フォーカス
明かされるイリヤ&エミリア・カバコフのアート&ライフ ペイス画廊での個展とドキュメンタリーフィルム初公開
梁瀬薫
2014年01月15日号
2013年米国プレミア、ドキュメンタリーフィルム
“Ilya & Emilia Kabakov: Enter Here” by Amei Wallach
( Edited by Ken Kobland Co-Produced by Jipjaz Savoie )
「私にとって『敗者』の側面というのは何かというと、まず人は生まれながらにして根本的に敗者なんだ」─イリヤ・カバコフ。
スターリン政権下で生き抜いてきたロシアが誇る国際的アーテイスト、イリヤ・カバコフとエミリア・カバコフ夫妻チームの長い道程を追ったドキュメンタリーフィルム『Enter Here(ここに入る)』がニューヨークで11月に公開された。監督はルイーズ・ブルジョワの「ザ・スパイダー、ザ・ミストレス、アンド、ザ・タンジェリン」を手がけた映画監督でもあり、美術評論家でもあり、作家でもあるアマイ・ウォーラック。フィルムでは夫妻の人生を追いながら、カバコフのコンセプチュアル・アートの根源を探っていく。「作品の中を進んでいくと、自分がどこにいるのか、出口がどこなのか忘れてしまう。そしてコンテクストが見えなくなったときにだけアートの重要さがわかるんだ」とカバコフは淡々と語っていく。「完全なるインスタレーション」を目指しているというカバコフの作品は、しばしばウォーラック監督も語るようにラビリンス=迷路だ。
さて、フィルムは2008年モスクワでの華やかな展覧会オープニングシーンで始まる。レーニン崩壊後の西洋化された新しいロシアだ。共同主義、国有主義、官僚政治、服従そしてプロパガンダを知らない世代にカバコフのアートは受け入れられるのだろうか? 彼の巨大なインスタレーションはビルの建築さながら、セメントや電気工事が必要だ。西洋化したモスクワでの回顧展実現は容易ではない。連日交渉をするのがエミリアだ。完璧なチームワークと言える。また、フィルムは子どものために人生を犠牲にした、イリヤの母親のストーリーを追い、私たちには想像もできない厳しい日々のなかで、人が生きていくということが浮き彫りにされていく。そしてアートは何を意味するのかという疑問がクローズアップされていく。1992年のドクメンタにも出品された《トイレット》はウイットに富みながら、カバコフ芸術を語るうえでは重要な作品と言える。コンクリート壁の古い公衆トイレにリビングルームをつくった作品だ。薄汚れた内部、穴だけのドアのないトイレ。臭いさえしないものの、誰もが想像できる類いの場所だ。そこにベビーベッドからソファーセット、棚などが置かれ、洋服が散乱するなか、読みかけの本がベッドサイドに置かれ、食べかけの皿までセットされている。あたかも普通の日常生活がそこで営まれているかのようだ。トイレという日常のなかでは究極のプライベート空間が公衆化されるとき……。
「ソ連での生活は葬られた日々だった。毎日が雨期だった」─イリヤ。
「イリヤは子どものころからよそ者のようだった。この社会に属していなかった」─エミリア。
イリヤの母親は少しでも子どもの近くにいたいという一心でモスクワに移るが、居住許可を持っていないため、あらゆる場を点々とする。公衆トイレでの寝泊まりから心ある者の庭先でのキャンプ、あるいは見知らぬ者の家。何度も通報される辛い日々が続いた。イリヤは母の執拗なまでの愛が精神的に負担でもあり、また母親の存在がすべてでもあった。後に母親に記憶を留めるよう頼み、ノートいっぱいに回顧録が書かれた。これをもとにした作品は、最もエモーショナルなインスタレーションとなったのだ。
またカバコフは、ソビエトの生活にある公共の顔(国家のプロパガンダのファンタジー)とドアを閉ざした個人の生活を取り上げる。作品に度々現われるドアはそのシンボルだ。「国が提供する画廊は、KGBが前衛芸術家に目を光らすためだ。しかしそこにはいつもドアがあって、それは異なる経験、異なる時空、他の人生への入り口なのだ」。
「わかる? 私はソ連を去ったのよ」と静かに語るエミリアの背後にロングアイランドの真っ青な海が太陽の光を反射し、輝いていた。