フォーカス
越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》とは何であったのか?──2000年代日本現代アート論
彦坂尚嘉/木村静
2009年08月15日号
6:2000年代のアートのスペクタクル化
2000年代は、こうして北川フラムと村上隆という2人の偉大なカリスマによって、日本美術がローカリゼーションとグローバリゼーションの両方でスペクタル化した時代でした。(面白いのは、この二人は交差しなかったことです。北川フラムの発言には、キャラクターアートに対する否定の意識があることが垣間みられます)。
従来の銀座の貸し画廊を歩き回る画廊巡りや、美術館や博物館をひとりでコツコツと歩いて、ベンチの隅でお弁当を密やかに食べるといった貧乏臭い美術愛好家を、あざ笑い、時代遅れにする、圧倒的なアート現象の社会的スペクタクル化が2000年代にはかられたのです。しかし、このことは、アートシーンで独自に起きたものではなくて、後期資本主義社会が生み出すスペクタクル化という疎外現象のアート版に過ぎないのです。
ギ・ドゥボールが『スペクタクルの社会』(1967)で指摘したことは、多くの人々が受動的な観客の位置に押し込められた世界に、後期資本主義社会がなったということです。映画の観客のようにただ世界を眺めることしか残されていないという状態におかれたことをスペクタクル化と言い、これが資本主義の究極の統治形態だと言うのです。
情報化社会化が生み出す根拠無き疑似イベント性の危険性については、ダニエル・ブアースティンが『幻影の時代』という本で、もっと早い1964年に指摘していた事でした。私は、このダニエル・ブアースティンの著作を高校生で読んで、非常に大きな影響を受けた世代です。
2000年代の背後には1995年からのアメリカで起きたインターネットバブルと、2002年からのサブプライムローン・バブルという二つの過剰消費があったのであって、ドゥボールやブアースティンが警告していた社会のスペクトル化や幻影化は、極限まで増幅され、ロバート・シラーが指摘したように『根拠なき熱狂』でしかないバブルの波が2002年から2007年10月まで盛り上がり、そしてこの盛り上がりは,波が海岸で崩れて行くように、崩壊したのです。このアメリカの過剰消費が作り出すスペクタクル化の波に乗る形で新幹線の乗客までもが増大しただけでなくて、アートシーンも巨大化してスペクタクルになり、観客は傍観者としてながめるだけになったのです。
いや、それは芸術そのもの質としては長谷川祐子の主張した「アートとデザインの遺伝子を組み替える」事態となって、アートという名の元に、芸術性のひとかけらも無いデザインワークが、アートの幻影としてもてはやされる時代になったのです。ひとかけらも無いというのは、言い過ぎの部分がありますが、《近代》の純粋芸術は古くなり、衰弱したのです。それに変わって、疑似アートが跋扈し、芸術は、ただの幻影になってしまったのです。
しかし、高度消費社会の中で、資本主義そのものに対する根源的な否定意識も広がって来ています。そもそも資本主義そのものが《近代》が生み出したものであって、《近代》が衰弱して脱-近代化している時に、なぜに脱-資本主義の動きが起きないのでしょうか?そして、なぜ私たちは、すべての事に対して消費者として受身でなければいけないのか?消費そのものに対する反撃は、ます、なるべくお金を使わないようにする事です。こうした節約主義が若い人々の中に、うねりとして始まっています。ニューヨークでは、ホームレスでもない人々が、ゴミとして捨てられる食品をゴミ箱から拾って食べるまでされていると、ネットで読みました。自動車も持つ事を拒否する若者の増加は、新しい未来を感じさせます。高級乗用車を買うのではなくて、安いレンタカーやシェア・カーの利用が広がってきています。こうした高度消費社会と後期資本主義、そしてマスコミュニケーションの幻影操作に対する反撃の動きが、次第に社会の底流に広がっていきます。
アートという自由と信じられていたものが、勝手にデザイン化に転化され、一部の新興成金により誤読され、誤読に誤読が重ねられ、幻影の時代の中で、「根拠なき熱狂」の嵐が吹き荒れ、美術市場は異様に高騰し、現代アートの裸の王様化が進んでいったのが2000年代でした。村上隆の作品もしかり、現代美術としてもてはやされる作品は精巧なデザインや下品さまでも上手に取り込み、さも高尚であるかのように私たちを取り巻いて、幻影と、誤読の罠をしかけてきているように感じます。
こうした村上隆的なキャラクター・アートという新・偶像崇拝美術に対する嫌悪と反撃であるかのように振る舞う形で、越後妻有トリエンナーレの北川フラムの里山に対する思いは展開していったのですが、しかし同時に農舞台やキョロロ、そしてキナーレという幻影の巨大建築が建設されていきました。
まず、松代に建設された農舞台です。
アートと里山を同時に楽しめるフィールドミュージアムという掛け声で建設されたものです。
設計者MVRDV(エムブイアールディーブイ)というオランダのロッテルダムを拠点とする建築家集団で、1991年に設立されたものです。名前の由来は事務所設立時のメンバー──ヴィニー・マース(WinyMaas、1959)、ヤコブ・ファン・ライス(JacobvanRijs、1964)、ナタリー・デ・フリイス(NathaliedeVries、1965)──の三人の頭文字からとったものであるのです。ヴィニー・マースとヤコブ・ファン・ライスはレム・コールハースの主宰する建築設計事務所OMA(Office for Metropolitan Architecture)の出身です。
レム・コールハースは、1944年生まれのオランダの建築家。代表的な作品は、シアトル中央図書館(2004年)、カーサ・ダ・ムジカ(ポルトガル、ポルト、2004)などですが、私はこの両方を見にいっています。彦坂尚嘉責任の芸術分析では《第21次元 愛欲領域》の建築で、これは実は《第2次元・技術領域》の倒錯領域なのです。現在、中国中央電視台本部ビル(中国、北京、2004着工)が建設中ですが、コールハースは批判的に検討さられるべき建築家であると思います。
手塚貴晴設計のキョロロです。
里山と自然と文化の魅力と不思議を楽しく展示する科学館というコンセプトで建てられました。手塚貴晴(てづかたかはる)は、1964年生まれの建築家。東京都市大学准教授。ふじようちえん(立川市)で、2008年の日本建築学会賞を受賞しています。
今回の越後妻有では、廃屋を改造してイタリアンレストランにする仕事をしています。北川フラムのアートディレクションで、そのイタリアンレストランに、彦坂尚嘉のウッドペインティング・シリーズの小品5点が飾られています(作品番号229)。
3つめが原広司設計のキナーレです。
着物の歴史館や和グッズを販売する和装工芸館が設けられているほか、風呂と休憩室が揃った温泉「明石の湯」があります。原広司は1936年生まれの建築家。東京大学名誉教授。2001年京都駅ビルで、ブルネイ賞建築部門激励賞。
越後妻有トリエンナーレの総合ディレクターである北川フラムと、建築家・原広司は姻戚関係があります。北川フラム氏の人脈の大きさと厚さが、この越後妻有トリエンナーレを巨大なものにしているわけですが、同時にその次元は、こうした巨大建築を建設するという、《近代》特有の開発主義の性格を持っているのです。美術館関係者からは北川フラムが、アートゼネコンと陰口をたたかれたのは、単なる豪腕のアートディレクターに対する嫉妬やねたみだけとは言えないものがあります。実際に立川の再開発や、京都駅ビル建設等々に、深く関わって来ている実力のあるアート・ディレクターなのです。
越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》は、過疎化と少子化で衰弱化した地方とはいえ、田中角栄による列島改造計画の徹底化した、過剰にまで発達した道路とトンネル建設による道路網の完成した地域で行なわれています。この山岳地形の改造が完成した時に、人々の期待した幸せの幻影は消えて、若い人々はこの地を離れて都会に出ていってしまったのです。そして越後妻有の地は衰退したのです。
そこで政治スケジュールに入って来たのが平成の大合併でした。越後妻有トリエンナーレの根本には、6市町村の合併と言う《平成の大合併》の政治目的が潜在していたのであります。
日本の近代史は3回の《大合併》、つまり市町村合併の歴史です。まず明治維新による1988年の《明治の大合併》です。この市町村合併によって、約7万あった伝統的な村世界は解体され約15,000(5分の1)にされました。この変動は以後もすすめられて、最終的には7分の1の1万台になります。2度目が、敗戦による変革で、1953年から61年にかけて《昭和の大合併》が実施され、市町村数は約3500にまで統合されました。江戸時代の末期の20分の1にまでなったのです。そして《平成の大合併》では、市町村の数は1760まで減って、江戸時代の40分の1になったのです。
こうした小さな村の解体は正しかったのか?中国の老子は、人間の幸せは人生は、小さな村の中にあると看破して、小国寡民を説きました。これはひとつの真理なのです。フランスでは「フランスの最も美しい村」という協会があります。1982年に設立されたもので、その目的は質の良い遺産を多く持つ田舎の小さな村の観光を促進することにあります。協会ではブランドの信頼性と正当性を高めるために厳しい選考基準を設けています。その基準というのは、人口が2000人を超えないこと、そして最低2つの遺産・遺跡(景観、芸術、科学、歴史の面で)があり土地利用計画で保護のための政策が行われていることなどが、あります。したがって従って景観を破壊するような建物や設備は制限されるのです。このフランスの基準を機械的に当てはめろとは言いませんが、農舞台にしても、キョロロにしても、キナーレにしても、越後妻有の景観と調和した建築であったのか? という調和を巡る議論は必要であったはずであります。
しかしフランスとは正反対に、日本では小さな村は併合されて行き、住民の伝統的な生活世界は解体され、自動車が無ければ生活が出来ない広大な《大地》を形成するアメリカ化が進んで行ったのです。越後妻有における《大地の芸術祭》の「大地」は、アメリカナイズされた「大地」であり、この《大地》には、もはやかつての7万個の《日本の村》は無いのです。だからこそ、小さな山村は淘汰されて、過疎化と少子化は進み、住民の個数は減り、多くの地域が廃村に至る道を歩んでいるのです。こうした近代化による改造の極限の地域に、現代美術を移植することが、越後妻有トリエンナーレ《大地の芸術祭》でした。
北川フラムは1946年生まれで、私と同じ年齢です。私と北川フラムの根底には、ロバート・スミッソン、マイケル・ハイザー・ウォルター・デ・マリア、そしてクリストといったアーティストに熱狂した経験があります。つまり1960年代末のアースワーク、あるいはアース・アート、ランド・アートと呼ばれた芸術です。それらの流れはエンバイロンメンタル・アート、そしてサイトスペシフィック・アートなどと呼ばれた美術まで拡張されます。北川フラムの感性の中には、こうしたモダンアート最後の巨大化した美術に熱狂した感性が潜在していて、平成の大合併という里山のアメリカ化と、北川フラムの芸術観が共振を起こして、アメリカ型のアースワークの日本語への翻訳と言うローカリゼーションの形式が、北川フラムのアートディレクションの根底を成したように、私には見えます。
つまり里山の小さな世界を、巨大空間にスペクタクル化することが北川フラムの仕事であった可能性が、越後妻有トリエンナーレにはあるのです。実際、越後妻有トリエンナーレの作品は、スペクタクル・アートであるものが多い。
こうして2000年代の10年間のアートのスペクタクル化の幻影を押し進めた立役者として、北川フラムと村上隆という巨人が出現したのでした。
画像:http://blog.so-net.ne.jp/_pages/user/auth/article/index?blog_name=hikosaka2&id=14458939
彦坂尚嘉の《言語判定法》での分析で見る限り、彦坂尚嘉の《言語判定法》での分析で見る限り、村上隆は《第13次元・喜劇領域》、そして北川は《第6次元
自然領域》と、生きている次元そのものは違いますが、二人とも社会性の高いデザイン的エンターテイメント的な人格です。そして《シリアス人間》で、しかも「真実の人」であるという共通性があります。アートのスペクタクル化が、実はアートのデザイン化であり、幻影化であり、それがアートの社会性の増大であったことと、この2人のカリスマの人格構造は一致していたのです。
2000年代というのは、こうして村上隆の時代であると共に、北川フラムの越後妻有トリエンナーレの時代であったのです。二人の背後には1995年からのアメリカ社会の過剰消費の世界中への波及による「根拠なき熱狂」があり、そしてグローバリゼーションの中の自虐的で不快な「セルフ・オリエンタリズム」があり、さらに「日本の《大地》のアメリカゼーション」があったのです。
私自身は美術家として、この越後妻有トリエンナーレに第1回から全ての回に参加し、FloorEventシリーズを4回展開してきただけに、北川フラムによる10年間の魔術的な夢を感慨深く振り返らざるをえません。FloorEvent/フロアイベントというのは、自らが立つ床そのものを直視するというコンセプトの作品だからです。日本の《大地》がアメリカ化したという事実を直視しなければならなかったのです。そしてそのことは老子の説いた「小国寡民」性を失った事であり、日本人が幸せに生きる道を喪失したことを意味したのです。21世紀の日本人は不幸なのです。
この不幸さを超えるには、どうしたら良いのか? たぶん唯一残されているのは、新しい関係、つまり伝統的な血縁関係や、地縁関係、そして学閥関係や、会社企業共同体ではない新しい関係によって、小さな《島》を作る事でしょう。しかもそれが、インタネット関係であって、かつての様な固い関係ではなくて、流動性のより高い、気体分子状態という緩い関係の中で、形成して行く事のあると、私は考えています。
越後妻有の衰退を救う道も、携帯電話をどんな山奥でも使えるようにすることと、インタネット網を完備する事です。この事を抜きには、都会からの移住者も呼び込む事は出来ません。
7:目玉作品について
越後妻有トリエンナーレの目玉作品というと、今回のカタログの表紙は草間彌生であり、扉はアブラモヴィッチの夢の家であり、次はボルタンスキーです。これらの問題点を論じることは、いろいろな角度から可能ですが、まずボルタンスキーの作品を例にして考えておきたいと思います。
越後妻有という里山での芸術祭において重要視したいのは「いかに場所と調和しているか」という観点です。「フランスの最も美しい村」という協会とほぼ同一の視点です。里山には自然があり、そこに移り住んだ人がいて、その人たちの生活空間があります。つまり、この場所には元々ストーリーがあり、そこでの芸術表現活動においては、そのストーリーを前提として考えなければいけない。都会の自室や、お金で借り切った東京のギャラリーなど、一種の私的化された空間での表現よりもはるかに難易度が高い事と言えます。その点で、クリスチャン・ボルタンスキー+ジャン・カルマンによる「最後の教室」には、異論を唱えずにいられません。廃校になり、子供たちがいなくなった小学校にはもの悲しいものもありますし、廃校を再利用するプロジェクト自体は素晴らしいと思います。ガイドブックには美しい写真が掲載され、評価も高いようですが、しかし実際は蒸し暑く、干草の匂いがする真っ暗な体育館から、真っ暗な廊下を歩き、壁にかけられた額縁の中も黒い。廊下のくぼみには古着と思われる服がただ山のように積み重ねられている、2階には棺と思わせる直方体に白い布がかけてある、とにかく空恐ろしい場所になっていました。ちょうど、校舎を出たところで20代位の女性が二人、立ち話をしていました。「自分の学校がこんなふうにされちゃったら、嫌だな」。これにはまったく同感しました。かつて子供たちが走り回っていた体育館、廊下、教室、この場所にはストーリーがあります。確かに、過疎化は外側から見ると悲劇のように思われるかもしれません。しかし、忘れてならないのはこの場所に存在した息吹が、建物に、土地に残っているということです。そういう意味で調和する、という視点は大切にしてもらいたいことであったのです。
おそらくこうしたオーソドックスな調和への視点を逆転させる事で、この越後妻有トリエンナーレのかなりの部分は出来ているように思います。つまり調和を避けて、古典的な意味での調和を否定して、不調和にする事で、芸術という名前は成立していると、作家が信じているように見えるものが多いということです。
不調和にするひとつの方法が、ボルタンスキーに見られる廃墟性や、崩壊性の強調です。廃墟や崩壊が、人を惹きつけるのは確かなのですが、しかし【崩壊=芸術】であると定義は出来ないのです。もしも出来るのであれば原爆で破壊された直後の広島や長崎は芸術であるということになるし、9・11のテロで崩壊したツインタワーとそこでの多くの死者の山は芸術であると言う事になってしまうのです。
さて、もう一つ不調和を生み出す価値観は、「ばさら」です。この「ばさら」についての説明は長くなるので、まず、廃墟性や崩壊性についてみてみましょう。
今回の目玉作家の塩田千春の作品です。塩田千春の作品は、彦坂尚嘉責任の芸術分析では《第16次元》であって、それは《崩壊領域》の芸術作品であったのです。
《第16次元
崩壊領域》については塩田千春に関する下記で聞いてください。
さて、次に、「ばさら」について語りますが、その前に不調和性について、少し考えます。
不調和性というのは、芸術であることを根拠づけるものなのか?
彦坂尚嘉責任の芸術分析からみると、越後妻有トリエンナーレの目玉の作品のほとんど全部はデザイン的エンターテイメント作品であって、《真性の芸術》として評価することができません。長谷川裕子が言うように「アートとデザインの遺伝子を組み替える」ことが実際に行なわれていて、これらの目玉作品の社会的デザイン性が高い事は充分に認めますが、《真性の芸術》性は欠けているのです。
つまり「フランスの最も美しい村」という協会が提示している調和性の視点から見ると越後妻有の自然や生活世界に不調和であっても、その問題の多くはデザイン的エンターテイメント作品の問題であり、そして不調和の多くの原因が「芸術の名において」(ティエリード・デューヴ)つくられる、《真性の芸術》の芸術性のひとかけらも無い、疑似イベント的な幻影アートであるデザイン的エンターテイメント作品の特徴なのではないでしょうか。このことを代表する草間彌生の作品を芸術分析してみます。
草間彌生の毒々しい花に象徴されることですが、下品でけばけばしく不調和であることが、まるで現代芸術であることの証明であるかのようになっているのです。
それは芸術論的には、日本の中にある「ばさら」の系譜を、芸術であると錯誤する事から起きています。
これについて詳しく論じたのは上林澄雄の「日本反文化の伝統」(エナジー叢書、1973年)です。この本は、日本社会に歴史的に存在する流行性集団舞踏狂の流行を分析したものでした。上林澄雄は、大きな権力移動が起きる前に、民衆の中に狂舞が繰り返し発生してきたことを発見し、その分析を通して、日本の文明構造の二元的な亀裂を明らかにしています。
日本文化には、《文明》対《原始世界》という重要な対立構造が潜在しているのです。外国から高度の人工的な新文明が日本に入ってきて、それを輸入し喜んで学び、支配者たちはこの《輸入文明》、例えば仏教やあるいは西洋文化を背景にして民衆を支配するのですが、支配される民衆の中には、文明以前の、狩猟採集文化、つまり無文字段階の野蛮な文化が脈々と流れていて、上級の文字をもった《輸入文明》=リテラシーに対して、常に反抗的な姿勢があるというのです。しかし問題が複雑なのは、反抗的な姿勢が屈折していることです。反抗自体が識字性をもつ《輸入文明》に触発され、反発しつつ、にもかかわらず模倣し、なぞりつつ解体し、伝統的な無文字の野蛮文化の身体的な等身大の生活世界のボキャブラリーの中に還元し、あざ笑うことに表現を見出していくという、複雑な摂取と解体の流れがあり、「ばさら」とか「かぶく」とか言われる美意識となります。
「ばさら」「かぶく」という言葉を、辞書でひいてみると次のようにあります。
「ばさら[婆裟羅]室町時代の流行語。(1)遠慮なくふるまうこと。乱暴。(2)はでに飾り立てて、いばること。だて。(3)しどけなく乱れること」
「かぶく[傾く](1)頭がかたむく。かしぐ。(2)派手で異様なふるまい・みなりをする」(『日本語大辞典』講談社1989)
つまり日本の中には乱暴で、派手に飾り立てて、しどけなく乱れる表現の系譜があるのですが、これが室町時代に「ばさら」とか「かぶく」というような言葉で姿をあらわし、それはしかし不自然なものであり、異様で、派手で、エキセントリックで、《異端の系譜》の源流とも言うべきものになるのです。
これを戦後日本美術に当てはめて、分かりやすく言えば、それは敗戦後の岡本太郎によって唱えられた縄文主義であり、対極主義であり、あのどぎつい派手な色合いの絵画であり、岡本太郎の「芸術は爆発だ」と力んでみせる歌舞伎の見栄を切るようなパフォーマンスなのです。
この岡本太郎が反抗していたのは、実は日本の古典や近代化された日本画ではなくて、ピカソに代表されるヨーロッパの前衛美術であり、ピカソと岡本太郎の間にある反発と反抗の関係こそが、「日本の前衛」の構造なのです。ピカソと岡本太郎は原始美術を、アフリカの黒人彫刻や、中期縄文の火炎式土器などに見いだして、同じように原始美術を肯定して、そこから大きなインスピレーションを受けて絵画を描いていています。しかしピカソの絵画、たとえば「アヴィニヨンの娘たち」は、モダンアートであって、しかも《オプティカル・イルージョン》の絵画であるのです。それに対して岡本太郎の絵画は、《ペンキ絵》であって、モダンアートではなくて、むしろ色つきの劇画というべき原始美術なのです。ジャック・ラカンの用語を使えば、ピカソの「アヴィニヨンの娘たち」は《象徴界》の芸術ですが、岡本太郎の作品は《現実界》の作品と言えます。
敗戦後の日本の現代美術の中には、こうしたピカソをはじめとする欧米美術に刺激されつつ、これに反発して、より過激に反抗の身振りをする〈日本反文化の伝統〉を引き継ぐ《現実界》の《ペンキ絵》の美術が異常繁殖していきます。戦前の日本画や洋画には、こうした「ばさら」は見られないので、1945年の大日本帝国の敗戦と、深く関わった原始的なものへの退化現象と言えると、私は思います。
こうした岡本太郎的な下品な色彩が、草間彌生の毒々しい花にも引き継がれているのです。彦坂尚嘉の私見では、これは芸術ではなくて、「ばさら」なのです。
さて、ここで北川フラムのローカリゼーションの運動との関連が見えて来ます。
北川フラムは、越後妻有の大地の上で、何をやろうとして、草間彌生の毒毒しい花を、その象徴として飾ったのか?
北川フラム自体が目指したものが、「芸術」ではなくて、「ばさら」であったのではないのか?
「ばさら」は、日本文化のなかにある《文明》対《原始世界》という、対立構造に根ざしているのです。そして越後妻有の里山に潜在しているものは、当然のように無文字的な野蛮な原始的な自給自足の生活世界であったのです。私が入ったのは田麦という山村です。ですのでこの山村について語る事で、日本のこの二元構造を説明したいと思います。この山村というのは、離島とともに、日本のもっとも遅れた地域とされていました。かつて1950年代の日本共産党は、毛沢東の中国革命を真似して、「農村部でのゲリラ戦」を規定した新たな方針「日本共産党の当面の要求」を採択して、この山村からの武装革命を目指して、武力闘争を開始しました。これに連動して映画監督や草月流の家元になる前の勅使河原宏や、同じく映画監督になる土本典昭、そして画家の山下菊二などが参加しました。ここでの殺人事件をテーマに山下菊二の名作『あけぼの村物語』(1953年)が描かれたのです。こういう歴史的な興味もあって、私は日本の一番遅れた地域である山村での聞き取り調査をしました。分かった事は、東京オリンピックのあった1964年まで、山村には原始的とも言える自給自足経済が、ほぼ完全に残っていて、食料や衣料、住居などを自分自身で生産または製作して生活していたのです。必要な食料は自分で畑や田んぼを耕し穀物や野菜、果物を育て収穫して食すという生活スタイルです。衣料や住居も自分で作り生活するという傾向も、強くあったのです。多くのものは藁でつくり、草蛙(わらじ)をなって履き、田んぼまで草蛙で歩いて行って、裸足で田んぼに入っていたのです。着るものも藁でつくった蓑が重要なものであったのです。ところが東京オリンピックが開催されると、村に自動車が来て、それから急速に村の生活が変わって行きます。まず女性が自動車の免許を取って、町まで毎日働きに出るようになります。村にはトラクターなどの農業機械が入ってきて、そうすると本家を中心に共同作業をしていた農村の秩序は一挙に崩れて、各自が借金をしてトラクターを一軒一台買うようになり、原始共産主義的な相互扶助の仕組みが崩壊して行ったのです。
これら農民の話は、訛が強いのですが、文字を書き起こそうとすると、地元の若い人でも、かなり困難でることが分かりました。方言というのは、文字に対応性の無い音が多くて、つまり無文字段階の日本語の伝統が生きていたのでした。
何を言いたいかというと、里山というのは、無文字段階、つまり文明以前の原始的な伝統が生きているのであって、それが日本の「ばさら」を成立させる構造なのです。
そうすると、この越後妻有の里山の大地に、現代美術をローカリゼーションした北川フラムの行為は、「芸術」をめざしたものではなくて、「ばさら」であったのではないのか?
越後妻有はあくまでも日本の田舎であって、越後妻有トリエンナーレは、現代美術を、この日本の現実に還元していくという、そういうローカリゼーションの美術展であったのです。それは同時に、現代美術の前提価値そのものを解体していくという脱-構築運動であって、そのデコンストラクション性を評価する視点で見ていかないと、北川フラムというアートディレクターに対する正統な理解はできないと、私は書きました。このローカリゼーションの仕事というのは、上林澄雄の「日本反文化の伝統」が指摘している、「ばさら」と、重なるものがあります。つまり外国から高度のアーティストをつれてきて作品を作らせる。それは2000年の第1回が際立って激しく、当初の総予算のかなりの量がここにつぎ込まれました。こうして新文明ともいうべき現代アートが越後妻有の大地の上にパーマネントコレクションとしてつくられて、そうした輸入芸術を喜んで学ぶのですが民衆の中には、強い反発が生まれました。特に第1回での冷たさは凄いものでありました。私は5泊6日で見て回りましたが、この住民の無視の冷ややかさは、肌身に感じました。文明以前の、狩猟採集文化、つまり無文字段階の野蛮な文化が脈々と流れている越後妻有の地で、《輸入芸術》=リテラシーに対して、反抗的な姿勢が生まれるのは、に日本の「ばさら」の構造では、伝統的なものであったのです。。しかし問題は複雑に屈折して、反抗的な姿勢が屈折して、この大地の芸術祭を受け入れる方向に反転して、反抗自体が識字性をもつ《輸入芸術》に触発され、反発しつつ、にもかかわらず模倣し、なぞりつつ解体し、伝統的な無文字の野蛮文化の身体的な等身大の生活世界のボキャブラリーの中に還元し、自分たちに分かる手芸や工芸のレベルに落とす事で喜ぶと言う可能性に表現を見出していくという、複雑な摂取と解体の流れが越後妻有トリエンナーレの、この4回の過程に見て取れるのです。
越後妻有トリエンナーレで、北川フラムがディレクターとしてやっている仕事は、欧米生まれの現代美術を日本語に翻訳し、さらに日本の田舎の現実に適応できるように、アートの質を修正したり、アートの個人性を消して社会性を強調したデザインワークに変質させたり、アートの高度な質を低くしたり、アートの仕様や様式の変更をしたり、アートの価値観や目的の変更を仕掛けているという、アート・ローカリゼーションの実践なのでしたが、この行為は、実は日本の伝統では「ばさら」と呼ばれた,プロセスであったのです。
それゆえに、従来の芸術至上主義や、純粋芸術という価値観や、個人主義制作を解体して、伝統的な身の丈の、無文字文化とさえ言える素朴な原始的な手芸や工芸を愛して愛でる感性と、その制作態度に組み直す作業になります。住民参加の制作による作品の展開は、この近代個人主義的制作の、「ばさら」的な解体再編運動であったのです。それは《現代美術》というものを、日本の田舎という生活世界に解体して原始化していくという、最終的な和物化/和風化運動であったのです。こうして現代美術の「現地語化」という「ばさら」の仕事をしたのが北川フラムであって、それゆえにこそ、越後妻有トリエンナーレの象徴となる作品は、草間彌生のド派手で悪趣味な毒々しい「ばさら」の花になったのではないでしょうか。
敗戦後の日本の現代美術の根底には、この「ばさら」性があるので、とりたてて北川フラムだけの問題ではありません。しかしこのことから、実は日本の現代美術が砂上の楼閣であって、制度的にも継続が出来てこなかった秘密が分かるのです。
むかし東京版画ビエンナーレという国際展を、東京国立近代美術館は主催していましたが、これはいつのまにか無くなりました。毎日新聞主催の東京ビエンナーレも消えました。NICAFというアートフェアも崩壊しました。横浜トリエンナーレも、不甲斐ない展開で、もうすぐ終了すると言う感じです。これら日本の美術制度が基弱であるのは、土台が文明ではなくて、土台が「ばさら」の成立する原始の野蛮世界だからです。言い換えると、日本の基盤が、文明ではなくて、自然であると言う事です。
文明というのはエジプト文明に代表されるように、5000年間も変わらないという不変性があるのですが、自然というのは複雑系でありまして、変化し続けるのです。それは賽の河原のようであって、変化し続ける故に、継続ができず、積み上げた石はすぐに崩れるのです。
ここに、ヨーロッパの文化がもつ、たとえばベニスビネンナーレが100年続くと言う継続性と、東京版画ビエンナーレがいつの間にか消えるという事の差を生み出す構造があります。
そう言う意味では、越後妻有トリエンナーレの基盤が「ばさら」であり、北川フラムが「ばさら」であるのなら、越後妻有トリエンナーレは、日本のいつものパターンで、消えてなくなるでありましょう。そう予測できるのです。私は、しかし継続を望んでいます。つまりこの予測は、あくまでも現在の不安定性を乗り越えるために言っているのです。そこで出てくると言いは、次の様なものです。 日本の中に文明がないのか? あるのです。
上林澄雄の「日本反文化の伝統」が指摘したように、日本は2重構造なのです。 「ばさら」という野蛮もあるのですが、同時に文明も存在しているのです。ただ言えることは、越後妻有トリエンナーレは文明の系譜ではなくて「ばさら」という自然で野蛮な系譜であったらしいという事です。それは、越後妻有トリエンナーレだけでなくて、日本の現代美術や現代アートの、大半に言える事のように思います。
たぶん、このことを乗り越える事は不可能なのです。まず、この不可能性を認める事が重要な事だと思います。不可能だという事を知った上で、それを乗り越えて継続するシステムを構築する事です。
大地の芸術祭──越後妻有アートトリエンナーレ2009
会場:越後妻有地域(新潟県十日町市、津南町)760km2