日の出6時48分。
1分違い(49分)でがらっと表情が変わり、50分にはすっかり夜があけて1日が始まった気分となる。今日も頑張ろう!
午前中、ちょっと趣味の時間のために出かけ、昼過ぎに戻るとマイアミのアートフェアーから帰国した松井みどりさんから、ぞくぞく写真がメールされつつあった。そのほか情報や日程調整のメールもあり、それに返事をする。折り返し、週明けに「夏への扉」展に出品をお願いしている作家に会う場所と時間がメールされてきた。
週の中、休みをとったのは、夜、東京に行くためだ。
「HEART of GOLD —百年の孤独」を世田谷パブリックシアターで見る。資生堂の企業文化部でメセナを担当されていた高辻ひろみ氏が6月から「世田谷パブリックシアター」と「シアタートラム」を含めた世田谷文化情報センターの館長に就任されている。
『百年の孤独』は、G.ガルシア・マルケスの小説。この作品をモチーフにパパ・タラフマラの小池博史が作・演出・構成したもの。いつも案内を頂くものの、本当に久しぶりにパパ・タラフマラのステージを見る。舞台進行上重要な役目を果たすライト・オブジェを造形作家の森脇裕之さんが担当し、彼からも見て!と、招待の連絡をもらっていた。行かないワケにはいかない。受付では、キネティック・オブジェを担当した田中真聡さんにも会う。(銀座での個展、見に行かれなくでごめんないでした。)ステージは15分の休憩を挟む2時間、11のシーンで構成されている。
開演前に椅子に座り、パンフレットに寄せられている小池博史の「口上書き」に目を通す。
『…寺山の晩年の作品として舞台芸術化させたものである。(—中略—)晴海埠頭の巨大倉庫で行なわれた公演は成り立っていたのである。』の下りを読み、暫くして、すっかり自分の記憶から忘れてしまっていた記憶を思い覚ました。
確、僕は寺山修司の芝居を観に、晴海の倉庫に出かけ、広い空間の会場の椅子に見を沈め見ていた。しかし、あのときの芝居が「百年の孤独」であったことを覚えていない。芝居に疎かった(今でも十分に疎いのだが)僕は、「百年の孤独」を見に行ったと言うよりも、唐十朗の状況劇場を見に行くように、寺山修司の天井桟敷の芝居世界を見る—というよりも、おっかなびっくり覗くような気分で—出かけていったことを鮮明に思い出した。
さて、今回の「百年の孤独」は、時間を感じさせることなく、一気に終演となった。パパ・タラフマラの「百年の孤独」は、映像美として記憶に留まっている。そしてそれは、いまだ未消化のまま僕の中にまだ残っている。
どうしても気になって芸術館の演劇部門のスタッフに聞いたら「資料ライブラリー」に映像があるという。
演劇実験室「天井桟敷」第29回公演『百年の孤独』(発売・販売 アップリンク)。
そのビデオの箱書きに
「晴海の国際見本市会場という巨大な空間に設けられた4つのステージと中央にそびえ立つ負の穴。全てのステージで同時進行に劇は進められていくため、舞台の全体をみることのできる観客は誰もいない。唯一残されたこのヴィデオが公演の全貌を伝えてくれる。」
確かに僕はここに居た。このビデオを借りて見ることのできなかった全貌を見ることにした。
上演の会期が1981年7月2日から7日とある。25年前のコトだ。僕は美術展覧会だけではなく、「芝居」も観ようとする単なる野次馬的な観劇者であった。
パパ・タラフマラの小池さんは、鮮明なる記憶とともに、あの空間に居たことだろう。パンフレットに「百年の孤独」を25年前に舞台化したいと夢見たとあるくらいなのだから。その夢をカンパニーまで結成し、今回実現したワケだけど、芝居と本とどちらが原体験なのだろう。どちらであれ、25年にもおよぶ夢があったこと、そして、それが実現できたことは、すばらし!の一言につきる。そして、それはとても素敵な事だと思う。
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はじめまして。私、小池博史のマネージャーをしております大久保と申します。
パパ・タラフマラ公演「HEART of GOLD—百年の孤独」にご来場、誠にありがとうございました。
小池の原体験は、小説が先です。とはいえ、寺山「百年〜」もそれは、衝撃的だったようです。いつか自分の舞台言語を確立した上で、小池「百年〜」を演りたいと目標にしていたのは、寺山作品あってのことだと思います。
小池「百年〜」お楽しみいただけたようでしたら、幸いです。今後とも、どうぞ、よろしくお願いいたします。
突然の書き込み、失礼いたしました。