フォーカス

盒の中のパフォーマンス

多田麻美

2010年12月01日号

 冬の北京はパフォーマンスがよく似合う。凍りつくような空気と、「身体で勝負」がメインの、時に肉体的限界にチャレンジするような表現との組み合わせが、観る者の五官に強いインパクトを残すからだろう。その意味で、野ざらしの寒さも、石炭ストーブの煙たさも作品の一部だとさえ言える。だが今年の11月の北京では幸い、暖かい室内でじっくりとパフォーマンスを鑑賞することができた。

多様化するパフォーマンス

 ここ数年、北京ではパフォーマンス・アートがあまり注目されない状態が続いてきた。その理由としてよく挙げられるのが、対立や反抗の対象とするものの消失だ。中国現代アート作品をめぐる環境が整備され、表現も比較的自由になった、あるいはアートバブルで芸術が商品経済とあまりに結びついてしまった今、中国のパフォーマンス・アートは勢いを失った、という見方もあり、それも納得できる。
 確かに昨今の北京における表現の自由をめぐる動きについては、頻繁に検閲を受けたり、自己規制を強いられたりするメディア・出版関係者や文学作家たちの訴えの方が、アーティストのそれよりずっと大きくクローズ・アップされている。また、この秋798芸術区の「PACE BEIJING」で行なわれた1990年代の著名なパフォーマンスのビデオ作品を集めた「GREAT PERFORMANCES」展も、ある意味で中国のパフォーマンス・アートが回顧、総括される時期に来たことを象徴している。
 だがだからといって、現代アート作家たちが沈黙してしまったのかというと、もちろんそうではない。ある関係者の話では、実際はパフォーマンス・アートを行なうアーティストの数は、減るどころか増えてさえいる、という。
 では、なぜ彼らは以前ほど関心を集めなくなったのか。彼らが傾向の上でも、表現の上でもまとまった動きをとらず、その表現する内容も多様化したからではないか、と筆者は感じている。

スクリーンを徘徊する男

 パフォーマンスであれば、現場で鑑賞できるに越したことはないが、なかなかそうも言っていられない。また、ひとりの人間がいくつものパフォーマンスを行なうことが効果的な場合、同一の人間の複数のパフォーマンスを一気に放映できる映像の方がむしろ適しているようだ。
 草場地の「站台中国(Platform China)」で行なわれた金閃(ジン・シャン)の「一個人的島嶼」(一人の島嶼)展は、アーティストが自らのアトリエで撮影した50のパフォーマンスをプロジェクターやテレビの画面を通じて同時に流し続けたもの。
 各段の角度が微妙に違う、梁碩の《第二の改造を経た階段》という作品兼階段を二階に上がると、窓のない広大な空間の中で、無数の青白い画面が光っている。作品には、三つのスツールの上を繰り返し徘徊するアーティストを撮影した《一人の島嶼》、赤い布で身をくるんで転げまわる《眠れない》、二つの手がじゃんけんのチョキをしたまま、おあいこ状態でブルブルと震える《二つの王国》、口にくわえたスプーンをひたすら上下に動かし続ける《時計》、誕生日の帽子とサンタクロースのひげをつけた夢見心地の男を映した《私は月曜の晩の虹を見た》など。
 いずれも一見、閉じられた思考の中で反復される荒唐無稽な独り遊び、または単純な退屈しのぎに見えるが、じっと見つめていると、その閉塞的に見える行為が、実は国家や政治、社会といった大きな概念の寓意であり、それらを敢えて狭い空間の中の、身体という身近で限られた媒体の中に閉じ込めているのだ、と感じられてくる。まるで思考する人間の孤独を、内面からではなく、第三者の目から描いているかのようである。


金閃(ジン・シャン)の「一個人的島嶼」(一人の島嶼)」展の会場[写真:張全]

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