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内科画廊

Naiqua Gallery
更新日
2024年03月11日

慈恵医大のインターン生だった宮田國男は、父親の死によって相続した新橋駅前の堤第二ビル3階の医院を貸画廊とし、内科画廊(Naiqua Gallery)と名付けた。内科画廊では、開廊の契機となる1963年5月のハイレッド・センターによる「第六次ミキサー計画 物品贈呈式」をはじめ、閉廊の66年2月までに約125の展覧会が開催され、飯村隆彦、オノ・ヨーコ、篠原有司男、三木富雄、観光芸術研究所(中村宏、立石紘一)ら、ジャンルを超えた多くの作家の発表の場となった。また、当時の読売アンデパンダン展に代表される反芸術の傾向をもつ作家が多数参加した中原佑介の企画による「不在の部屋」展も、63年7月に同画廊で行なわれている。63年6月に発表した画廊マニフェストのなかで、宮田は内科画廊自体を「一個の試験管」と形容している。試験管の機能として画廊が「実験室」であること、また作家に「明確な意図をもった実験者」としての性質が求められたことからもわかるように、反芸術の作家が集まる交流の場という側面に留まらず、パフォーマンスやフィルム上映会(内科シネマテーク)など、読売アンデパンダン展中止以後の受け皿として、前衛的なイヴェントが多数行なわれたことの重要性は指摘するべきであろう。なお、2000年3月に京都造形芸術大学のGallery Rakuにて、宮田の娘である宮田有香の企画によって、当時の資料や作品を展示した「内科画廊 ’60年代の前衛」展が開催された。

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参考文献

『東京ミキサー計画 ハイレッド・センター直接行動の記録』,赤瀬川原平,PARCO出版局,1984