フォーカス
鼎談「アジアで、しなやかなネットワークを築く」
大友良英/相馬千秋/崔敬華
2015年01月15日号
ヨーロッパで問われた日本人性
──次は、大友さんからうかがいたいと思います。
大友──何から話せばいいかな? 二人とはかなり違うかんじだけど、アジアとのおつき合いからしゃべればいいかな。オレ、最初のCD出したのは香港だし、映画音楽は中国映画からで、お付き合いはそれ以前からだから、かなり古いんです。田壮壮監督『青い凧』★12 、1993年。中国映画が最初の劇伴で、その少し前に香港から最初のリーダーアルバムを出したんです。
崔──なんでですか?
大友──でしょう? そう思いますよね。話をぐっとさかのぼっちゃうと、1981年の学生のころ、そのころは今みたいにネットをあされば何の音楽でも手に入る時代じゃなくて、でもいろいろな地域の音楽を聴きたくて、それで、もぐりで民族音楽の授業に出たんです。その授業を担当していたのが江波戸昭先生★13 という、経済地理学が専門だけど、民族音楽もやっていらっしゃった方で、そのときに先生が中国に調査に行くというので、くっついて行ったのが中国との出会いです。民族音楽という言葉も、今となってはかなり問題ある言葉だと思うけれども、当時は欧米や日本の音楽以外のものを総称してそういう言い方してたなあ。その調査が初めての海外旅行だったんです。
相馬──国交を回復してわりとすぐの頃ですね。
大友──そう。一般の外国人が初めて入れたころ。まだ人民服を着ている人が多かった。行ったのは、ベトナムのすぐ向かい側のハイナン(海南)島と呼ばれているところで、そこは今中国のハワイと呼ばれる観光地になってるけど、当時はまだ外国人はほとんど入ってなくて、それどころか電気もない場所もあった。もう夢のかなたの記憶だけど、学生ですからね、修学旅行みたいなもんで、楽しかったなあ。それが1981年で最初のアジアとの出会い。せっかくだから、論文も書きました。学生だから大したことないよ。でも、「中国の文化大革命下の音楽」というのを書いて、対になるように「日本の戦時下の音楽」というのも書いて。「日本の戦時下の音楽」は明治大学商学部のその年の優秀論文のひとつに選ばれたんですよ。でも、オレ、文学部だったし、授業も正規ではとってなくて、ゼミではただのもぐりの学生だったんだけどね。おおらかな時代ですよね。
崔──すごい。
大友──その後、もうひとつ大きな出来事があって。あのころ、本名宣言というのがあったんです。在日の方が、今まで使っていた日本名ではなく韓国朝鮮名を名乗る、そんな運動です。そんなこと他人事だと思っていたら、一番の大親友で、ずっと音楽一緒にやってきた林ってやつが、ある日突然「大友、話がある。おれは実はイムなんだ」と。何言ってんだ、こいつ、と。
崔──リアクションができないという、よくあるパターン。
大友──できない。ほんとうにできない。林って呼んでいたおれは何なんだ、と思うじゃない。「林と今まで呼んでいたのを変えるのは難しいかもしれないけど、おれはイムと呼ばれたい。努力してくれ」と言われて、仲よかったし、その切実さみたいなもんに心が動いたんでしょうね。オレは以後彼を「イム」って呼ぶようになったんです。このことが歴史のことを考える大きなきっかけになった。そいつとの関係は大きかったなあ。
オレは、もともとは即興演奏とか欧米のフリーミュージックと呼ばれているものにすごく憧れていて、80年代後半ぐらいからそういう人たちと演奏をしたりするようになりました。90年代に入ると実際に海外のそういうシーンでの演奏活動がすごく増えていって、当時は、アメリカやヨーロッパ、オーストラリアに行くことが多かったわけだけど、実際にそういうシーンの中で活動すると、まあ、必ずと言っていいくらい聞かれるんです。日本人性みたいなものを。でも、イギリス人が演奏していても、イギリス人性とか言われないのにね。逆に言えば、何でオレが当時ウケていたのかといえば、アジア人で、向こうでノイズや即興演奏の文脈の中で演奏してる東洋人は珍しかったわけで、おれはそのエキゾチシズムみたいなもんで売れていた部分もあるんじゃないかって思うんです。オレだけじゃない、ボアダムスとか、灰野敬二さん、ルインズ、みんなそうだったかもしれない。インターナショナルフェスティバルって言っておいて、欧米人だけになるよりは、多少はアジア人も入ったほうが国際的に見える……みたいなものもあったのかもしれない。そんなのもあってオレは重宝されたのかもしれない。もちろん音楽的にいい部分もあったからだと自分では思っているけど、でも、どこ行っても禅との関係とか日本性みたいなものを聞かれ続けると、本当に嫌になってきますよ。禅なんてやったことないですし。日本人性と言われるたびに、いつの頃からかこの機材はソニー、こっちはパナソニックって冗談で返すようになったけど。いまだにそうでしょう。
相馬──演劇とかいまだにそうです。
大友──そんななかで欧米が押し付けてくるアジアって何なのかみたいなものを否応無しに考えざるを得なかった。
中国映画、Far East Network結成からENSEMBLES ASIAへ
大友──当時のパートナーが香港に住んでいて、90年くらいから香港によく行くようになったんです。年に2〜3ヶ月はいたかな。香港にもきっとノイズとか、変な音楽をやっているやつがいるだろうと思って、音楽雑誌買うと、「雑音音楽」とか「地下音楽」とか出ていて、これだって思ったんです。そういう人たちにコンタクトとるようになって、香港でバンド組んだりライブやり出したりしたのが90年代初頭。自腹で自分で企画してましたよ。そんな中で、香港でインディペンデントレーベルをつくりたいという人と出会って、それでオレの最初のアルバムが香港のサウンドファクトリーというレーベルから出ることになったんです。多分これが香港初のインディペンデントレーベルだったと思うな。
このパートナーが映画会社に勤めていて、小さい事務所だったんだけど、社長が舒琪(シュウ・ケイ)★14 という映画監督でもありプロデューサーでもある人で、彼は中国映画を外に、カンヌ映画祭とかに出す仕事をやっていたんです。中国の第5世代と言われる映画作家たちを外に出した立役者の一人と言ってもいいのかな。第5世代の代表の一人でもある田壮壮監督が文化大革命前夜の話を中国で撮っていて、完成直前までいって許可降りずに、宙に浮いてしまったんです。これを日本で完成させたいという話があって、そのときにパートナーが勤めていた関係で、オレに音楽をつくらないかって声がかかったんです。なんだかわけのわからない音楽をつくってるみたいだからおもしろいかもってことになって、大友にやらせてみようってことになったのが『青い凧』に僕が関わることになったきっかけなんです。当時は全く映画音楽の経験なんてなかったんだけど、やってみたい気持ちはずっとあったんで、もう右も左もわからないまま受けたんです。でも自分で言うのもなんですが、すごくいい仕事が出来たと思ってる。カンヌ映画祭で大評判になりました。これが最初の劇伴の仕事です。
そうだ、同時期に韓国にも何度か行ったけど、言葉が通じなくて難しかった。韓国と繋がっていくのはもう少しあとになってから。香港で活動が出来たのは、英語が通じる場所だったてのが大きかったと思う。さっき相馬さんが言ってたとおりで、アジアって共通の言語がない。ヨーロッパの音楽シーンにいると、みな下手でも英語でコミュニケーションするようなところがあって、共通の言語があるのとないのとでは、いくら音楽であっても全然違うと思う。アジアといっても広いけど、まあ、東アジアや東南アジアを例に出しても共通語はないわけで、そうすると、その地域の言葉を話す以外は、下手くそでも英語を使うしか、オレには方法がない。
90年代後半になって、韓国のミュージシャンたちと共演する機会が増えたけど、言葉が通じにくいのはネックになりました。でもまあ、即興演奏のいいところは言葉が通じなくても、互いに敬意さえあれば一緒にやれるんですよ。そのころは姜泰煥(カン・テーファン)さん、亡くなっちゃったドラムの金大煥(キム・デファン)さんたちと日本や韓国でよくやるようになって、金さんは日本語が出来たけど、姜さんとはかなり片言かな。で、僕の同世代の朴在千(パク・ジェチュン)という人とも出会って、よく一緒にやるようになったんです。演奏は文句なく面白かったけど、なかなか深い話ができなくて。それで一度だけ通訳をお願いして会話したことがあるんです。そのとき、初めて知ったことがあったり、意見がずれたりしてるのにやっと気づいたり。でもそういうディスコミュニケーションも含めて、僕らはいっぱい経験したほうがいいと思うんです。
2000年代に入って、朴在千と何度か韓国でライブをやっているときに、僕よりもずっと下の世代の若者がやってきて、ノイズが好きだと言って、CDRをくれたんです。それがノイズ系の内容で。おお、来た、来た、来たー、ソウルにもいたぞー。やっと出て来たぞって感じで。それまでフリージャズ的なものや即興演奏的な僕と同世代かそれよりずっと上の世代の人しかいなかったのが、もちろんそれはそれですごく個性的で素晴らしいんだけど、でもそうではない人たちが出て来たぞって感じで。それがチェ・ジュニョン、ホン・チュルキ、ジン・サンテ、リュウ・ハンキルといった今すごい仲よくなっている人たちで、当時は、学生だったり、ほかに仕事持っていて、ノイズをやっていたり、もともとポップスをやっていたのに、それではもの足りなくて、こっちに来た人だったり。
中国は、1994年に1回、北京ジャズフェスティバルというのに呼ばれてるんです。ドイツのゲーテ・インスティテュートが主催のフェスで、1000人くらいはお客さんがいたかな。そこでギャーッてギターソロをやったら、演奏が終わった後に「いつ演奏が始まるんだ?」「サウンドチェックじゃなかったのか」と言われて……。
北京ではその後ももうひとつあって、98年か99年だったかな、香港のディクソン・ディーとSachiko M、そしてわたしの3人で、体育館みたいな1000人くらい入るディスコでライブをやったことがあるんです。もちろん音楽はディスコではなくて、1時間ピーって感じの、アブストラクトなものです。1000人の会場でお客さんはたったの9人。このとき中国との縁はこれでなくなったとほんとうに思いました。
でもその日の夜、その客のなかにいた詩人でライターのヤン・ジュンという青年が、ホテルのオレの部屋にやってきたんです。当時彼は全く英語がしゃべれなくて、ノート持って、漢字で二人で無言で、どこまで通じているんだと思いながらずっと筆談で話したんです。朝まで。そうしたら、そのあとヤン・ジュンは音楽を始めていて、数年後にネットに上がっているのを発見したんです。
崔──おもしろい。
大友──そうなんですよ。ヤン・ジュンはミュージシャンになってたんです。演奏もSachiko Mの影響から出発したような感じで。
崔──それがきっかけだったんですか。
大友──そうだと思います。のちのちヤン・ジュンは『WIRE』というイギリスの音楽雑誌にそのときのコンサートのことを書いたらしんです。歴史的なものだったって。9人しか客いなかったけど、でも、ヤン・ジュンにとっては大きかったんだと思う。実は94年の散々な思いをした北京のコンサートも、その後、そのコンサートを見て大きなショックを受けて、コンサートの企画をやるようになったって人と2002年にチンタオで会ってるんです。だからたとえ9人しかいなくても、誰からも理解されてないなって思ったとしても、何があるかわからないし、誰かには届いているかもしれないって、思うようになりました。
もうひとつ大切なのは、2001年にシンガポールで行われた、王景生の「フライング・サーカス・プロジェクト」★15に呼ばれたことです。王景生から突然電話がきて、会いたいと言われて、東京の喫茶店で会ったのがきっかけかな。王景生のことも「フライング・サーカス・プロジェクト」のこともよく知らなかったけど、シンガポールで何が起こるのか見てみたかったんで行くことにしました。そのときは、メレディス・モンクとか田中泯さんがいたり、中国の奥地からトラディショナルな音楽する人が来たり、カンボジアの影絵芝居の人がいたり、フィリピンでレゲエやっているバンドがきたり、本当にいろんな人が集まってワークショップをやったり、やりあったりしてました。小沢剛さんともそこで初めて会いました。このとき知り合ったのがシンガポールのザイ・クーニンです。初対面は大喧嘩でしたが、でもその後はオレにとっては一生の友人と言ってもいいくらいの影響を与えてくれました。そして、ここの会場にお客さんとして来ていたのが、まだ青年だったユエン・チーワイです。彼もその後ミュージシャンになりました。
そのチーワイが、2007年にアジアのいろんなミュージシャンを集めるフェスを企画したときに僕が呼ばれ、他にもソウル、ハノイ、ジョグジャカルタ等々いろんなところから十数人が集まって、シンガポールのエスプラネードで2日間にわたってセッションをしたんです。音楽的には失敗も多かったけど、だけど、お互いに知らない同士、ここで初めて出会ったってのは大きかったんです。さきほど話したザイもいたし、ソウルからはジン・サンテが、日本からは伊東篤宏も来てました。のちのち一緒に活動することになるインドネシアのヴェンザ・クリストもここで出会いました。
このときに、僕らはアジアって安易に言っちゃうけど、その言葉自体をちゃんと考えなきゃいけないってこととか、シンガポールの人は英語をしゃべるけど、そもそも僕らには共通語がないよねという話とか、音楽で一緒にやっていくってのはどういうことなのかとか、そういう話をいっぱいしました。彼がフェスをはじめる2年前の2005年から僕も日本で「アジアン・ミーティング」というフェスを始めました。なんの助成も受けずに、自腹とカンパを募って2005年、2008年、2009年の3回やりました。これについては、また後で話します。
その翌年2008年、フランスのマルセイユでMIMI (Movement International des Musiques Innovatrices) Festival★16という、20年以上やっている インディペンデントの音楽のフェスがあって、ディレクターのフェルディナン・リシャールから、アジアのミュージシャンでバンドを組んで、何かやらないかというオファーが来たんです。このときに結成したのがFENです。メンバーはシンガポールのチーワイ、北京のヤン・ジュン、ソウルのリュウ・ハンキル。何で彼らを選んだかというと、みんな音楽家であると同時に、それぞれの都市のキーパーソンでもあり、昔から私財も投じて様々な企画をやってきている。もちろん音楽家としてもおもしろい。それと、もうひとつ、みんな、いわゆるアジアのステレオタイプの楽器を使っていないんです。アジアというアイディンティティを前面に出すような音楽は、この時はやりたくないなって思ったんです。西洋人が望んでいるようなアジア像に貢献したくなかったし、そもそもアジア的なるものみたいな発想でいろいろなアジアの国の人が恊働で音楽をつくるってのは、かなりまやかし臭いなって思うんで、そういうことではない、そういうものに危険信号をちゃんと感じてくれる人たちと一緒にやるべきだって思ったんです。
そうやって選んだメンバーたちと、何の音楽を目指すかも決めずに、とにかく音を出そうというので始めたのがFar East Network(FEN)で、この名前は、アジアの人たちとバンド組むんだったらこれだと80年代から決めてました。もともとはFar East Networkって、アメリカの進駐軍の放送局のことだけど、僕は子供のころ、そこから流れるポップスにうきうきしていたんです。占領軍の放送でもあるけど、見方を変えれば解放軍の放送でもあるし、そんな歴史を知らない子供から見れば、ポップスの宝庫だったり。そもそもFar East Networkという言葉自体、完全に欧米中心主義でしょう。そのラジオ局が名前を変えたので、FENという名前が使えるなと。ヨーロッパの音楽じゃなく、別にアジア印も押さずに音楽をやるときに、この名前を必ず使おうと思ってた。いろんなシニカルな意味も込めているけど、でも、ある意味リアルでもあると思っていて。FENという名前で2008年にマルセイユで数日のリハーサルのあとMIMIフェスのステージに出ました。リハと言っても何かの音楽を練習するのではなく、ただ音をだしあって、あとはよく話し、よく食べ……という日々を過ごしました。一緒に同じ方向の音楽を目指すのではなく、僕らはまず知り合って、互いに話して食事をして……ってところから始めることが必要だって思ったからです。その後は、どこでもいいから呼ばれたらやるということにしてます。現在までヨーロッパのいろんな都市でやったり、ソウルでも、日本でも、北京でもやっていて、今年はシンガポールやタイでも演奏します。もうこれまでに何十というコンサートをやっていますが、毎回やることが違っているし、そもそもどんなふうになるかも、事前には想定しません。
もちろんライブですから、やっぱりアウトプットのクオリティがないとお客さんは納得してもらえないと思ってます。でも、その部分に関しては自分ではあえて何もジャッジしないようにしています。そのとき起こったことがいいとか悪いとかは、必要があれば聴き手が自分の力で考えればいい。それと、このメンバーであれば、いつだっておもしろいことが起こるに決まってる……っていう、まあ根拠のない自信みたいなものもあるのかもしれません。でも、いずれにしても、そうしたクオリティのようなものが問われる音楽のあり方ではなく、見方を変えれば完成した何かを目指すのではなく、僕らは、今初めて出会っていて、そこから何がはじまっていくのかを、やってる本人達が誰よりも楽しみにしているような、そんなプロセスをそのままステージにあげているような感じです。
ほんとうに十何年かかってやっとここまで来たなって思います。で、よーし、これからFENでいろいろやるぞ、と思ったときに震災が来ちゃったんです。震災直後は、もうアジアのプロジェクトは諦めなくてはって思ってました。それより、とにかく福島に入って頑張ろうと。でも、諦める必要なんてないんです。福島に入ってやってるようなことと、アジアでやろうとしてることは、そもそも地続きで繋がってるんだなあってことが、3年も福島で活動をしてると、逆に見えて来たようなところもあって、FENの活動も少しづつ再開してました。
2014年の春、国際交流基金がアジアセンターをつくる際に、ASEAN地域で音楽のネットワークをつくる仕事をしないかってオファーがきたんです。嬉しかったです。長年、ずっと個人でやってきたことが、こういう形で、公的にやれることになったわけですから。それで、アジアセンターでやることになったのが「ENSEMBLES ASIA」★17 というプロジェクトです。