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「直後」のリアリティを世界へ──国際交流基金巡回展「3.11──東日本大震災の直後、建築家はどう対応したか」企画監修者:五十嵐太郎氏に聞く
五十嵐太郎(東北大学教授/建築史、建築批評)
2012年03月15日号
提案は、被災に対して実践的なものですか。
五十嵐──結構いろいろなタイプの提案・試みがあって、国土計画や都市計画に及ぶユートピア的なアイデア・レベルのものから、現場での日曜大工みたいなものまで、混在しています。ただ、傾向としては、仮設住宅のセクションでは、実現した事例が中心になっているので、結果的に実践的なものが多いかもしれません。先ほど言った第三段階のものは、今ようやく始まったものなので、どうしてもアイデア的なものが多くなっています。それはタイミングの問題です。もう少し時間が経った時点でまた新たに本がつくられたり、展覧会を組んだりすれば、ここも実践的なものを増やせたと思います。今の時点では第三段階のプロジェクトは「これからの話」です。
第三段階の提案やプロジェクト、あるいはいまできつつあるものと、3.11以前のそれとは違いのようなものがありますか。
五十嵐──大きな自然災害があった後、それでも沿岸に住むとして、巨大な堤防をつくって対抗しようという案は基本的にありません。建築の人は、スーパー堤防を作ってブロックするような案はあまり出していませんね。平野部に避難ビルのような人工的な高台をつくってすぐに逃げられるようにするとか、減災の観点からつくる街づくりの提案は、これまでそれほどなかっただろうと思います。
あと「記憶」についての提案も違います。例えば、東京工業大学の塚本由晴研究室の、100年、200年のスパンで津波の記憶を残すということを最初から提案に織り込む景観の提案も、これまではあまりなかった視点だと思います。また重松象平さんや藤村龍至さんのように、3.11をきっかけに、国土計画レベルでパラダイムシフトを考えようという提案も、それこそ1960年代のメタボリズムまで遡らなければ見かけないものですね。
一方で、アーキエイドや雄勝スタジオなどは、小さな集落に入り込み、ヒアリングをして、個別の違いや状況を反映したていねいな提案をしています。もちろんこれまでに集落の提案がなかったというわけではないのですが、集落が沢山被災している中でまだ誰も手をつけていないこともあり、顔が見える集落に入っています。そのような個別の提案というものも、これまではあまりなかったんじゃないかと思います。
阪神・淡路大震災の後にはヴェネチア・ビエンナーレ日本館で磯崎新さんたちが瓦礫を運び込んで「亀裂」という展示をやりました。今回は、伊東豊雄さんたちが「ここに、建築は、可能か」という展示をやることになっています。両者の取り組み方についてどうお考えですか?
五十嵐──伊東豊雄さんがビエンナーレのコミッショナーに選出された時には、「みんなの家」をベースにして建築の根源に立ち返るみたいな話でした。つまり、これまでの建築的なデザインの「勝ち負け」のゲームをリセットして、根源的に建築のあり方を考えるということです。例えば、「みんなの家」であれば「人が集まる元に立ち返ろう」ということでしょうか。ですから、リセットの後に新しく始めようということです。
これは、海外の建築的な文脈で言えば、「原始の小屋」の話に似ています。つまり、18世紀にロージエによって、建築が始まったような想像上の小屋の絵が描かれ、そこから新古典主義、モダニズム……、と新しい起源に即応することによって建築が刷新されるようなムーヴメントです。そういった歴史が過去にあり、おそらくそのような文脈で読み取られるのではないかと僕は思って聞いていました。ただ、とても素朴な小屋という見えになっています。それは18世紀の時も同じで、ただの小屋のイメージでした。
磯崎さんは世紀末感覚が強いというか、1990年代の半ばだったこともあり、やはり「建築の解体」だったと思います。磯崎さんがコミッショナーとして関わった展示や、彼の影響下で組まれたプログラムは、「亀裂」(1996年)であったり、「少女都市」(2000年)、森川嘉一郎さんの「OTAKU:人格=空間=都市」(2004年)にしても、共通するのは、従来の建築の終わりのイメージです。磯崎さんが、1960年代にハンス・ホラインらの知人の建築家とやっていたことを、1990年代には若い人を使って、再演したと思います。ちょうど阪神・淡路大震災はその中で照準があったのだと思います。
伊東さんは「建築の終わり」というよりは、「始まり」、そこから始めなくてはいけないというところが違うと思います。プロジェクトは、畠山直哉さんの導きで、メンバーが陸前高田に入って、いろいろと展開しているようですが。
伊東さんの言う「建築の始まり」は今回の震災を経てのものだと思いますが、建築における「勝ち負けのゲーム」は終わったという認識は、いま、共通なものになりつつあるのでしょうか。
五十嵐──わからないですね。伊東さんがやっていることはきわめて真摯ですが、一方でこれまでアヴァンギャルドなデザインをやっていた建築家が、三角屋根で縁側の付いた小屋をつくっていることに対して、皆さん戸惑いを感じていると思います。2012年の卒業設計日本一でも、審査委員長の伊東さんに対して、塚本さんや重松さんらの世代は違う感覚をもっていた。昨年12月31日に放映されたNHKのドキュメンタリーで、伊東さんが釜石の住民向けに見せた集合住宅のプロジェクトも、大きな合掌造りのような屋根がありました。それがどうムーヴメントになっていくのかはわかりません。それは、メタボリズムへの先祖帰りのようでもあり、ある種ベタな共同体のシンボル的な大屋根です。ただ、「せんだいメディアテーク」でも「TOD'S表参道ビル」でも、近代建築が無視した「シンボル」を意識していた。あの樹木みたいな形がシンボルとして機能すると。このときは、最先端のテクノロジーを使っていたので、アヴァンギャルドだったわけですが、みんなの家はアクロバティックな構造をもっているわけではない。ただ、斬新な構造を競うこと自体が、社会性と隔離した建築のゲームかもしれない。
震災後、すべての建築および建築家がそうだとは思いませんが、「社会性」というようなことが言われるようになったと思います。「社会との関わり」という声が大きくなった。今は、いわゆる造形だとか、建築の持っている芸術的な側面はあまり求められていないのかもしれません。山崎亮さんがやられているような「コミュニティ・デザイン」、人と人との繋がりへの関心が強くなっていると思います。造形的な部分がどうでもいいということはないけれど、反発を受けやすいので、意識としてはコミュニケーションや関係性にシフトしているように思います。
アートについては正直まだよくわかりません。アーティストはいろいろと心の中でショックを受けていて、それをどう表現するかまだ悩んでいるのだと思います。そもそもアーティストは報道写真家ではないので、即座に反応しなくていいと思いますし、直接的に表現する必要もないとも僕は思っています。
ただ、一方でよく言われているように、被災地で起きていることは人間の想像力を簡単に超えてしまいます。地震では垂直方向に壊れますが、津波は横方向にかき混ぜてミキサーでぐちゃぐちゃにしてしまうので、場所が変わってしまうし、本来出会わないものが出会ってしまいます。壊れ方も、地震は下に崩れるという意味ではある程度想像可能なのに対して、津波は場所が剥奪されてミックスされてしまうので、シュルレアリスムや暴力的な表現として考えられていたものよりもすさまじいものが現実として起き、さらにそれらが大量に写真や映像で記録され、見させられてしまう。ですから、生半可な表現はできないという暴力的な現実があります。自然災害によって横方向にミックスされることで、人間の想像力の及ばない奇跡的な風景や状況を生み出していて、意味の組み換えを簡単に起こしています。そして正直、美しいとさえ、思うこともありました。アートには、そういった本来出会わない物と物の出会いや、意味や文脈を組み替えること、ずらすことにひとつのおもしろさがあると思いますが、それを簡単に越境してしまうような意味・場所の交換・置換が起きているので、その手の表現は生半可だと、厳しいだろうと思います。
最後に五十嵐さんが芸術監督を務める2013年の「あいちトリエンナーレ」についてうかがいたいと思います。これは震災がテーマではありませんが、どのような形で作用していますか。
五十嵐──基本的に、震災トリエンナーレではないので、震災を直接表現したものばかりにはなりません。もちろんいくつかは、直接関連したようなものも出てくるとは思いますが。
全体のテーマは「揺れる大地—われわれはどこに立っているのか:場所、記憶、そして復活」です。これは今だとどうしても地震を思い起こしてしまいますが、危機的状況やアイデンティティのゆらぎなどもっと広い意味で解釈してもらいたいと思っています。たとえば政治的な変動がアフリカで起きていますし、海外でも沢山起きていることでいろいろな読み替えが可能です。これまでよって立つ自明だと思われていた枠組みが大きく崩れること。国際展において日本の話だけをしてもしょうがないので、海外の作家でもそういった制度や枠組みが変わっていることに対して共振してもらえれば、そういった作品が出てきます。
一方で、震災があった後の都市型の芸術祭としては初めてのものになります。横浜トリエンナーレは実質的に間に合わなかった。震災前に作品が決まっていましたし、そもそもテーマとも無関係です。越後妻有トリエンナーレは都市型ではなく、別の意味を持っています。
初めて震災を正面から受け止めるタイミングで開催される芸術祭、そのことも僕が芸術監督に選ばれた理由のひとつだろうと思います。テーマは地震のメタファーですが、普遍的な読み取りをしてもらえれば、海外の作家も出られます。
「場所、記憶、そして復活」と入れたのは、そもそもあいちトリエンナーレとして、まちなか会場などの場所を発見していく側面がありますし、東日本大震災が明らかにしたのは、場所ごとに被災の状況がそれぞれ違っているということです。固有の場所性がすごく明らかになりました。そういう意味で「場所」と入れています。「記憶」は、アートが持っている重要な可能性はそこにあるのではないかと思っているからです。アートによって暮らしが便利になるとかいうことはあまりありません。建築家は「仮設住宅をこうすれば便利になる」というような生活への介入ができますが、アートはむしろ記憶、つまり人類が経験したことを未来に伝えていくメディアとして最も強力なものです。ラスコーやアルタミラの壁画もそうですし。言葉よりもアートの方が長い記憶を継続して未来へと繋ぎます。アートの可能性はいくつかあって、そこにはコミュニケーションも含まれますが、記憶装置として大きな意味があると思っています。今回は特に津波は確実に反復性があるということ、現在の技術では地震も津波も止められないのだから、残念ながら、将来においても、われわれが忘れた頃にまた発生します。先ほどのまちづくりにどう記憶という要素を入れるかということにも関連しますが、アートのそういった役割が特にフォーカスされるといいなと思います。
「復活」と入れたのは、復興だと物理的・経済的な側面が強すぎるので、もう少し精神的な意味での立ち直りという感じを含むためです。これは僕らが彦坂尚嘉さんと手がけた南相馬市の仮設住宅地のプロジェクトでも、こだわって使っていた言葉です。ここには「復活の塔」を建設しました。芸術祭で物理的・経済的な復興というのは違うと思ったので精神的な意味で「復活」という言葉をあえて入れています。
国際交流基金巡回展「3.11−東日本大震災の直後、建築家はどう対応したか」展
あいちトリエンナーレ2013
関連記事:2012年3月15日号 特集「3.11以降のアートシーン──震災から1年を経て」
[特集]震災、文化装置、当事者性をめぐって
──「3がつ11にちをわすれないためにセンター」の設立過程と未来像を聞く
甲斐賢治(せんだいメディアテーク)
東日本大震災発生直後の混乱のなか、せんだいメディアテークは市民が自分たちの暮らしを記録するためのメディアセンター「3がつ11にちをわすれないためにセンター」を立ち上げました。その設立プロセスとその後の展開の様子はソーシャルメディアを通じてライブで発信され続け、現在も興味深い活動を続けています。...
[特集]artscapeでみる「3.11以降のアートシーン」
artscape編集部
東日本大震災から一年が経過しました。artscape2012年3月15日号では、3月の地震を美術や建築の側面から考えるためにふたつのインタビューを掲載します。また、この一年の記録として、2011年4月1日号から2012年3月15日号までに掲載した震災に関係するレビュー等をまとめました。...