フォーカス
10年後の余震
清水チナツ(PUMPQUAKES/インディペンデント・キュレーター)
2021年03月01日号
対象美術館
2011年の東日本大震災から間もなく10年。筆者はこの日を、メキシコ南部に位置するオアハカで迎えようとしている。このテキストを書いていた2月13日の明け方、仙台の義父からの電話が鳴った。その第一声は「また東北で大地震がおきた」。建物の軋む音が電話越しに伝わってきて、津波と原発についての心配事を手短に話し、安全を確保してもらうよう伝え電話を切った。その後わかったことは、今回の福島県沖を震源とするM7.3の地震は、あの10年前の大地震の「余震」であるということだった。仙台の友人たちに安否確認のメールをすると、「怖かった。身体が覚えていた」と返事があり、あの震災からの日々を内省する文面が続いた。この10年間という時間を考えるとき、確かにそれは「内省」の時だったと言える。しかし、不思議と振り出しに戻ったように感じなかったのは、傾注して取り組んできたことへの実感が、少なからずあるからだ。この10年間は「大きな出来事を経験した私たちが、信じるに足るものはなにか?」を模索する時だったとも言える。いまはまだその過程にあるけれど、その一端を振り返ってみたい。
アクションとしてのアーカイブ
10年前の3月。せんだいメディアテーク学芸員のポストを得て、仙台への引っ越しの準備をしていたときに大震災は起きた。私の最初の仕事は、市民、専門家、スタッフが協働し、東日本大震災とその復旧・復興のプロセスを独自に発信、記録していくプラットフォーム「3がつ11にちをわすれないためにセンター(以下、わすれン!)」の立ち上げとなった。開設に際して、スタッフ間で議論されたことは、「震災、文化装置、当事者性をめぐって―『3がつ11にちをわすれないためにセンター』の設立過程と未来像を聞く」(甲斐賢治/竹久侑 artscape 2012年03月15日号)に詳しいが、その後に続いた日々を振り返って思うことは、わすれン!にとっての「アーカイブ」とは、「アクション」であったということだ。具体的には、わすれン!では、「記録物を集める」というよりは、「記録を後世に残し、公に開く」という主旨に賛同する「人びとの参加」を募り、「寄せられた記録を道具として育てていくこと」に取り組んできた。「震災」という出来事を結晶化させていくのではなく、むしろ自分たちの暮らしのなかにどのように位置づけていくか。これまで「アーカイブ」は静的なものと思われてきたが、それをいかに自分たちの歴史として日常的に触れられるものにしていけるかの模索はつづいた。それは裏返すと、東北沿岸部が津波の常襲地でもあるからだ。
2014年、わすれン!活動の一端は展覧会「記録と想起・イメージの家を歩く」として公開された。台所や居間、寝室など生活空間を模した23部屋の連なりに映像が配置されたのは、わすれン!の映像が、どのような場所から生まれ、どのような場所に還されていくのかを示していたともいえる。また、会場に設置されたアンケートには、感想や来場者自身の震災体験などがたくさん寄せられたことで、展覧会が想起を生む「装置」として機能しているようにも感じられた。
民主主義のレッスン
あの当時の私たちは、奪われた命や失われたものに胸を痛めながらこれまでを見直し、「ほんとうに大事なものはなにか」を切実に問うていた。心はそれぞれに引き裂かれながらも、他者とともにいられる場を、対話によって生み出そうとしていた。その空気を醸成していたもののひとつに、メディアテーク館内で毎月開催されていた「てつがくカフェ」 があった。多いときは100人以上の参加もあったが、驚いたのは、多くの人が誰かと連れ立ってきたのではなく、ひとりで各々に集まってきてこの場が成り立っていたことだ。震災後の生活のなかで、被災の度合いや、原発に対する考えの相違など、家族や職場など既存のコミュニティ内だけでは抱えきれない課題がふくらみ、目に見えない隔たりがひろがっていた。そのとき、たとえ一期一会の場であっても、「震災を語ることへの〈負い目〉?」「震災の当事者とは誰か?」「故郷(ふるさと)を失うとは?」など、自分たちの生に直結する切実な問いが設定されたこの場は、かつて村落共同体で行なわれていた「寄り合い」のような機能があったのではないかと思える。ファシリテーターは世話人のように振る舞い、みなが落ち着いて他者の声を聞き合えるよう安全圏をつくり出そうと心を砕いていた。不安を吐露したり、時には苛立ちを隠さない参加者もあったけれど、互いの意見を聞き合うことで、最後には、ここに集う人びとによってたちあがったコミュニティの質の深まりを経験することがたびたびあった。ここでは総意をつくりあげることは目指されず、異なるものどうしがともにいられる場をいかに開いていくことができるかが試みられていた。その連続は、民主主義のレッスンのようにも感じた。あの大きな出来事のあと、誰かがまた別の誰かの伴走者であろうとしていた。そのうねりこそが、希望として私の目に映った。以来、アーティストや地域で活動する人々と協働し「対話の場」をこしらえることが、私の仕事のコアになっていった。
未曾有の物言い
「大津波や原発事故をもし『未曾有の出来事』と言うなら、それに対しては『未曾有の物言い』が用意されなければならないはずだ」と語ったのは写真家・畠山直哉だ。その言葉は、生まれ故郷や家族をあの大津波に奪われてしまったことへの憤りとともに、失われたものへの深いまなざしを感じさせた。2016年に開催された畠山直哉 写真展「まっぷたつの風景」では、2カ月の会期中に対談を3回、てつがくカフェを3回行なった。震災から5年の日々をままならないままに過ごしている人たちが東北にはたくさんいて、畠山はまず彼らに向けてこの場を開こうとしているように感じられたからだ。実際、会場には、あの日から自問自答を繰り返してきた人びとが多く集まり、なかには12回もこの展覧会に足を運んでくれた人もいた。
「未曾有の出来事」はひとりでは到底、手に負えない。向き合うには痛みが伴う。しかし淡々と「手間をかける」ことでしか向き合うことはできないと、ここに集った人びとはどこかで覚悟していたように思う。全6回にわたる対話の連なりを黒板に記し会場に展示したが、「未曾有の物言い」が体をなして現われたように感じられた。それは過剰な意味を求め過ぎるのものではなかったし、だからといって時に任せた諦めとも違った。これまでの出来事を一つひとつ問いなおし、その経験を語り共有することで、「明日」という不安定なものに対して再び身をひらいていく孵化の時でもあった。そして同時に、それぞれが歩んできた震災後の日々への労いが見られた。
在野の民話採訪者
もう二度と起こって欲しくないと願っても、災厄が場所も時も選ばずに襲いかかることは、この数年間を振り返るだけでも十分過ぎるほどだ。災害ユートピアが瞬く間にたたまれ、なおもつづくディストピアを生き抜いていくには、この経験がカタストロフとしてのみの破局を迎えることを回避しなければならない。
2018年にメディアテークを退職した私は、一冊の本を編むことに決めた。それは、仙台在住の民話採訪者・小野和子著『あいたくて ききたくて 旅にでる』(PUMPQUAKES、2020)という本で、著者の小野は、約50年ものあいだ東北の海辺の町や山奥の集落で語り継がれてきた民話を、一軒一軒、その戸をたたきながら聞き訪ねてきた在野の民話採訪者だ。
彼女の旅の根には、戦争があった。戦争を生き抜き、信じるに足るものを探す彼女の歩みは、あの大震災を経てもなお、諦めや冷笑からはほど遠かった。震災のあと、彼女の「聞く」ことを手放さない姿勢に、どれだけの表現者たちが励まされたかわからない。その交感の一端を伝えるものとして、濱口竜介(映画監督)、瀬尾夏美(アーティスト)、志賀理江子(写真家)の三者が寄稿してくれたが、これは奇しくも震災によってもたらされた出会いだった。
メキシコへ
震災後の10年間。さまざまな協働作業を経て、私はそれがアートなのか、それとも文学、あるいは写真なのか? というような分野やメディアの差にあまり意味を感じなくなっていった。それよりも世界に対して実現されていることを繋いでいき、そこに共通するものがなにかを知りたいと思うようになった。そしてたどり着いたのが、メキシコ南部のオアハカだ。もちろん、この街もいまだパンデミックの渦中にあるけれど、人びとのあいだに不思議な寛容さがある。
今日も通りには故障した車が一台。道ゆく人がわらわらと集まり、車を脇道まで押し上げると、ちりぢりに消えていった。彼らのように、なるべく役割を狭めずに、身体をひらいていたい。そのようなコミュニティに下支えされた表現活動がはたしてどんなものなのか。時間はかかるかもしれないけれど、息長くリサーチを続けたいと思っている。一見、遠回りのように思えるが、これらの経験が私のキュレーションの下地をつくるだろう。
星空と路
会期:2021年3月10日(水)〜2021年4月18日(日)
会場:せんだいメディアテーク 1階 オープンスクエアほか(仙台市青葉区春日町2-1)
記録と想起・イメージの家を歩く
会期:2014年11月15日(土)〜2015年1月12日(日)
会場:せんだいメディアテーク 6階 ギャラリー4200
畠山直哉 写真展「まっぷたつの風景」
会期:2016年11月3日(土)〜2017年1月8日(日)
会場:せんだいメディアテーク 6階 ギャラリー4200
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