同盟休校事件
- The Students Boycott of Imperial Art School
- 更新日
- 2024年03月11日
同盟休校事件は1935年に帝国美術学校で発生した学生ストライキである。本事件をきっかけにして帝美は分裂し、多摩帝国美術学校が設立された。29年に私塾として創設された帝美は、徴兵猶予の引き換え条件として文部省に財団法人の設立と専門学校への昇格を命じられていた。しかし、年々増大する学生を収容するために新校舎の設立に追われ、専門学校昇格に必要な資本金が集められなかった。そのため、当時帝美の校長だった北昤吉は、東横電機鉄道と交渉し、東横線沿線の上野毛への移転を条件として財政援助を引き出す約束を取り付けた。しかし、急な決定は学生や教員からの不信を招き、特に帝美の創設期から学生指導に尽力した金原省吾や名取堯との対立が深まった。さらに、北が対立する教職員4名を解雇し、不穏な動きを見せていた学生を除名処分や無期停学処分にしたことを受けて、35年5月15日、帝美の学生は四科合同の声明文を発表して一斉に授業ボイコットに突入した。その結果、同年6月に北は校長職を解任され、木下成太郎が後任に決まった。北前校長を支持する教員・学生は帝美に絶縁状を送り、上野毛に新設された多摩帝美に移った。北の解任とともに同盟休校(学生ストライキ)は解除されたが、事件はこれで収束せず、北による帝美の吉祥寺キャンパスの転売問題などが勃発し、帝美は1年近くキャンパスを使用できない状態が続いた。一連の対立は最終的にキャンパスの所有権をめぐる法廷争いに発展し、新聞や雑誌でスキャンダラスに報道され、衆目を集めた。このように、帝美と多摩帝美は出発点からライバル関係にあり、その意識はそれぞれの後身である武蔵野美大と多摩美大にも引き継がれている。
補足情報
参考文献
『武蔵野美術大学大学史史料集 第3集 同盟休校事件』,武蔵野美術大学,2002