フォーカス
ヴェネツィア・ビエンナーレの過去と未来──「社会性」のアートに向けて
市原研太郎(美術批評)
2011年07月15日号
アルセナーレの「ポスト」──ポスト・スペクタクル
では知性の光は、どのように企画展の作品に伝搬され浸透していったのか? とくにアルセナーレでの展示は、最近のビエンナーレにはない刺激的な素晴らしい出来になっていた。会場の最初から最後まで、ひとつの物語が綴られているかのようなのだ。シーンごとに配置された作品に、光の反射と言うべき「ポスト」という接頭語が付くおまけまであって。アルセナーレのメインの入口から近い順に作品(すべてではないが)を列挙してみよう。
1──「ポスト」パビリオン
本ビエンナーレではパラ・パビリオンと呼ばれる。ソン・ドン
とフランツ・ヴェスト がパラ・パビリオンをつくって、自身の作品と他のアーティストの作品を同居させている。結果、自分と他人の作品の見分けがつかなくなる。ポストには、反省と変革の意味も含まれる。パラ・パビリオンでは、既存のパビリオンの使われ方を再考すると同時に、創造行為における個人から集合体への移行が提起されているように見える。
2──「ポスト」脱植民地主義
イト・バラダ
、ダヤニタ・シン 、ニコラス・フロボ 。バラダは、モロッコにおける家族の物語を写真や映像でドキュメントするのだが、そこには虚構が混じっている。シンでは、現実の脱植民地世界と夢のそれとが対照される。フロボは、南アフリカの人種差別以後の未開と野蛮の結合を直栽に示す。
3──「ポスト」社会主義
ローマン・オンダック
、アンドロ・ウェクア 、バードヘッド 。社会主義以降の社会の実態を、オンダックは人間たちの行動(ある場所に人々が集まってくるのだが、なにも起こることなく再び散り散りになる)で、ウェクアは建築模型(薄っぺらで無味乾燥だが、材料を濫費している建物)で、そしてバードヘッドは、改革開放以後の中国の活力ある現在の姿で描き出す。
4──「ポスト」マイノリティ
ラシード・ジョンソン
、モハメド・ブールイサ。(3)と同様、「大文字の他者」(父性的権威)なき時代の社会の諸々の位相((4)の場合は暴力と荒廃)を表現する。(3)と(4)の光は、中央パビリオンに出展されたナサニエル・メラーズのヴィデオ“Ourhouse Episode” へと屈折する。それは、狂気が我が物顔に振る舞う大文字の他者なき世界を映し出す。
5──「ポスト」脱産業社会
アイダ・エクブラッド
の絵画や彫刻は、貴重品ではなく廃棄物であるフェティッシュ化された素材の重苦しさがまといつく。それによって輪郭を与えられた楽園へのゲートは、大量廃棄時代の憂鬱のアウラに包まれる。
6──「ポスト」ファッション
マイ=トゥ・ペレ
、ルカ・フランチェスコーニ 、ニック・レルフ。三者とも、ファッションに由来する素材を用いながら、ファッションから逸脱する道を模索する。彼らが目指す世界に、共通して空虚だが生々しい息遣いが感じられる。
7──「ポスト」多文化主義
マリアナ・カスティーヨ・デバル
、エミリー・ウォーディル、ゲデウォン(中央パビリオン) 。メキシコの古代文明であれ、ヨーロッパ中世のキリスト教文化であれ、エチオピアのシャーマニスティックな魔除けの図柄であれ、中心/周縁図式のない文化的表象を描く。
8──「ポスト」写真
アネット・ケルム
、ジャン=リュック・ミレーヌ 、エラッド・ラスリー 。以下(8)(9)(10)は、既存のアートの表現形式に疑問を投げ掛ける作品である。ケルムは再現機能、ミレーヌは光学器械のミス、ラスリーは三重の反映で、写真とは何かと問い掛ける。
9──「ポスト」絵画
ライアン・ガンダー
。モダンの絵画が色面の組み合わせだとすれば、逆に要素に分解し任意に並置する。絵画とはなにかというガンダーのオシャレな問いの前で、思わず笑みが零れる。
10──「ポスト」彫刻
レベッカ・ウォーレン
、ファビアン・マルティ 、シャリヤー・ナシャット 。ウォーレンは、さも具象あるいは抽象であるかのような彫刻。マルティは、現実世界からの引用ではない、段ボールを積み上げた巨大な構築物と押し潰された陶器。ナシャットは、石のベンチの端に置かれた奇妙な立体。それらのフォルムが、彫刻に対する反省をうながし、既存のカテゴリーを動揺させる懐疑がもたげてくる。
まとめておこう。以上10個の「ポスト」は、ポストモダンのポストとは異なる。なぜなら、後者のポストは、リオタールが言うように、モダンを否定することでモダンのパラダイムの要素である新しさに回収されてしまうからである。言い換えれば、モダンとポストモダンは循環する。それに対して、ポストモダンの後に来る「ポスト」は、ポストモダンを否定しない。オブジェクトレベルからメタレベルに上って、距離を置いてポストモダンと相対する。すなわち、反省的にポストモダンに接する。それは問い掛ける。ポストモダンとはなにか、と。しかし、その本質があるとも、ないとも答えない。ただ疑問を発するのみである。それだけなら、この「ポスト」は、またぞろ新手の表現と言われて、ポストの無限後退に陥ってしまうだろう。だが、ポストにポストを追加する行為は、逆に、モダンに舞い戻る口実を与えるポストモダンのポストを取り除く。ポストの解除は、新しさの基準を奪うだけではない。その作用は、内容にまで達する。つまり、表現が扱う主題を、新しくも古くもないものとして提示するのである。その内容とはなにか? その本質は「社会」である。表現によって、モダンとポストモダンの内実が露わになるからである。
これらの「ポスト」は、モダンとポストモダンの「以後」の物語と規定できるが、それは同時に、「ポスト」スペクタクルでもある。その表現は、外見上派手でも目立つものでもない。だからだろうか。キュレーターは、「ポスト」の作品を生真面目に鑑賞してきた来場者が、息を抜く気晴らしの作品を、終わりのパートに用意してくれた。それが、コルデリエ(Corderie)と呼ばれる長い柱廊の一番奥にある、ウルス・フィッシャー からクリスチャン・マークレーまでの作品群であり、文字通りスペクタクル形式の表現である。ただし、これらの作品はスペクタクルを全面的に肯定するのではなく、スペクタクルを装いながら、それを批判するという仕組みになっている。フィッシャーの蝋製の彫刻自体はスペクタクルだが、それは蝋燭になっていて、焔に溶けて次第に落ちてくる。光がスペクタクルを駆逐するのだ。マークレーの《時計》は、もうひとつの金獅子賞に輝いたが、時刻をリアルタイムで表示する映画のコラージュで、ダグラス・ゴードンの《24時間サイコ》と同様、24時間の長編映画である。これが、スペクタクルを自壊させる。リアルタイムの時間形式は、その中身がスペクタクルでも、スペクタクルになりようがないからである。超大作の映画の主題である時間が、物語のスペクタクルに歯向かい、内側からそれを食い破るのだ。
以上で、企画展の全作品を網羅したことにはならない。しかし、私はビエンナーレを通じて、時代の兆候(未来)を調査することを、文章を書く目的にしているので、最後に、中央パビリオンのティントレットの絵画と、その裏のスペースに投影された オマー・ファスト
ティントレットの絵画の近くにある、この作品とメラーズのヴィデオは、光に対比される闇の世界(映写室)で、象徴的にティントレットの世界を裏返して見せる。ティントレットの絵画が代表する光とは、物理的(科学的)現象である以上に、宗教的(聖なる)かつ理性的(論理的)な光である。ティントレットの絵画の主題は、言うまでもなく宗教的物語(聖書)であり、そのダイナミックな構図は、独特の幾何学的形態から容易に合理的な思考の成果であると認められるからだ。それに対してファストとメラーズの作品は、それらの光がかき消えた世界に顕著な事象を描き出している。ファストは、事実と虚偽が等価で、現実と虚構の境界が不明瞭になった世界、メラーズの物語のプロットは、大文字の他者が退出した世界の理性の歯車が狂った出来事である。この二つの事象に、複数の小さな権力同士のコンフリクトを付け足せば、光(大文字の他者)の消えた時代の日常が見えてくるのではないか。かといって、現代社会が、その光を簡単に取り戻せる状態にないことは誰の目にも明らかなのだが。