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手と心の触感──向京の「この世界は良くなるのか?」展と「手で触れる」展

多田麻美

2011年11月01日号

自然界に触る

 一方、「異境」シリーズで取り上げられているのは動物だ。
 「人間性とは複雑なもの。人間性のなかには悪いものが多すぎる。システムも人間性の悪いところを利用している。でも人間性に対してどんなに悲観的になっても、やはり最後には人のことを信じた」と語る向京。「異境」シリーズで対象とされているのは、馬や象など、動物のなかでもとりわけ善良で性質の優しいものばかり。「その性格は草や木に似ていて、人の性質に対して信頼を寄せている。彼らを選んだのは、その姿を通じ、観る人のなかにもっと善意がわき起こればいい、と望んだから」と向京。


写真5 会場風景[撮影:張全]


写真6 向京《異境─この世界は良くなるのか?》2011年[撮影:張全]


写真7 向京《異境─白銀時代》2011年[撮影:張全]
写真8 向京《異境─唯岸是処》2011年[撮影:張全]

 一見リアリスティックに見える動物だが、その寸法は若干自然界のそれとは異なっている。まなざしもどこか人に似たものだ。そのことを感じとった瞬間、人と動物との間の関係や距離とは何なのか、という疑問に観る者はぐいと引きずりこまれてしまう。そして向京自身も、「動物を前に凝視と思考をする時、人間のなかの自然に属する部分をめぐる経験を深めることになる」と述べているように、意識のなかで自分と自然界が接触しあうような感が深まっていく。
 「異境」シリーズの片隅には、犬に向かって手を長く伸ばした女の子が登場する。この作品について向京はこう語る。「手が長い女の子と犬の間には、関係の変異や互いに抵触するものがある。一つひとつの個体には、すべて対立する面がある。けれども人と人、人と動物、動物と人などの間には繋がりもある」。まさに触らんとしつつ、直前で止まったその手は、他の「異境」シリーズよりさらに直接的に、人と他者との関係を「触感」の予感とその「不可能性」への恐れの形で伝えているかのようだった。

融け出す境界

 作者向京は今回のシリーズについて、「制作には長い時間を費やした。以前の作品づくりにおいて感じていたような、精神的に満ち足りた感じはなく、とても苦痛だった」と語る。その痛みは作品からだけでなく、展覧会のタイトルからも十二分に伝わってくるものだ。
 この「世界は良くなるのか?」というタイトルは清末から1980年代後半までという激動の時代を生きた思想家梁漱溟とその息子の対話から来ている。梁はこの対話についてこう記している。「生命とは心であり、心が物の上に現われたものであって、心と物の争いである。歴史(宇宙史)とはずっと心の物に対する争いだった。一回一回と無数に繰り返し、一歩一歩と無数の歩を進めては、物を征服し、物に頼り、物を利用しつつ演ぜられてきたものだ。だが深く自己を理解し、自己に対処する方法を得てこそ、人は知恵がなく下等である状態を超越できる」。拙ない訳で恐縮だが、物との争いを放棄して「心」に戻る時、人と動物との境は融解を始めると考えれば、その時人は無防備になり、周囲の環境がもたらすあらゆる痛みにも敏感にならざるをえないはずだ。

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