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ヴェネツィア・ビエンナーレの過去と未来──「社会性」のアートに向けて

市原研太郎(美術批評)

2011年07月15日号

国際展が必然的に抱え込む困難

 だが、ビエンナーレの過去数回の実情は、このようなヴェネツィア・ビエンナーレの展覧会自体が、行き詰まっているのではと実感されるほどだったのではあるまいか。というのも、国別展示は一定の意義と効果を持つものの、やはりアートのトランスナショナルな性格を損なうものであることに変わりはなく、近年多文化主義の後退にともなって、多様性の機能が有効に働かなくなってきた(つまり、国によって文化的コンテクストが異なり,各々を比較する基準がないことで理解や判断の契機が失われる。というより、明らかにレベルの低い作品が代表になるというケースが見られる)。また、企画展のほうも、巨大なスペースを新機軸の優れた作品で埋められるキュレーターが不在であることに起因する展示の貧しさや希薄さが目立ってきた。主催者がそれを察知してか、複数のキュレーターにスペースを分割して任せるという方法が採られたこともあるが、会場に充実した作品が多数並べられても、各キュレーターのセクションで意図や雰囲気が異なり、全体を見渡して統一感のない散漫な展覧会になってしまうことは避けがたい(一方で、豊富な作品の莫大なエネルギーに圧倒されることがある。その典型的な例が、2003年のホウ・ハンルゥ企画の“緊急ゾーン”)。キュレーターの責任にすべてを帰することはできないが、前回の展示内容の充実度の低さは、目も当てられなかった。ビエンナーレ全体で、私の記憶に残った作品は、わずか三点だったのだ。

 近年のヴェネツィア・ビエンナーレは、巨大国際展が必然的に抱え込む困難が頂点に達し、危機を迎えているのではないか? 今年のビエンナーレは、どうなのだろうか。キュレーターの器量や能力をはるかに凌ぐ展覧会の規模は、今回のキュレーター(正式名は、アーティスティック・ディレクター)ビーチェ・クリガーの肩に重くのしかかっているはずである。クリガーはスイス出身で、現在チューリッヒ美術館のキュレーターだが、これにどう対処したのだろうか? 彼女が組織したアルセナーレと中央パビリオンの展示を一巡して感じたのは、それを企画の基本によって乗り切ったということである。つまり、自分の能力の範囲内で企画を立て、アーティストを探し出し、展覧会を実現する。昨今、アーティストの実力や名声に頼るタイプの企画が多いなかで、今回のビエンナーレは、派手さや目新しさはないものの、背伸びしたり肩肘を張ったりすることなく、シンプルだが一本筋が通った内容になった。招待アーティストの各作品とその配置に、意図が感じ取れたのである。
 まず、中央パビリオンの真ん中の部屋にヴェネツィア派の巨匠ティントレットの作品を置いたことが、成功の要因のひとつに数えられるだろう。ルネサンスの遠近法の大胆な改革者として知られるティントレットは、ヴェネツィアの教会や館に多くの傑作を残しているが、そのうちの三点をビエンナーレ会場に持ち込んだ[図2-1]。それが光を特徴的に表現しているという理由で。一見現代アートと違和感があっても、クリガーが掲げた“ILLUMInations”というタイトル(テーマ)に合致している。ティントレットのダイナミックな構図は、宗教的な危機に対するアートの側の反応と解釈されるけれども、ティントレットの登場によって、光の空間的な振る舞いへの意識が高まった。それが、同時代の巨匠ティツィアーノやヴェロネーゼとは異なる点である(それぞれ、愛やエロティシズムを宗教的主題のなかに秘めている)。ティントレットは、スタティックなルネサンスの遠近法をダイナミックなそれに変換することを通じて、画面の空間に光の流れを導入し、その道のりを示したのである。
 宗教画として、表面的には啓示や救済の光ではあるが、幾何学的な構図のインスピレーションには知性を感じる。とすれば、今回のビエンナーレに放たれる光は、知性のそれであり、とはいえ野心的ではなく慎ましやかなその作用(宗教的な影響があることの証)が、企画展の隅々まで染み渡っているのではないか。テクスト(ティントレットの絵画)がコンテクスト(企画展全体)を変質させ、その方向を決定する。テクストが、そのままコンテクストになる。そこに因果関係はなく、原因が結果と一致し、時間的差異は消失する。ビエンナーレで、このような奇跡が起こっているとすれば、私が冒頭で述べた奇跡の都市、ヴェネツィアの面目躍如だろうか。



2-1──中央パビリオンに展示されたティントレットの作品