2019年11月15日号
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2011年03月15日号のバックナンバー

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今日の岡本太郎──「生誕100年 岡本太郎展」レビュー

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[2011年03月15日号(福住廉)]

 「岡本太郎って、こんなにつまらなかったっけ?」。東京国立近代美術館で開催中の「生誕100年 岡本太郎展」(2011年5月8日まで)を見て、真っ先に思い至ったのはこの点です。もちろん岡本太郎といえば誰もが知っている有名な芸術家。『今日の芸術』をはじめとする著作、大阪万博における《太陽の塔》、写真と文章による縄文土器論、テレビ番組やCMで連呼した「芸術は爆発だ!」というフレーズ、そして近年、渋谷駅に設置された壁画《明日の神話》など、みなさんもどれかひとつは聞いたことや見たことがあるはずです。1996年に亡くなった後も、その人気は依然として衰える気配がありません。青山と川崎に二つも美術館があるし、専門家による再評価も続いています。ところが、岡本太郎の全貌を振り返った本展は、どういうわけかまったく心に響くものがありませんでした。こう言ってよければ、退屈ですらありました。もしかしたらこういう言い方は顰蹙を買うのかもしれませんが、これが私の正直な感想なのだから仕方がありません。第一、岡本太郎自身が「否!」を信条として生きていたのですから、当人の展覧会に「否!」を突きつけることは、それほど的外れだとは思えません。この点こそ、近年の岡本太郎ブームの中でもっとも欠落している点ですが、それはともかく、この退屈さとはいったい何だったのでしょうか。

アメリカンアートの終焉?──2011年、ニューヨークのアートシーン

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[2011年03月15日号(市原研太郎)]

 1年3カ月ぶりのニューヨーク(以下NY)は、普段と変わらぬくすんだ色調の街並みだったが、どこか取り付きがたくよそよそしく感じられた。到着してから9日の後、NYを出発するまでに、昔と同様の親しげな表情を見せてくれるようになるだろうか? そしてできれば、かつて1970年代に滞在したころに覚えたノスタルジーが蘇り、帰るのが辛くなるような経験ができればと思う。

キュレーターズノート

京都市立芸術大学作品展(学内展)/わたしが This is になっても黒目画廊に連れてって/風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム、アジアから

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[2011年03月15日号(中井康之)]

 この場所はレポートを記す場所なので、粗雑な論理を展開することは慎むべきことと認識している。しかしながら、そのレポート対象となる作品を生み出している作家と話をしていると、行きつく先は根源的な問題になることは避けられないことだろう。先日もある作家と打合せをしているうちに、作品を成立させる原理的な論議へと話が進み、その作家がマイケル・フリードのシアトリカル批判についての話題を俎上に乗せてきた。正直な話、マイケル・フリードの論考に対して明確な方向性を持って対峙した経験もなく、精密な討論には成り得なかったのであるが、マイケル・フリードは基本的にはクレメント・グリーンバーグのモダニズム批評を大前提として展開していた筈であり、そのような観点で話を繋げていった……。

風穴 もうひとつのコンセプチュアリズム、アジアから/サイモン・スターリング展、来年度予告:ヒロシマ賞受賞記念展

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[2011年03月15日号(角奈緒子)]

 シンガポールではビエンナーレがオープンし、インターネットを通じて華々しいニュースや画像が飛び込んでくる一方、テレビでは、日本の関東から東北にかけて太平洋側の地域を襲った大型地震と大津波の速報──次第に明らかになる被害の模様と、それに付随して起こった福島原発事故の的を射ない状況説明──が延々と続く。この二つの出来事を並行して見ていると、原因があるわけでもなんの根拠があるわけでもないが、いまのアジアの情勢、パワーバランスが見えてくるようにも思うのは、皮肉にとらえ過ぎだろうか。

雨引の里と彫刻2011──冬のさなかに

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[2011年03月15日号(伊藤匡)]

 筑波山の北側、雨乞い伝説で知られる雨引(あまびき)観音のふもとで、「雨引の里と彫刻」展が開かれている。この野外彫刻展は、里山の風景を見直そうと、この地域で制作する彫刻家たちが第1回展を開いたのが1996年というから、もう15年の歴史がある。以後2、3年ごとに開かれ、8回目を数える今年はサブタイトルどおり初めて冬の開催となった。

アート・アーカイブ探求

作者不明《日月山水図屏風》循環する宇宙のエネルギー──「髙岸 輝」

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[2011年03月15日号(影山幸一)]

artscapeレビュー

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