「ニュートラル」な視点で世界に触れる ー
大島成己、ギャラリーノマルで12年ぶりとなる新作展

“視ること-世界との新たな関係の取り方”という考えのもと、主に写真を表現手段に用いて、遠近感を崩していく方法を通じ、日常的な空間解釈にズレを持ち込み、被写体イメージを構成する光・色彩、そして触覚感を増幅させる表現で知られる作家、大島成己。その作品では日常的な意味性は弱められ、「映像的な現象の刹那的な奇妙さ」が強度をもって私たちの眼前に提示されます。
2001年のトーマス・ルフ教室(ドイツ)での研究を機に、2003年ロッテルダム国際建築ビエンナーレ、2004年第9回ヴェネチアビエンナーレ・写真部門への選出をはじめ、ヨーロッパ圏でもコンスタントに作品を発表。2024年には1年間、ヘルシンキ芸術大学の客員研究員としてフィンランドに滞在、帰国後も精力的に制作を続けています。
 
大島とノマルとの付き合いは長く、1992年の版画制作より協同がスタート。ギャラリーの開廊後は、2004年の初個展以降2014年まで計6回の展覧会を開催。今回、実に12年振りとなるノマルでの個展を開催する運びとなりました。
 
今展では10年ほど前から実験的に試みてきた「卓上の静物」をモチーフとしたシリーズの最新作を一堂にご覧いただく内容となります。またギャラリー2階では、今回のシリーズに関連する過去作品を展示予定です。
 
通底した問題意識に対する答えをその時代ごとに更新しながら、常に挑戦を続ける大島成己の新作展。ご高覧くださいますよう、どうぞよろしくお願いいたします。


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“The Neutral: Still life on a table” シリーズについて
中性の様態としての像、卓上の静物  

大島成己 Naruki Oshima

今回の新作は、これまでの制作と並行しながら、約10年前から実験を重ねてきたシリーズの新たな展開である。卓上の静物をモチーフとしながらも、それが「何であるか」が確定されないまま、宙づりの状態に置かれる。しかし、テーブルらしき場が存在することで、見る者はその得体の知れない物体を、かろうじて日常の延長線上にあるものとして受け止めることになる。

このシリーズは、マクロレンズによる接写でピントの合う範囲(被写界深度)を極端に浅くし、ピントが合っている部分と大きくボケている部分を明確に分ける「フォーカスコラージュ」という技法で制作されている。スキャナーのように細部を数百枚撮影してデジタル上で繋ぎ合わせることで、点ではなく「面(レイヤー)」として焦点を設定し、空間の奥行きを圧縮して、ピントの合った薄い膜のような〈界面〉を画面上に発生させている。

振り返ってみれば、カメラとは三次元の現実世界を二次元の平面へと変換する装置である。かつての人々は、 光によって世界が薄い「像」へと変換されること自体に驚愕したはずである。三次元から二次元へ変換されるとき、現実感は失われるが、その欠落があるからこそ、「像」特有の豊かさが立ち現れる。しかし今日の私たちは、写真を見るとすぐに空間の奥行きを想定し、「何が写っているか」という日常の意味や情報の文脈へと、無意識に回収してしまう。そのとき、二次元の像自体が宿していた原初的な感覚の強度が失われていく。

私の試みは、私たちが無意識に求めてしまう安定した遠近感を揺るがし、意味として消費される手前にある 「変換された像」の強度を画面の上に留め、意味から解き放たれた像を〈界面〉に浮かび上がらせることにある。それは、物を見た瞬間に「これは何か」と判断してしまう頭の働きをいったん止め、意味が立ち現れる直 前の状態をつくり出す実践である。そこでの静物は、物語や意味に回収される前に、ざらざら/つるつるとした〈表面〉、物の固有色から離れて漂う〈色彩〉、重みを失って影のなかで変形する〈形〉として現れ、視覚は触覚へと近づいていく。

私たちは世界を理解するために、安定した視点とわかりやすい意味を求めがちである。しかし私が表現したいのは、意味を完全に失った抽象的な世界ではなく、「意味がすぐには決まらない状態」における物のあり方である。それらは最初は名付けようのない「何か」として現れ、互いに響き合いながらも、一つのシステムにまとめられることはない。日常の秩序からこぼれ落ちるとき、色彩と触覚は自律してざわめき始める。そのとき〈中性〉の世界は、日常の意味に覆われていた事物を解き放ち、バラバラのまま存在することの豊かさを肯定するであろう。