なぜ国際展は数年おきに開かれるのか?
国際展というのはなぜかビエンナーレやトリエンナーレ、つまり2年か3年に1度の開催が多い。現在、世界中で開かれている国際展は50を超えるといわれているが、大ざっぱにいえば、そのうちのおそらく7〜8割はビエンナーレで、残りの大半がトリエンナーレ。あとは5年に1度とか10年に1度とか例外的にインターバルの長い国際展があり、逆に映画祭や音楽祭のように毎年開催というのはあまり聞いたことがない。
なぜ国際展は毎年やらないのか? それはおそらく、映画祭や音楽祭は数日(1日だけのこともある)しか開かれない1回限りのイベントであるのに対し、国際展は基本的に美術作品という「もの」を展示する場なので(最近は映像をはじめ非物質的作品も多いが)、2〜3カ月あるいはそれ以上の長期にわたる開催が可能だからだろう。当然それなりの準備期間も必要だし、毎年などやってられないのだ。
もうひとつ、毎回同じ顔ぶれが出てたり似たような傾向しか見られないのでは飽きられてしまうから、ある程度間隔を置いて前回との違いを際立たせる必要がある。また、間隔が空けば空くほど人々の期待感が増し、ひいては国際展の権威が高められるという効果もある。オリンピックやサッカーのワールドカップが4年に1度しか開かれないのはそのためだ。毎年やったらさぞかし喜ばれるだろうし、確実にもうかるはずなのに。
インターバルが長いほど期待が高まり、国際展の権威も増すというのは、国際展の双璧ともいわれるヴェネツィア・ビエンナーレとドクメンタを比べてみればわかる。このふたつは開催方式が異なり一概に比較することはできないけれど、展覧会そのものの評価としては5年ごとのドクメンタのほうが明らかに高い。それは、マンネリ気味のヴェネツィアに比べて、ドクメンタには5年間待たせただけの独自の成果や新鮮さが感じられるからだろう。
さらに、忘れたころにやってくる10年に1度のミュンスター彫刻プロジェクトとなると、もはや別格だ。これはミュンスター市内の公園や路上、民家などに作品を点在させ、観客は作品のありかを示した地図を片手に探し歩くという方式。1977年に始まり、まだ3回しか開かれていない。なぜ10年に1度なのか?
ミュンスターは市制1200年以上の歴史を誇る古都で、大聖堂や城館、緑豊かな公園など美しいたたずまいを残している。それだけに住人も保守的な人が多いという。そんな街にアートを根づかせるには長い時間をかけなければならない。そこで編み出されたのが、10年間隔で開催するオリエンテーリング形式の野外展示。しかも作品の約半数は撤去せずに残されるので、少しずつ街にアートが増えていくことになる。
なるほど、これなら住人の反発も最小限に抑えられるし、知らず知らずのうちにアートが街になじんでいくというわけ。「彫刻展」ではなく「彫刻プロジェクト」と銘打っているのも、一時的に作品を見せるのが目的なのではなく、このようにアートを根づかせ親しんでもらうことを目的とした長期計画であるからだろう。
10年という歳月はまた、社会情勢や美術動向の移り変わりを観測するにも十分な時間といえる。第1回の開かれた1977年は冷戦時代。美術もいまだミニマリズムやコンセプチュアリズムが支配するなか、ドナルド・ジャッドやヨゼフ・ボイスらが彫刻を出品した。第2回の1987年は旧ソ連のゴルバチョフがペレストロイカを進め、日本はバブルに突入したころ。リチャード・セラらの彫刻のほか、ダニエル・ビュレン、レベッカ・ホルンらのインスタレーションが話題を集めた。1997年の第3回のころはすでに冷戦構造が崩れ、各地で民族紛争が勃発していた時期。イリヤ・カバコフ、ハンス・ハーケらのメッセージ性の強いインスタレーションのほか、映像やプロジェクト型の作品も増え、いわゆる彫刻は影をひそめた。
個人的な話をすれば、筆者は第1回は見ていないが、第2回は会社をやめフリーランスになった独身時代に訪れ、第3回は結婚後、やや太めの妻を自転車に乗せて見てまわった。来年の第4回は、さらに重くなった妻と子供2人を抱えて見に行くハメになるかもしれない。その間に、観客は確実に20代から30代へ、30代から40代へと齢を重ね、ものの見方や考え方まで変わっていくのだ。 |
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「大地の芸術祭」のこれまでの歩み
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越後妻有アートトリエンナーレ、チラシ |
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ずいぶん引っぱってしまった。本題は現在開催中の越後妻有アートトリエンナーレ「大地の芸術祭」なのだが、それについて書こうにも筆者は7月23日のオープニングに日帰りしただけ。バスツアーには乗ったものの、見たのは旧作を除いて15点ほどだから、全体の1割にも満たない。なのに、その範囲内で過去2回と比べて気づいたことを書けというのだ。
たしかに気づいたことはあった。でなければ引き受けるか。先に長々とミュンスター彫刻プロジェクトについて書いたのも、単に越後妻有が手本にしたからというだけでなく、そのことに関連するからだ。
気づいた点というのは、越後妻有が、ミュンスターよりずっとサイクルの短い3年に1度の開催とはいえ、そして、まだ3回しか開かれてないというのに、ある意味でミュンスター以上に世の動きを反映している、というか、せざるをえない立場にあるということだ。
振り返ってみると、2000年の第1回では、6市町村(現在2市町に統合)にまたがる約760平方キロの広大な山間部を舞台に、世界32カ国から140人を超すアーティストが作品を点在させるという壮大なスケールが話題を呼んだ。肝腎の作品は、イリヤ・カバコフや田中信太郎の牧歌的彫刻、ダニエル・ビュレンや磯辺行久らのサイトスペシフィックなインスタレーションなど、パブリックアート的な作品が多かったように思う。作品空間に寝泊まりできるジェームズ・タレルの《光の館》、マリーナ・アブラモヴィッチの《夢の家》、廃校全体にインスタレーションした北山善夫の作品などは、第2回、3回の展開へとつながる先駆的試みといえるだろう。
2003年の第2回では早くも彫刻的またはパブリックアート的な作品は影をひそめ、建築的作品が目立った。これにはいくつかのパターンがあって、ひとつは古郡弘やジャン・ミシェル・アルベローラ、小沢剛ら家のかたちをした作品。ひとつはカサグランデ&リンターラ、たほりつこ、土屋公雄ら大地を造形化した土木工事的な作品。そしてもうひとつは、クリスチャン・ボルタンスキー、ジャネット・ローレンス、日比野克彦ら廃屋を活用した作品、などだ(ほかに純然たる建築作品もいくつか建てられた)。
このように建築的作品が増えたのは、広大な山野にパブリックアートを置いても自然にはかなわないし、なじまないという理由もあるだろう。だが、おそらく最大の理由は、これらの作品のいくつかが国や県の公共事業費から予算が下りているからにほかならない。つまりこれらは純然たる美術作品というより、公園や集会所といった機能をもった公共施設としてつくられているので、おのずと建築的な形態をとらざるをえないのだ。
そして今回である。繰り返すが、筆者は今回15点ほどしか目にしてない。だが、私の乗ったバスのツアーガイド(アートフロントの人)が気をきかせてくれて、限られた時間を重点的に目玉のひとつである「空家プロジェクト」に割いてくれた。よって、以下の話は空家プロジェクトに絞られる。 |
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廃墟化を食い止める「空家プロジェクト」
もともと越後妻有は高齢化・過疎化の進む地域なので空家が多く、なかには築100年を超す民家もあるそうだが、2年前の中越地震でさらに増えたという。こうした空家を建築家がリノベーションし、アーティストが作品を展開していく場にしようというのが空家プロジェクトだ。とはいえ、会期が終われば空家に戻ってしまうのではもとの木阿弥。そこで空家のオーナーを募り、芸術祭の終了後も別荘やセミナーハウスとして活用してもらう計画だ。
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クリスチャン・ボルタンスキー《旧東川小学校》 |
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代表的なものが、クリスチャン・ボルタンスキーが教室や講堂の空間全体をインスタレーションした旧東川小学校。ここは前回もボルタンスキーが作品を設置した廃校だが、今回はプロスペクターという建築家グループによる改装で美術館として再生し、作品の常設展示も可能になった。入口にはいちおうミュージアムショップもある。
また、日大芸術学部彫刻コースの有志が、空家の柱や壁や梁の表面を彫刻刀で丹念に削っていった《脱皮する家》は、タイトルどおり煤けた廃屋がひと皮むけてそれ自体が美術品に生まれ変わった見事な例だ。ちなみにこの家はオーナーが見つかった最初の例だという(アートフロントの古参社員が買ったそうだ)。
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《脱皮する家》 |
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この《脱皮する家》の近くには、かつて分校から味噌工場に変わったという廃屋があり、丸山純子による廃品の花が咲いていた。ほかにも、エルネスト・ネトと栗田宏一がその地域で採集してきた古道具や土を使ってインスタレーションした農家、集落の人たちの記憶をたどったユニット00や、人々の肖像を描いたヴィヴィアン・リースの作品が展示された廃校、ナン・フーバーが光のインスタレーションを展開し、李秀京が神仏像を置いた歯医者の民家にも立ち寄った。
もちろん、これが空家プロジェクトのすべてではないし、また、これまでどおりの野外彫刻的な作品もたくさんあるはずだ。だが、空家プロジェクトが第3回の特筆すべき新機軸であることは間違いない。
ここで越後妻有の3回の変遷をごく簡単に図式化してみると、野外彫刻→建築→空家、ということになろうか。第1回では作品がむき出しで青空の下にさらされたが、第2回では作品自体がシェルター化して建築的になり、第3回では空家を借りて展示したり、空家そのものを作品化する傾向が見られた。いいかえれば、第1回は作品が美術館から出て、第2回は作品そのものが美術館になり、第3回は既存の建築を美術館化したともいえなくはない。いずれにせよ、これらに共通するメッセージは「美術館はいらない」ということになるが、ここではそれ以上触れない。
驚くべきは、わずか3回、6年(9年ではない)あまりでこれだけの急進化をとげたという事実だ。いくらマンネリ化を避け、独自性を打ち出したいとしても、これでは急ぎすぎではないか。来年ようやく30年目を迎えるミュンスター彫刻プロジェクトに比べると、あまりに変化がめまぐるしい。ミュンスターは時代のいまをじっくりと映し出す鏡であったが、越後妻有はすでに美術の未来、地域の将来まで映し出しているように思えてならない。それほど先走っている。
だが、これは変わろうと思って変わってきたというより、このように変わらざるをえなかったという面もあるだろう。というのも、一部の作品は公共事業費によって賄われているから建築としての形態をとっているのだし、また、中越地震によって加速された過疎化を食い止めるため、「空家プロジェクト」を進めてオーナーを見つけなければならなかったからだ。経済的な苦境のなかで知恵を絞って編み出した、いわば苦肉の策といえよう。
さて、この越後妻有アートトリエンナーレは当初3回までの予定だったという。つまり今回がとりあえず最終回になるわけで、そのために「生き急いだ」という面もあるかもしれない。ともあれ、事務局側は次回以降もやる気だし、美術関係者もおおむね好意的なので、あとは今回の結果と地域の人たちの反応しだいということになろうか。ただし、やるにしても経済的にはますます厳しくなることが予想されるから、さらなる苦肉の策、奇襲作戦を繰り出す必要があるだろう。次回はいったいどんな芸術祭になるのやら、ますます楽しみになってきた。 |
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[ むらた まこと ] |