、もはや皆不肖の弟子たらざるを得ないからだ。それは国民建築家として丹下が体現した建築における日本の近代が終わったということを意味している。丹下こそは日本の近代なのだという命題に異論はないだろうが、であれば、多少とも時代の変化に敏感な建築家であれば、そのままのスタンス(師の教え)をキープすることは不可能であること、従ってそれを覆すことでしか営みをつづけられないことは理解されていなくてはならない。
実をいえば、それは今回の逝去で終わったわけではない。疾うに、私の考えでは1970年の、丹下チームが会場計画とその中心施設たる野心的な大屋根をデザインした大阪万博で終わったのだ。あれは日本で最初の万博だったが、はじまりではなく終わりを記すものだった。それ以来の一種博である愛知博の開幕が今度の逝去と重なったのも、大阪より後の万博はもはや意味を失った影のような反復でしかないと思っている私にとって暗合めいたことだった。
この万博の顛末は、実のところ、残念ながら建築家としての丹下健三の命運とも重なる。1970年以降、丹下は「世界のタンゲ」として海外に雄飛して次々と作品をものした。単純に床の量だけ比べれば、70年以前と以後とでは桁がひとつ違うのではないかと思うが、重要な作品はない。先頃もっと長命を全うして亡くなったフィリップ・ジョンソンに、丹下は親しみというか同格の大家としてのステータスを感じていたというが、ジョンソンは最初から最後までファルスの作家、あるいはアジテーターにすぎなかった。似ていたのは万博以降の丹下だけで、それ以前の丹下とジョンソンとでは比較にならない。もっと年長で良ければ、20世紀後半を代表する大建築家としてはルイス・カーンがいるが、カーンと丹下では建築家としてのあり方が随分違う。個別の作品というレヴェルでは、カーンは丹下に劣らないどころか、時代を超えて古びない力の点では優っているとすらいえるかもしれないが、彼は特異で例外的な、いわば時代のニッチに入った建築家だった。彼が背負っていたのはアメリカの近代でも何でもない。カーンという個人でしかない。その弟子たちはその後も不肖でなくたり得たかもしれないが(ヴェンチューリがそれにあたるのかどうか私には分からない)、その圏域は広くはない。カーンをアメリカの国民的建築家とは、如何なる意味においてもいい得ない(それはやはりライトになるのだろう)。
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建築家としての一貫性
私の新著はほぼ終戦までを扱った本で、従って戦後に地歩を確立した丹下は正確には主役ではない。もともと代表的な作家や作品を論じるという本ではないが、それにしても彼の戦後の傑作群はエピローグで触れられているにすぎない。丹下が戦中に行なわれた二つのコンペに連勝して、殆ど無名の存在から一躍彗星のようなデビューを飾ったことは良く知られている。しかし、そのどちらもが日本のアジアへの侵出に直結するプロジェクトであったが故に、戦後の丹下の全盛時代の理論的伴走者であった川添登にして殆ど戦犯ものと形容したことが知られている。同じスキームを軍国主義的な侵略とは対極の広島平和公園のコンペに用いて勝利したことで、戦後民主主義への「転向」を行なったオポチュニストと目されたわけだ。戦後日本建築の疑いを容れないチャンピオンであった丹下に違和感をもった人々は、大なり小なりこの部分にひっかかりを感じていたのではないか(そのルサンチマンは、前川國男に時代の良心の体現者を見させたが、私はこの構図はかなり疑っている)?
しかし、私にはそこに一貫性──政治的なそれではない──をむしろ感じるし、それが丹下をして「国民建築家」にしたのだと考えている。これは国民を代表したとか、国民的な人気があったとか、いわんや国民に最も貢献したとかいうことではない。この「国民」とは、戦後民主主義の主体としてのそれではない。国民国家として日本が近代化していく過程が、それをつくりあげた(英語でいえばfabricate──ほぼ虚構化──したといってもいい)ものが「国民」である。戦後民主主義の主体とは、その左翼的な位置づけにおいてむしろ人民ともいうべきだが、「国民」は、英語のnationにせよ、「国」──民主的であろうと専制的であろうと──を背負っている。「国」によってつくられ、かつそれをつくりあげる主体なのだ。
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建築的象徴の創出
ナショナリズムは常に何らかの囲い込みを行なうことで成立する、文化であろうと領土であろうと。明治以降の「日本」という国民国家は、各々の分野でそれを体現するものを必要とした。実際にはそれらの総体を介して「日本」が虚構されたのだが、その渦中にあった人々は、それ、つまりナショナル・アイデンティティを見いだすべく奮闘した。建築の分野でまずつくり出されたのが歴史的建築というカテゴリーだった。詳論する余裕はないが、そもそも「建築」というカテゴリー自体が幕末以前にはなかった。「日本」はそうではないが、多くは対外的な意識が介在する際に用いられていたのであって、現在の我々にとってそうであるように当然のカテゴリーなどではなかった。だから歴史的な「日本建築」とは──個々の実体というより概念としては──ほぼ明治以降の発明=虚構化だといっても良いのだ。しかし天皇制という古制の復活であると同時に、近代国家としての体裁を整えて行くことを課題とした明治以降の日本国家において、伝統のみにアイデンティティを見いだすわけにはいかない。西洋の近代的な技術や材料、様式、概念などを導入しながら、日本の建築家たちは己の文化的アイデンティティを体現=創出することを同時に求められた。私がいう「国民建築家」とはこうした要請に答えた人物であり、それを丹下以外の建築家に求めることはできない。彼が大日本帝国においても、戦後の民主日本においてもその建築的象徴をつくり得た、それも表面の意匠の変更のみで基本的な構想に変更はなくなし得た、という事実は、彼の「国民建築家」としての資質なのだ。1970年以降、そうした社会的プログラムはほぼ喪失した。ポストモダンとはそうした時代なのだ。それ以降の丹下が、ポストモダンに出口はないといいながらも、つくった日本のポストモダン建築の代表たる新都庁舎は、作品としては格段にすぐれていた旧都庁舎よりも、親しみにせよ反発(タックスタワー?)にせよ、一般の「都民」の認知度は遥かに高かっただろうが、一度目は悲劇として登場したものが二度目はファルスとして登場したということ以外ではない。
近代的なテクノロジーと日本的な感性の奇跡的な統合を果たしたという点で、自他ともに許す最高傑作である代々木の体育館は、今でもその傍を通りかかる度に、建築家のはしくれである私に長嘆息をつかせる建物だが、当時このプロジェクトに構造設計チームの一員として参加された川口衛先生と話をした折に、今はこんなプロジェクトはつくれませんねぇ(技術的だけならもっと進歩しているにせよ)、といった私に、先生は時代が違います、あれは国家の総力をあげてつくったようなプロジェクトでしたからといっておられた。その前に我々は最近の「評判作」を批判的に論じていたのだが、この会話は建築家丹下健三の日本の建築(いや世界の建築)における位置を端的にいい当てているのではないか。 |