2022年05月15日号
次回6月1日更新予定

フォーカス

越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》とは何であったのか?──2000年代日本現代アート論

彦坂尚嘉/木村静

2009年08月15日号

4:北川フラムのローカリゼーション開会式


開会式の記念写真。最前列下、中央の女性の右横にいるのが彦坂尚嘉
撮影=木村静


彦坂尚嘉(左)と北川フラム(右)。第4回のオープニング式典会場で。彦坂尚嘉と北川フラムは共に1946年生まれで、1969年以来の40年間の交友関係がある。
撮影=井上清仁

 越後妻有はあくまでも日本の田舎であって、トリエンナーレは現代美術を、この日本の現実に還元していくという、そういうローカリゼーションの美術展なのです。同時に、現代美術の前提価値そのものを解体していくという脱・構築運動であって、そのデコンストラクション性を評価する視点で見ていかないと、北川フラムというアートディレクターに対する正当な理解はできません。
 ローカリゼーション(localization)というのは、情報技術においては、コンピュータ・ソフトウェアを、現地語の環境に適合させることを言います。外国で開発されたソフトウェアを、日本で使用できるようにするためには、日本語に翻訳する必要があります。日本語化だけではなくて、プログラムを修正したり、プログラムコードを修正をしたり、ソフトウェアの仕様変更までも、が必要となります。したがって、いわゆる「翻訳する」というだけではなくて、最終的に日本の現実に適応できるものにしなければならないので、改造が必要です。こうした広義の翻訳やシステムの変更の行為をまとめて、ソフトウェアの「現地語化」、すなわち「ローカリゼーション」と言います。
 越後妻有トリエンナーレで、北川フラムがディレクターとしてやっている仕事は、欧米生まれの現代美術を日本語に翻訳し、さらに日本の田舎の現実に適応できるように、アートの質を修正したり、アートの個人性を消して社会性を強調したデザインワークに変質させたり(実例・カバコフの作品)、アートの高度な質を低くしたり、アートの仕様や様式の変更をしたり、アートの価値観や目的の変更を仕掛けているという、アート・ローカリゼーションの実践なのです。
 それは従来の芸術至上主義や、純粋芸術という価値観や、個人主義制作を解体して組み直す作業になります。住民参加の制作による作品の展開は、この近代個人主義的制作の、解体再編運動であったのです。それは《現代美術》というものを、日本の田舎という生活世界に基礎づけていくという、最終的な和物化/和風化運動であったのです。こうして現代美術の「現地語化」という仕事をしたのが北川フラムであって、その結果としていくつかの傑出したアートディレクション・アートが生まれました。


大地の芸術祭2003出品作品新田和成「ホワイトプロジェクト」
出典=越後妻有・大地の芸術祭のまわり方

アートフロント+新田和成「ホワイトプロジェクト」彦坂尚嘉責任の芸術分析
《超次元・超越領域》から《第41次元・崇高領域》までの多次元的な《真性の芸術》 。
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現 。
《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示 。
シニフィアン(記号表現)の芸術。[A級芸術]。

 代表的なのは、2003年の代表作のひとつとなった新田和成の「ホワイトプロジェクト」です。これは新田和成ひとりのアーティストとしての実力だけでは到底出来ない作品で、新田和成を素材にした北川フラムが主宰するアートフロント・ギャラリーの仕掛けたアートディレクション・アートであったように、私には見えました。
 《シリアス・アート》と《気晴らしアート》、そして《ハイアート》と《ローアート》の同時表示がこの「ホワイトプロジェクト」では成立していて、この事は情報社会のアートとしての新しさを示しています。「同時表示」ということを説明するのも、難解なのですが、白と黒とか、善と悪とかいった、2元対立の反対のものが、混じり合わないままに、同時に存在するという状態です。こうした状態が、情報化社会の新しい芸術の特徴となって来ているのです。

 こうした北川フラムのアートディレクションの豪腕さは、1988年から1990年の『アパルトヘイト否!』や、1994年の『ファーレ立川』でも際立っていましたが、特に私を驚かせるほどに屹立して来たのは、新田和成の『ホワイトプロジェクト』の前年の2002年、第二回大地の芸術祭プレイベントとして企画された「天空散華・妻有に乱舞するチューリップ・中川幸夫『花狂』」でした。あれこそは中川ひとりのアーティストとしての実力だけでは到底出来ない作品で、中川幸夫を素材にした北川フラムの仕掛けたアートディレクション・アートでありました。中川幸夫の初期構想が、いかなるプロセスで北川フラムによって変形されて拡大されていったかを論述すると長くなりますので省きますが、北川の驚くべき執念によって実現したもので、マス・メディアの利用も巧妙さを極めたものでした。

 図版:http://www.geocities.jp/fumimalu/hana.htm

北川フラム+中川幸夫+大野一雄の「花狂」に対する 《言語判定法》による彦坂尚嘉責任の芸術分析
《超次元・超越領域》から《第41次元・崇高領域》までの 多次元的な《真性の芸術》。
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現 。
《シリアス・アート》と《気晴らしアート》の同時表示 。
《ハイアート》と《ローアート》の同時表示 。
シニフィアン(記号表現)の芸術、[A級芸術]。

 すでにこの「花狂」でも、《シリアス・アート》と《気晴らしアート》、そして《ハイアート》と《ローアート》の同時表示が成立していて、この事は情報社会の情報アートとしての新しさを示しています。いや、逆で、もともとこの1日だけのイベントは、越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》を成功するために、情報戦として仕掛けられた「情報アート」であったのです。

 しかしアートフロント・ギャラリーの内部に取材して聞くと、1回目からの住民参加の制作そのものは、作家と住民の反応の自立的展開を無視できない動きであって、そのすべてを北川フラムのアートディレクションに帰するのは、事実経過としては無理があるように思いました。アートディレクション・アートの展開は、作家自身にもフィードバックされていって、相互増幅していったように思います。
 実例としては2003年の代表作家のひとりであった彦坂尚嘉の場合には、展示場所の田麦という山村に自らの本籍を移すということをやっています。次の2006年の代表作家となった菊池歩の「こころの花──あの頃へ」は、現地への移住によって、その長期性の中で制作されています。したがって、そのような作家の積極的な参加を引き起こすシステムを立ち上げ、作動させ得た北川フラムの豪腕は見事なものと評価するべきで、他の誰もマネの出来ない偉業であったと私は思います。
 菊池歩の作品「こころの花-あの頃へ」は大きな評判にはなって、現地の人気は非常に高いものでありました。しかし彦坂尚嘉の芸術分析では低くて、《第8次元宗教領域》のデザイン的エンターテイメント作品と判断します。しかも絶対零度の美術という、つまり原始美術でありまして、芸術的には[B級芸術]であったのです。

 図版:http://www.pref-niigata.jp/tokamachi/art/06/kikuchi_keiro/index.html

菊池歩「こころの花」_《言語判定法》による彦坂尚嘉責任の芸術分析。
《第8次元宗教領域》》のデザイン的エンターテイメント作品_ 。
《想像界》の美術。 絶対零度の美術(=原始美術)。《気晴らしアート》。 《ローアート》。
シニフィアン(記号表現)の芸術。[B級芸術]。

こうして越後妻有トリエンナーレ『大地の芸術祭』で作り出された「妻有アート」とも言うべき住民参加型の様式は、手の込んだ手芸、あるいは工芸とも言える作りと、奇妙に類似した構造の作品となって、しだいに固定化していきます。



大地の芸術祭2006出品作品
日本大学芸術学科彫刻コース有志「脱皮する家」
Photo: KazueKawase

《第6次元自然領域》のデザイン的エンターテイメント作品 。
《想像界》の美術。絶対零度の美術(=原始美術)。《気晴らしアート》。《ローアート》。
シニフィアン(記号表現)の芸術。[B級芸術]

 前回2006年のトリエンナーレで評判になった日本大学芸術学部彫刻コース有志による「脱皮する家」も、廃屋の中に展開されたオールオーバーの木彫工芸といったおもむきのものでありました。私の芸術分析では、《第6次元自然領域》のデザイン的エンターテイメント作品と判断されます。芸術ではなくて、工芸なのです。しかも菊池歩「こころの花──あの頃へ」と同様に絶対零度の美術(=原始美術)であり、《気晴らしアート》、《ローアート》なのです。
 これら大評判になった妻有様式の作品は、現代美術が、「手芸」や「工芸」という《ローアート》にローカリゼーションされたものです。ポロック的なオールオーバーの構造の上に展開される「手芸」や「工芸」として、屋外や、廃屋の中に反復して、妻有様式がバリエーション化し、しだいにマンネリ化して、つまらないものになっていきます。飽きるのです。芸術を脅かし、淘汰するものは、結局、この人間の飽きの問題です。


杉浦久子+杉浦友哉+昭和女子大学杉浦ゼミの「雪ノウチ」
撮影=木村静

彦坂尚嘉責任の芸術分析 
《第1次元社会的理性領域》から《第6次元自然領域》までの 多次元的なデザイン的エンターテイメント作品 。
《想像界》《象徴界》《現実界》の3界をもつ重層的な表現。
気体/液体/固体/絶対零度の4様態をもつ多層的な表現 。
《シリアス・アート》。《ハイアート》。
シニフィアン(記号表現)/シニフィエ(記号内容)の同時表示 。
《透視立体》。[A級美術]。

 そういう飽きの空気の中で、今回の、杉浦久子+杉浦友哉+昭和女子大学杉浦ゼミの「雪ノウチ」という作品は、このような住民参加型「妻有アート」の中でも際立つ秀作でありました。
 フロイトがいう《退化性》という私的歴史性をもった芸術作品ではありませんが、たいへんにフェニミンな美しさのある作品で、《1流》の《ハイアート》性をもつデザイン作品でした。合法的表現であって、私的な表現性が見えなくて、社会的公的性だけで成立しているので、エンターテイメントではあります。そして、作品は実体的ですので、ここでもエンターテイメント作品です。しかし、私の芸術分析で見る限り、「シニフィアン(記号表現)/シニフィエ(記号内容)の同時表示」という今日的な表現の重層性が達成されていることは非常に高く評価できます。この構造は、かつての古典芸術のシーニュ性が解体されてシニフィアン(記号表現)に還元されたモダンアートの限界を超える、情報化社会の芸術の新しさと言えるものだからです。それは「シニフィアン(記号表現)/シニフィエ(記号内容)の同時表示」という構造が、決してかつてのシーニュの復活ではなくて、離婚した夫婦が、また一緒に同席して並んでいるような、そうした非統合性において獲得される今日的なアート・クオリティです。ここにおいて、「妻有アート」がマンネリの原始美術性から脱して、次の飛躍を遂げ得る地平が示されていると言えます。

5:村上隆のグローバリゼーション

 「2000年代日本現代アート論」を考えようとすると、2000年代の日本美術に見られる動きには、北川フラムとは正反対の運動として、村上隆に代表される世界展開がありました。世界美術市場を真摯に学習した村上隆は、男性期と乳房を立てた喜多川歌磨呂風の現代版立体春画とも言うべき巨大フィギアで、グローバリゼーションの高額商品性を獲得していったのです。

図版;http://image.blog.livedoor.jp/dqnplus/imgs/b/8/b8e9874c.jpg

村上隆の作品に対する彦坂尚嘉責任の《言語判定法》による芸術分析 。
《想像界》の眼で《第13次元・喜劇領域》のデザイン的エンターテイメント作品 。
《象徴界》の眼で《第13次元・喜劇領域》のデザイン的エンターテイメント作品 。
《現実界》の眼で《第13次元・喜劇領域》の《真性の芸術》作品 。
《想像界》の表現 液体作品(=近代美術)。
《 気晴らしアート》。 《ローアート》。
シニフィエ(記号内容)の美術。
《原始立体》。[B級美術]。

 私の《言語判定法》による芸術分析では、村上隆の作品は《現実界》のところで《真性の芸術》性をもっているので、完全なデザインワークではなくて、芸術作品と言えるものではありました。
 それに対して、ほぼ同じ時期に台頭して来た中国現代絵画の場合は、純粋のデザインワークに彦坂尚嘉には見えるものが多かったのです。それは中国人自身が自分たちの顔を下品でばかな顔に自虐的に描いた漫画で、そのデザイン画に世界が熱狂した悪夢の時代でありました。

図版:http://hikosaka2.blog.so-net.ne.jp/2009-07-16

岳敏君の作品に対する彦坂尚嘉責任の《言語判定法》による芸術分析。
《想像界》の眼で《第21次元》のデザイン的エンターテイメント 。
《象徴界》の眼で《第21次元》のデザイン的エンターテイメント 。
《現実界》の眼で《第21次元》のデザイン的エンターテイメント 。
《想像界》の作品。 固体美術(=封建社会の美術)。《気晴らしアート》。《ローアート》 。
シニフィアン(記号表現)の美術。 
《原始平面》。『ペンキ絵』。[B級美術]。

 私の芸術分析では、中国現代絵画を代表する岳敏君の作品は、完全なデザイン的エンターテイメント作品であって、ひとかけらも芸術性はありません。しかも現代美術ではなくて、前近代の封建社会のデザイン画であります。この古い漫画が1億円を超えて取引されたというのは、まさに「根拠なき熱狂」の時代の悪夢でありました。
 いや中国だけではなくて、アフリカやインドからも同様の自虐性をもった現代アートが台頭して来ます。西欧の人が持っている侮蔑感のイメージに合わせたオリエンタリズムの作品なのですが、そういうものが台頭して来て、グローバリゼーションを体現する流通性として熱狂的に受け入れられたのです。

 インドの象をつかった現代アート作品であるバールティ・ケール「その皮膚は己の言語ではない言葉を語る」という作品も、《第41次元崇高領域》のデザイン的エンターテイメントであって、《真性の芸術》性は無いと私は芸術分析します。しかも固体美術(=封建社会の美術)《気晴らしアート》《ローアート》であって、とても現代アートと言えるものではないのです。

 図版:http://www.flickr.com/photos/chiaki/3048530501/

バールティ・ケールの作品に対する彦坂尚嘉責任の《言語判定法》による芸術分析 。
《想像界》の眼で《第41次元崇高領域》のデザイン的エンターテイメント 。
《象徴界》の眼で《第41次元崇高領域》のデザイン的エンターテイメント。
《現実界》の眼で《第41次元崇高領域》のデザイン的エンターテイメント。
《想像界》の作品。固体美術(=封建社会の美術)。 
《気晴らしアート》。《ローアート》。
シニフィアン(記号表現)の美術。 《原始立体》。[B級美術]。

 グローバリゼーションの中で、外国の他者に向かって自らの表現を成立させようとすると、ジャック・ラカンの主張した鏡像理論が成立してしまうのです。他者=欧米人という存在を鏡として設定してしまうと、欧米人の中に先入観としてある侮蔑化された非欧米人のイメージに自虐的に合わせない限り、世界市場に乗らないという現象が起きたのです。他者=欧米人が抱く先入観のイメージにこそ、私自身のセルフイメージがあるということになったのです。このことを主題に論じた大規模なアフリカ現代美術展「アフリカ・リミックス」が森美術館であって、アフリカ人のアイデンティティを巡る試行錯誤の歴史の展示とカタログ論文は、重要な視座を私たちに与えてくれました。
 日本人で、このセルフ・オリエンタリズムの不快感のある作品の先駆者に大浦信行がいます。昭和天皇をヒロヒトとよび侮蔑的に見る欧米人の眼に映る日本を、自らのアイデンティティ化した作品『遠近を抱えて』は、1982年から1985年にかけて制作された連作版画全14点ですが、これが日本国内でいくつかの社会問題を引き起こしたのです。昭和天皇の顔と女性ヌード写真をならべたり、笑っている昭和天皇の頭の上に原爆のキノコ雲の写真をコラージュするなどに、怒りを感じる日本人が出て来たのです。私見を申し上げれば、何よりもこの大浦作品が、彦坂尚嘉責任の芸術分析では《第21次元 愛欲領域》で作られていて、エロ写真などど同次元の低級性を持っている作品であった事です。大浦信行作品についてはすでに詳細に論じて、図版も掲載しているので、興味のある方はブログ(http://hikosaka.blog.so-net.ne.jp/2009-04-22)を見て下さい。
 この自虐的なセルフ・オリエンタリズムに満ちたグローバリゼーションのスペクタクルな幻影の中で、芸術としての根拠の無いデザイン的エンターテイメント作品が、熱狂的に受け入れられ、21世紀の最初の10年間である2000年代を覆(おお)いつくしたのです。それが2000年代美術の特徴だったのです。
 ここで重要なことは、《スペクタクル化》であったと、とりあえず整理して把握しておきたいと思います。

  • 越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》とは何であったのか?──2000年代日本現代アート論

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