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わいせつ

obscenity
更新日
2024年03月11日

一般的には、性的な逸脱状態を指すが、刑法上は、「公然わいせつ」と「強制わいせつ」に大別される。美術や芸術の現場でしばしば問題化するのは前者で、これは刑法第174条「公然とわいせつな行為をした者は、6月以下の懲役若しくは30万円以下の罰金又は勾留若しくは科料に処す」と明記されている。ただし、この条文中の「わいせつ」が何を指しているのかについて、刑法において明確な定義があるわけではない。何が「わいせつ」で何が「わいせつ」でないのか、その基準が置かれているのは、判例である。それは、いわゆる「チャタレイ事件」(1951-1957)において最高裁判所が下した判決、すなわち「徒に性欲を興奮又は刺激せしめ、且つ普通人の正常な性的羞恥心を害し、善良な性的道義に反するもの」である。ここに含まれている3つの条件が、今日にいたるまで、依然として「わいせつ」の構成要素と考えられている。だが、問題点は多い。第一に、その恣意性。「わいせつ」の基準が以上の3つの構成要素にあるとしても、そもそも「わいせつ」の対立項である「正常な性的羞恥心」や「善良な性的道義」が何を指しているのか不明瞭であるし、それらが時代に応じて変化することも想像に難くない。それゆえ、このような曖昧な基準を具体的な事例に適用する際に、警察官や検察官、裁判官など、適用する主体の主観的な恣意性を排除することはきわめて難しい(逆に言えば、「わいせつ」とは、それを適用する主体の性的な趣向を露わにする自爆行為であると言えなくもない)。第二に、その検証不可能性。公権力は、公共の福祉を隠れ蓑にしながら、実質的に検閲を遂行するが、じっさいのところ当該作品の「わいせつ」性が公共の福祉をどれほど損なうかは、あらかじめ発表の機会を封じてしまうため、検証しようがない。「わいせつ」の基準が依然として曖昧であるのは、検閲によって「わいせつ」をめぐる議論をあらかじめ封殺してしまうからである。また、その権力行使の妥当性が検証されることもないため、「わいせつ」の権力は無制限に行使される恐れがある。第三に、美術や芸術の現場への悪影響。たとえば愛知県美術館における鷹野隆大作品のように、「わいせつ」を理由に美術館の展示が何らかの改変を強いられた場合、鑑賞者の「見る権利」は著しく阻害される。つまり、「わいせつ」事件は公共の福祉を守ることを名目に正当化されがちだが、じつは鑑賞者に等しく鑑賞の機会を提供するという美術館の公共性を蔑ろにする恐れがきわめて高いのである。

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参考文献

『チャタレー夫人の恋人』,D・H・ロレンス,筑摩書房,2004
『ヌードの反美学』,リンダ・ニード,青弓社,1997
『カルチャー・クラッシュ』,小倉利丸,社会評論社,1994
『裁判』,伊藤整,晶文社,1997
『サド裁判』,澁澤龍彦、石井恭二他,現代思潮社,1963