フォーカス
ヴェネツィア・ビエンナーレの過去と未来──「社会性」のアートに向けて
市原研太郎(美術批評)
2011年07月15日号
民主主義を実現するという「社会性」
ここまで、社会性のアートと、それに呼応して形成され作品を産出する集合体が、21世紀アートのパラダイムの支柱になるのではないかと述べてきた。少なくとも、今年のビエンナーレを見ると、そのように感じられる。もちろん、アートのすべてが、社会性と集合体のパラダイムに回収されることはないだろう。それは、多くの作品が、その方向に向かっているように思われたビエンナーレにも、そうした性質とは異なる作品があったことで明らかである。したがって、このパラダイムは、私がビエンナーレの作品を検証して導いた仮説であり、それが立証されるかどうかは、今後のアートの推移を注意深く観察していかなければわからない。
次に、ビエンナーレではなくその関連企画展で気になった作品を取り上げ、それが指し示す特異な事象から、社会性の概念をさらに彫琢してみたい。その関連企画展とは、“The Future of a Promise”とタイトルされたアラブ・中東地域のアーティストのグループ展である
。アラブ・中東と言えば、いまや東欧と並んで、現代アートの合言葉になっていると思われるほど、注目のアーティストが登場してきている。彼らが脚光を浴びる理由は、それまでこの地域に優れたアーティストがいなかった(イスラム教の影響で)こともあるが、とくに中東において内戦や紛争が頻発し、いまなお解決の兆しが見出せない不安定な社会状況であることが、決定的要因になっているだろう。まさに彼らの身辺で、彼ら自身がトラウマを負うような深刻な事件が日常的に起きているのである。社会性をテーマとするアーティストなら、その表現(問題を明らかにすることと和解すること)に専心するだろうことは想像に難くない。したがって、その地域出身のアーティストを集めた展覧会が、人々の興味を引かないはずがない。その地域(あるいは移民として)の苛酷な現状に言及するだけで、異例の強度を持つ作品に仕上がる条件が整うのである。
さて、その展覧会で私が着目した作品とは、ジャナン・アル=アニの《Shadow Sites II》というヴィデオ作品である
。映像は、上空から撮影されたアラブの砂漠地帯の地表の模様である。そのなかに古代の遺構のような廃墟の平面図や、軍事施設のような幾何学模様の図形が、次々と映し出される光景は、壮烈と形容してよい非情な美しさに包まれる。しかし、この映像の本当の凄まじさは、その異様な緻密さにある。偵察衛星から撮られた画像のような仔細な地勢図は、もしそれが秘密基地やテロリストの拠点のような軍事的意味を持たなければ、まったく無駄に詳細なだけでなく、映像自体が無限に分割可能な物質の密度を晒している。現実の存在論的無意味さが、鑑賞者の意識を埋め尽くすのだ。もちろん、そこになにがしかの価値(存在は人間の生の基底をなす)がないわけではない。だが現実の無意味さは、人間にとって耐えがたいだけでなく、それを描き出すアートにとっても無意味である。ここに、「死」がその象徴的出来事である無意味さから人間を救出する「社会性」が介入する。社会は、元々目的論的に構成された関係のネットワークあるいはシステムだが、翻って人間を救済する「イルミネーション」を放つのである。
それを端的に証明する作品が、トルコ・パビリオンにあった。アイシャ・エルクメンの《Plan B》の会場は、複雑な構造の装置がインスタレーションされている
繰り返そう。物質から社会の次元に移行することで、作品に意味が付与される(社会性に起因する表現の変質)。しかし、この変化は無意味から意味への移行で終わりではない。その後に理念への移行がある。「社会性」は、表現をもう一段上のレベルに押し上げるのだ。
“The Future of a Promise”に戻って、上述の二番目の移行について説明したい。出品作から強いインパクトを受けるのは、アーティストが属する社会の矛盾が間接的にも感じ取られるからである。その矛盾とは、政治的、経済的困難(グローバル化した時代の紛争や貧困そしてテロ)であったり、その結果生じた社会的混乱(都市の荒廃や民衆の暴動)であったりする。彼らの作品は、不可避的に関係性の破壊という負の社会性を帯びてしまうのだ。現在、彼らの作品に注目が集まるのは、そのせいだろう。
たとえば、ヴェネツィアに二つの美術館を構えるフランソワ・ピノーのコレクションに、アラブ・中東と東欧出身のアーティストの作品が増えてきた。ビエンナーレ会期中に開催されている企画展でも、彼らの作品に場所が割かれている。それらを鑑賞していると、なぜコレクションされたかが理解できる。彼らの作品は、人間的な価値が否定される状況の厳しさを逆説的に反映するのだが、それらの地域の危険な雰囲気を漂わせる表現でありながら、どこか空疎である。作品が放つ恐ろしく危険な匂いは、見せ掛けではないのか。というのも、彼らの表現に恐さを感じても、その恐さを裏付け正当化する大義を孕んでいるようには見えないからだ。人間的価値を取り戻すためのテロではなく、テロのためのテロに堕した暴力のようなニヒリズムと言えばよいか。でなければ、それらの地域に生きる人間の苦境を跳ね返そうとする抵抗力もないかたちばかりの危険性である。それでは、ブルジョワのピノーですら驚かない。むしろカワイイと思うかもしれない。これが、彼らの作品がピノーのコレクションに迎え入れられた本当の理由であり、それが購入された基準でもある。ヒューマニスティックな感情(怒りや悲しみ)を吐露しつつも、それが表面的な憐憫を買う程度のものであれば、デヴィッド・ハモンズ同様、彼らはピノ−の館への収蔵を許される。マジョリティのシニシズムではないが、マイノリティの不徹底なヒューマニズムの作品として、資本の霊廟に安置されるのである。
ピノー・コレクションのアラブ・中東の作品が、感情を介して社会性に訴えながら、その実、社会性を抜き取られた表現だったとすれば、メキシコ・パビリオンのメラニー・スミスは、社会性を視覚的に突き詰めて考察し、本気で社会変革(革命)を意志しているように見える。まず彼女は、変革の主体である民衆の力量を測定ことから始める。ラテンアメリカでもっとも人気のあるスポーツのサッカースタジアムに人々を集め、応援の模様を再構成してみせる。社会的変容の原動力である人々の熱狂は、どこまで盛り上がるのか? 案の定、気まぐれな観衆は徐々に飽き始める。そして、遂には解散していく。民衆を国家に統合すること(ナショナリズム)の不可能を実証していると解釈されるこの作品は、社会変革の過程で起こりうる事態をも予期している。つまり、大衆の次元の集合では、個人の無力な孤立状態を克服できず、ラディカルな社会変革は達成できないのだ。次に、彼女の描く絵画の形象は、動物(猿)のようにも見えるが、無定形のカオスの力を表現しているのではないか(これは、スタジアムの民衆が一時的に発散するエネルギーと同じものである)
以上で明確なように、スミスは社会に対してリアリストだが、同時にロマンティストでもある。それを如実に示すのが、さまざまな日常的オブジェを蒐集して陳列した《379 Thoughts on Insubstantial Subjects and Matter》 の考古学的社会研究の韜晦趣味を通り抜けて、会場の最後に辿り着く《Xilitla: Dismatled 1》とタイトルされた映像作品だろう 。その映像の冒頭は、メキシコの山岳地帯の美しい森林風景を撮影した素朴な記録のように思われるが、住民の姿や行動、古代文明の遺跡のような奇妙な未完成の建築、鏡や花火といったイメージの洗練されたコラージュを畳みかけるなかで、非現実的な不穏な雰囲気を漂わせるようになる。このシークエンスが、次第に鑑賞者の意識を揺さぶり昂揚させていく。これが、個人や大衆の次元を越えるカオスの力の顕現であり、あらゆるラディカルな社会変革(革命)に同伴するパワーの源泉であることに気づくのに時間はかからない。この意識の昂揚を導くのが、理念の光である。この作品で、理念とは「解放」、つまり、この地域に住む先住民という抑圧された人間たちの解放であり、それが、人類全体の解放と呼応しながら、人間の根底に横たわるカオスと響き合うのである。
2009年、テレサ・マルゴレスがメキシコにおける不可解で残酷な事件(アメリカの国境近くで多くの女性が殺害されている)を告発した衝撃的な作品を発表して二年後、まったく同じパビリオンで、メラニー・スミスが出展した作品こそ、「社会性」のアートが向かう道を指し示しているのではないか。その意味で、2011年のヴェネツィア・ビエンナーレの結論(真髄)と明言してよい作品だろう。そしてそれは、アートは民主主義を実現できるかという「社会性」にとっての究極的な問いへとつながっていくのである。