2019年07月15日号
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Dialogue Tour 2010

第5回:かじこ出航までのこと/これからのこと@遊戯室[レビュー]

竹久侑(水戸芸術館現代美術センター)2011年01月15日号

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 水戸芸術館から徒歩約10分。「遊戯室(中崎透+遠藤水城)」は、他に2つの展示スペースとデザイナーのオフィスが共存する「水戸のキワマリ荘」の中にある。筆者もよく訪れるこの場所に、岡山から「かじこ」の運営を終えたばかりの3人がトークにやって来るというので出向いた。

 遊戯室は、水戸を拠点とするアーティスト中崎透がインディペンデント・キュレーターの遠藤水城とともに運営する、展示をおもな活動としたオルタナティブ・スペースだ。展示がメインではあるけれど、遊戯室を筆頭にキワマリ荘の特徴は、展覧会やイベントを目当てにやってくる人びとのあいだに、フラットで相互的なやりとりをひき出すことにある。肩肘をはらない環境が人々の気を緩ませ、居心地のよい寄り合いの場となっている。相手の顔が見えるリアルな関わり合いのなかで談笑や、ときに議論がうまれる。
 一方、かじこは、便宜上「アートスペース」と称されたが、実質はアーティストの三宅航太郎と蛇谷りえ、芸術社会学を研究する小森真樹の3人が、瀬戸内国際芸術祭の会期にあわせて運営した期間限定の滞在体験型スペースだ。メインの滞在機能に加え、若手アーティストがそこで制作した作品を鑑賞・体験できるという小規模のレジデンス兼ギャラリー機能を備えもち、さらに滞在者でなくても利用できるオープン・スペースとしての一面ももっていたようだ。
 さまざまな興味や目的を持った人々が無理なくひとつ屋根の下で過ごせるよう、3人は空間区分やイベントの運営方法を工夫していた。1階の居間と2階の四畳半間そして屋根裏的スペースのほどよい乖離を活かして、一軒の古民家を共有スペースとセミ・プライベートな空間に分け、イベントや談話に参加することもできれば、一人で本を読むことも先に就寝することもできるよう配慮されていた。利用状況や客の人数、男女別などの要素にあわせて各部屋はその日の機能がそれとなくあてがわれ、利用者の異なる気分や目的によって複数の状況がうまれえるよう心がけられていた。そしてイベントの運営も、管理人が主催するばかりでなく、利用者から提案や企画を導き出すなど、利用者の意志を尊重しつつ主体性をうまく引き出す方法が探られていたといえる。


8月26日のかじこ。西野正将の作品制作を手伝う滞在者(手前)と、「けんちゃん送別会」イベント(奥)

 遊戯室とかじこは、発足の理由や経緯、メインの機能などに明らかな違いがあるが、ここでは相違点より共通点に注目してみることで、なにか発見できないか探ってみたい。両スペースともアーティストが主たる運営者であり(1)、彼らの活動はどこか「作品」なのかそれとも「日常的営みの延長」なのか、一見して区別しにくいところがある(2)。さらに遊戯室もかじこも滞在や展示という主要機能もさることながら、いろいろな人々が集う場としての機能があり、そうした状況をつくるために運営者が意識的に工夫している(3)。
 だが、今回のダイアローグ・ツアーでわかったが、運営者自身は遊戯室やかじこの運営を「作品」としては位置づけていない。それは当初意外に思えたが、そもそもアーティストがなんらかの主体的意志を持って行なう社会的な活動を、作品か日常的な営みか突き詰めて区分する必要も実はそれほどないだろう。芸術がアーティストの思考や視点が有形無形に現われるものであるなら、スペースの運営方法からも当然主宰者として関わっているアーティストの思想が透けて見える。
 もともとゲストハウスの運営に興味があったという三宅と蛇谷が中心となって運営していたかじこは、「アートスペース」という設定や作品展示をそのミッションの要に据えているわけではなく、どちらかというとアートという枠組みからはあえて脱したところで勝負をしていたように思える。三宅はプレゼンテーションでも、かじこの運営について“普通”なことをしたという意識にふれ、「美術やアートも好きだけど、もっと根源的に人間の生活や条件みたいなものをかじこをやりながら考え直しているんじゃないか」と反芻していた。
 アーティストが美術の文脈から外れたところで生活について考えるということは、脱アート、反アートのようにもとらえられるが、結局のところそれは美術と生活の関係性についての批判的考察以外のなにものでもない。その点でかじこは、脱構築的なアプローチから美術と生活の関係性を掘り下げる実践だったといえるだろう。
 それとは対照的に、遊戯室は、美術の枠組みのなかでオートノミーを保った「たむろれる場所」「いろんな人がぐちゃぐちゃになる場所」として位置づけられている。日本各地で地域振興を目的としたアートプロジェクトが頻繁に行なわれている今日において、中崎や遠藤が考える地域や社会に対する自律した美術の在り方が、遊戯室の運営を通して提示されているのではないだろうか。

 近代以降、さまざまなアーティストが、生活と芸術の乖離を問題視し、生活に密着し社会と関わる芸術の在り方を探求してきた。その問題意識がポストバブル世代に引き継がれるにあたって、グローバル資本主義や市場原理主義に対する反動からか、自分たちに身近な社会に関わる地に足のついた活動から芸術の社会性が追求されているように思う。遊戯室やかじこといったオルタナティブ・スペースの運営を通してアーティストが場づくりや共同体の形成を意識することもそのひとつの現われといえないだろうか。美術館やギャラリーといったアートを前提とした場ではなく、アートを声高に掲げない生活圏がフィールドとして選ばれ、作品なのか日常的な営みなのかはっきりとしないスタンスで場づくりや共同体の創造に携わる。それがゼロ年代末に増えたオルタナティブ・スペースにて行なわれいてる、芸術の社会における実践なのではないか。
 その観点から考えると、二つのスペースに限って検証することより、本来はこのダイアローグ・ツアーが取りあげる他のスペースも含めて、それらが共有する問題意識をあぶり出して考察すると有意義だろう。このツアーは、ゼロ年代末に国内の地方都市で増えたオルタナティブ・スペースの特徴を、アーティストや利用者の関係性の流動化や双方向化とからめて読み解こうとしているようだが、今回の遊戯室でのかじこにまつわるトークを聴いて、筆者としては、生活圏内における芸術の実践として、こうした場づくりの考察を深めてみたいと思った。


キワマリ荘でのトーク風景。左から、三宅航太郎氏、蛇谷りえ氏、小森真樹氏

プレゼンテーションディスカッションレビュー開催概要

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  • Dialogue Tour 2010とは

竹久侑

大阪生まれ。水戸芸術館現代美術センター学芸員。慶応義塾大学総合政策学部卒。ロンドン大学ゴールドスミス修士課程クリエイティブキュレーティング修...

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