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風景論映画

Landscape Film
更新日
2024年03月11日

1960年代末から70年代にかけての風景論争に関連した映画の呼称(風景論争については後述)。風景映画とも言われる。狭義には『略称・連続射殺魔』(1969/1975)と『東京战争戦後秘話』(1970)の2作品を指すが、論争から派生したフィルムや、類似した形式を備えたフィルムを指しても用いられる。
永山則夫による連続ピストル射殺事件の翌年、1969年に松田政男、足立正生、岩淵進、野々村政行、山崎裕、佐々木守の6名は、永山が見たはずの景色を辿りながらカメラを回して『略称・連続射殺魔』を制作した(正式名称は『去年の秋 四つの都市で同じ拳銃を使った四つの殺人事件があった 今年の春 十九歳の少年が逮捕された 彼は連続射殺魔とよばれた』)。松田はその旅の経験を踏まえ、永山は地方の固有性が失われて均質化した風景を切り裂くためにこそ弾丸を発射したに違いないと指摘。どこにでもある風景の背後にある国家権力と資本主義を見透かし、情況論から風景論への転換を訴えた。松田の風景論は大きな反響を呼び、原將人(正孝)や中平卓馬など多くの論者を巻き込んだ風景論争へと発展した。『略称・連続射殺魔』は制作者たち自身の判断で「上映しない」方針がとられ、一度限りの試写会を行なった後は75年まで公開されなかったため、大島渚が監督した『東京战争戦後秘話』が先に一般公開された。『東京战争戦後秘話』は、どこにでもある風景ばかりを撮った映画を遺書として遺して死んだ男の物語という、明確に風景論を踏まえたフィルムだが、佐々木守と共同で脚本を執筆した原將人が、成島東一郎の撮影スタイルを批判するなど、風景論の理論的な洗練よりもむしろ個々人の風景観の相違が露呈することになった。
その後まもなく論争は収束し、論者たちは風景論の問題意識をそれぞれ独自に追求・発展させていく。松田は風景論から報道論・メディア論への転換を図り、足立は若松孝二とともにパレスチナに渡ってニュース映画『赤軍―PFLP 世界戦争宣言』(1971)を制作。通称「赤バス」に乗り込んでの巡業上映運動を開始した。中平は風景という語にも残存する情緒や神秘性を剥ぎ取るべく物質論へと向かい、「植物図鑑」の提唱に至った。原もまた風景論から映画の肉体論への転換を掲げ、その試行はやがて『初国知所之天皇』(1973)として結実する。

補足情報

参考文献

『風景の死滅 増補新版』,松田政男,航思社,2013
『見たい映画のことだけを』,原将人,有文社,1977
『見続ける涯に火が… 批評集成1965-1977』,中平卓馬,オシリス,2007
『土瀝青 場所が揺らす映画』,佐々木友輔、木村裕之編,トポフィル,2014
『映画/革命』,足立正生、平沢剛,河出書房新社,2003
『映画への戦略』,足立正生,晶文社,1974